4月5日
不安。そのようなものが漠然としてある気がする。それはあまりにも漠然としすぎていて、どうしたらいいのかもよくわかっていなくて、とりあえずそのままにしている。現代ではそういったことも少なくないと思う。常に抱え込んでいる、意味のわからなくて説明もつかないものがある。それらの核心には触れられない。だからなんとなくスマホを触ってごまかしたりする。酒を呑んでごまかしたりもする。人と会って話していくうちに消えていったりもする。一人でいるとき、どこか遠い空に向かうような意識が芽生えたりして、それが着地点のない不安であることに気づく。今、自分の隣にはそれがいる。
大概、不安はただの思い過ごしでしかなく、未来は勝手な方向に進んでいくしかないので、不安に満ちていても仕方がない。しかし安心に満ちてもまた同じことで、これまた仕方がない。だから考えても、考えてしまっても、まあまあな未来があるものでしかない。それを自分なりにわかった気持ちでいて、不安を隣に置いておくしかない。しかし、不安なんて大したものでないと知っていても、不安はやってくるものである。自分は今初めてのものとして、それを経験した。不安は諦めてもやってくること。どのみち気持ちの高低さは自然現象としてあるものだと悟っていても、それはそれとしてやってくるものなのだ。ますます抵抗する気も失せてくる。
しかし、何事をもこなしていくにあたって、気持ちの沈んでいる状態は、少々邪魔くさい。やることは決まっていて、やりたいことはそれに向けているだけの話なのに、気持ちが下がっていては物事の進行具合も遅い気がする。そしてインプットされていくべきものも、脳内にかかっている靄がガードして、入り込んでくれない。じゃあ結局、不安とか心配とかというものは隣に置いておく時点で癌なのだ。これは由々しき事態である。そう考えると今度は焦りが到来する。苛立ちが顔を見せに来る。さらには自己嫌悪もついてくる。そうやってさまざまなものがこぞって押し寄せる。最終的には混ざり合って、何と呼べばいいのかわからないものに仕上がっている。
そこまで行けば、もうどうでもよくなってくる。むしろそんなジャンクなものたちをうまく活用できないかという意識の転換も考えていく。それこそが今の原動力だと思う。大人になればそれが一つの行動力になるものだと思っている。子どもの頃のような、好きな気持ち一つで動けるものではない、大人の生き物。いろんなものを混ぜこぜにしてしまって、結局それでしか生きていけないから、それでやる。ある種の諦めみたいなものだ。結局、自分はまた不安を隣に置いておく。