星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

作家の死。

2023-03-26 23:48:29 | 日記

3月26日

 

大江健三郎が亡くなったのは今月の3日のことだそうだ。普段、時事ニュースにあまり目を通すことのない私がそれを知ったのは、彼が亡くなったその2週間後のことであった。たまたまコンビニで買った朝日新聞にその内容が伝えられていた。小梅線で佐久平駅へと向かう、豊かな自然の間を縫いながら進む列車の中で、その記事を見ていた。

 

なんとなくだが、彼はもう少し長生きするものだと思い込んでいた。別に自分が大江健三郎の何を知っているわけでもない、ただの妄想にすぎない話ではあるが。でも三島由紀夫も、安倍公房も、自分の好きな作家はみんな自分が生まれる前には亡くなっていて、でもその中でも大江健三郎はほぼ唯一といっていいほどに、今に生きる伝説だった。その事実が自分の中で、文学に望むことのできる希望のような道筋ではあったのだ。でもそれもまた過去の話となったのだ。

 

人は亡くなるという実感が、普段から稀薄なのは、今に始まった事ではない。自分が白状な人間だということを言いたいわけではない。ただ日常を何気なく過ごすと、人はあっという間に死から遠ざかった状態で日々を過ごしてしまうものだ。どれだけ日々を慈しんでも、どれだけ周りの人たちに敬意を持ってしてもそれには限界がある。そして作品を残す者たち、作家、音楽家、画家、映画監督、最近ではユーチューバーなどに対しても、敬意を示しているつもりであり、有限の命を持っているものだと意識してはいるのだ。

 

ただ、その作品を残す者たちが創って完成した作品は、寿命が縮むわけでもなく、永遠に輝き続ける。その輝きが、ついその作者たち本人が照らしている無限の光に思えてしまうのだ。しかし現実はそうではない。数多の作品を残した文豪でさえ、神はその命を奪ってしまう。その虚しさがやってきて初めて、言葉上だけではなく、作品を残す人たちの死を強く実感することになるわけだ。これで自分は、彼が天寿を全うした時代に生きたことになり、生きていくことになる。そしてこれからもそんな、たくさんの死を見ていく時代を生きることになる。これから何人もの死を見送り、見届け、知り、そして感じることだろうか。そして自分の死は、誰が見送り、見届け、知ってくれるのか。そう考えると、怖い。じわじわとその予感がせまってくるようで、少し肌寒いように怖いのだ。でもいつかは来ることではあるから、意識せざるを得ない。ご冥福をお祈りします。


文章に情感を

2023-03-06 23:15:27 | 日記

3月6日

 

明日明後日と休みが続くのでとりあえずは呑気に過ごすつもりではあるが、如何せん山ばかりの野辺山ではいい加減に暇が過ぎるわけである。こんな生活ももう3ヶ月となり、そんな年月の経過を、果たして早いと見るか遅いと見るか、それも判別がつかないものである。なんとなしにkindleで読み始めた国木田独歩の作品集を読み進めてはその文章力に舌を巻いたり、同じ物書きとしての天地の差にげんなりもしてしまう。天地の差と言っても当たり前であるが、自分が地の方である。卑下するわけでもなく現実的に見てもそうである。いやそもそも自分の実力とか実利がどの程度なのかすらもわかりやしない、その域を出ないもの程度なのだからいうまでもないのである。自分の程度が知りたいからこうしてブログを書くわけであり、なおかつもっと色んな人に見てもらいたいのは自分の中に強くある希望である。しかしそのためにはここで文章を書いているだけではどうにも足りていないものがあることを痛感してしまうわけでもある。

 

しかし文章を書くと言ってもそのスタイルは一言でまとめられるものではないのは既知の通りである。音楽のジャンルを一言でまとめあげられないのと同じように、西洋絵画の派閥を一言でまとめあげられないのと同じように。しかし文章というものは音楽や絵などと違って、より一層情報伝達の手段、ツールのようなものとして扱われることが非常に多い。ゆえに娯楽としての役割、精神的な豊かさにダイレクトに伝わえられる芸術のものとは少し違う気もする。音楽であればその理論を理解していなくても、曲に感動することはできるし、絵に至っては子供の頃から自分で好き勝手に描いたりして楽しむことだってできる。しかし文章はまず言葉を覚えなければいけない、読解力を養わなければならない。意味を理解して、その意味を理解した上での想像を働かせて、読書というものが成り立つわけである。その上、ただ文字を読んでいるだけでその先の脳内世界で話が広がっていく、しかし他人から見ればその当人に何の変化も見られないというのも読書の特徴である。ギターを弾いている人、絵を描いている人に比べたら、本を読む人なんて側から見れば果てしなく地味である。

 

そもそもの話、文章を読んだ上で想像を働かせるべきなのはあくまで娯楽としての文章に限った話である。詩や小説なんかはそこの精神世界に影響を与えるべくして有るべきだと自分は考えているが、たとえば自己啓発書の類、大学のレポート、いわば芸術や娯楽以外での文章というものは、文章の意味を文章のままに受け取るのが基本的な読解スタイルだと考えられる。これは自分みたいに、ついあれこれと物事に変な妄想が入ってしまう人間には、読み進めていくのが辛いものの類だったりするわけである。脳みそなんて余計なことばかり考えるのだから、それがまた楽しいものであるわけで、しかし情報ツールとしての文章はその領域から逸脱することを良しとしない。

 

たとえば何某のサイトやアプリの会員登録をするさいに表示される同意書なんかが思い当たる。あれをくまなく読み終えて意味を理解してる人などほとんどいないと思うが、あれこそまさに余計な私情を挟んではならないものだろう。結局は文章とは意味を伝えるためのものでしかない。それにどんな意味が加わって、どれくらい味を噛み締めるのかは読み手次第なところがある。会員登録の同意書にだって、シェイクスピア並みの情感を感じる人が出てきたって構わないのだ。そんな人がいれば是非ともyoutubeなりnoteなりでレビューしてほしいものだが。とりあえずは情感を忘れないことが大切なのかもしれない。


振り返りに向き合えない昨今

2023-03-05 23:57:03 | 日記

3月5日  

 

昨日書いた通り、振り返りたいことが山積みではあるのだが結局のところ、今日の作業は過去に書いたモーニングページを数ページだけ読み返しただけで終わったのだった。何しろそのモーニングページとやらはA4ノートにびっしりと文字が埋め尽くされている始末で、こんなもの1ページ読むのにだって結構な徒労である。しかも自分の思うがままを書き殴っているだけのものであるから、文章力もクソもあったものではない。字も雑なので読みづらく、モーニングページの内容に対して興味が湧いてくる前に読む進めるのを諦めてしまった。そして今日、仕事以外では大したことをしないままで、また1日が終わりそうだ。この行動力のなさ、モチベーションの低さはどうあがいたって簡単に治るものではないらしい。もはや慣れてしまったこんな自分に今更嘆いたり苛立ったりすることもない。自分なんて所詮こんなものだともわかりきっているのだから。

 

でもやりたいことがこれだけ山ほどあって、そして前を進むごとに振り返るべきものが積み重ねられている事実は変わらないわけだ。だから絶対に取り組むべきことは、今まで書いてきたものを少しずつでも見返す作業になるわけだけれども、慣れていないことをするのって本当に大変なのだなと改めて痛感してしまった。おかしなことに、どう考えたって文章を書く作業よりも読み返す作業の方が楽なのに、自分は書く方に力を振り切りすぎて読み返す方が苦痛なのである。なんというか、読み返すと自分のできていないところ、間違えや不完全なところと向き合うことになってしまうのでそれが嫌なのだ。これができていない、あれができていないと、一々気付いてしまうことだらけになるともうやってられない。そんなことですら足掻くことのできない自分、自己肯定感に著しく欠けた点が弱みとして顕著に表れている。間違えなんて日頃からたくさんあるはずなのに。どうにかしてごまかしたくなる。

 

しかしいくらごまかしたって、見ないふりをしたって、いつかは向き合うべきものばかりである。もはやこの世の中自体がめんどくさいとついつい厭世が出てしまう。そんな方向に向かってしまうのもおなじみの流れだ。こうした厭世観に紛れ込ませたってやるべきことはやらなければいけないのは変わらないし、避けることのできない課題であろう。だから振り返りは絶対する。少しでもいいから挑戦することが大事なのだ。書くことないからとか言い訳せずに原稿用紙に向かうこともまた大事なのだ。そんな大事なことに囲まれて生きているのだと意識すれば、自ずと緊張感が生まれる。やらなければいけないことがたくさんある。だからちょっとでいい、一ミリでもいいから向き合うことに慣れていこう。そんな自己暗示をする昨今である。


少しくらいは振り返るべし

2023-03-04 22:57:07 | 日記

3月4日

 

隙あらば文章を書く日々の繰り返しである。ある時はモーニングページに、そしてある時はこのブログに。よくぞまあ飽きずに書いているわけである。しかし書くのはいいけれど読み返すのもまた大事ではある。自分は文章を書いているわりに、その書き上げた文章を振り返る機会がとても少ない。もう先週書いたことなんてとっくに忘れてしまっているのが現実だ。読み返さないからどんなものができあがっているのかも判別がつかない。自分の文章がいいのか悪いのかもよくわかっていない。そもそも良し悪しの判断基準もどうやって決めるものでもないけれど。ただの日記を書いて、小説になりそうなことを書いて、そして朝は朝でA4ノートにつらつらと愚痴のようなよくわからないものを書いている。1日のうち全く文章を書かない日の方が珍しいくらいだ。そこまでしておいて、その書いたものをほとんど読み返すことのない自分がいる。溜まりまくった文章がどんなものかも知らずに、ただひたすら書き連ねる。これは一つの問題点のように思う。

 

たとえば、週に1日か2日は、文章を書くのはやめて、過去のものを読み返す日にするとかはどうだろうか。もう割り切ってこの日は何も文章を書かないと決めてしまうのだ。モーニングページも小説も何もかもをアウトプットするのはやめて、今まで書いてきたものの色々をまとめる日にしてしまう。これはとても有効な手段ではなかろうか。というかそういう日を設けなければならないのだ。別に丸一日とかではなくてもいいから、散らかしっぱなしの言葉の数々を多少は拾い上げなければならないだろう。もうモーニングページ用の大学ノートは読み返す気ゼロのぐちゃぐちゃの文章が連ねられて、MacBookのpagesには書きかけの小説のファイルが10個ほどもある。どうしてそこまで中途半端にしておいて気持ち悪くならないのだろうか。もはや慣れてしまったのか。こんな混沌とした環境に。

 

あと与論島にいた時に始めていた、好きな文学の冒頭や音楽の歌詞なんかを書き写したものが乱雑にファイルに挟まれていてこれまたどうしようもない。せっかく書き写したのだからもう少し丁寧な扱いをすればいいのにまるでできていない。もういらないものは捨ててしまおう。それもまた大切だ。勉強用に始めた数学のノートも中途半端にされたままだ。まるでどうしようもないことがこれでわかった。明日は書くのは一旦ストップ。振り返りの日とすることにしよう。


うだうだしているだけの話

2023-03-03 23:59:59 | 日記

3月3日

 

うだうだしてしまいそうで、でもそんな場合でもなさそうな3月の上旬である。環境が変わっていくのをただ呆然と見ているわけにはいかないだろう。そうはわかっていてもなんだか気が滅入ったり、何から手をつけたらいいのかもわからないことだってある。今日がその日である。今日どころか最近はずっと何やらぼんやりした面持ちで鬱屈した日々を送っている。時間の許す限りベッドに寝転がったり、部屋の片付けも散髪もサボりがちになったりして、普通にダメな人間だなとしみじみ思ったりしている。そこからうまく脱せないでいる。

 

やる気とかモチベーションの類なんかは気合いではどうすることもできないけれども、気持ちの持ち方次第ではどこまでも底をつくこともなく発動してくれるものだったりする。今の自分はそれを見失っている。一体今の自分にどんな要素が伴うとやる気は湧き出てくれるのか。原動力はどこにあるのか。そうやっていつまでもいつまでも探しているばかりで、見つかるまでは動きたくもないし動き方もわからない。先月までは毎日書いていたようなモーニングページも途切れ途切れになりがちだし、筋トレもやらなくなった。瞑想もしなくなった。これは自分の続けていることがわかりやすい結果として出てくれないことから、ついモチベーションが途切れてしまったからだろう。もっと実のなりやすいことはないのかと贅沢な悩みがこれまた発動する。そんなものはないのだ。たとえあったとしてもそれだけで飛びついてそれに愛情を注げるような自分ではないだろう。こだわりや情熱などは理にかなったものばかりではない。むしろ回り道をしたり、側から見れば何がいいのかと怪しまれることばかりだ。この日記だってそうではないか。何のためにこんなことをしているんだと日常の中でふと考える疑惑に取り込まれているのが今の自分だ。

 

自分を信じていないのだ。普段から特別、自分の才能とか運とかその他もろもろを信じているわけではないし、それが通常運転ではある。謙虚に生きることを履き違えるとこうなる。やるべきこととやりたいこととできないことの区別をまずはつけなければならない。自分の限界を知ること。同時に自分への可能性を知ること。どちも大事であり、これはどこまでリアルに想定できるかが鍵になる。できない自分にいくらやれと命じても動けないし、可能性を忘れたくても忘れられないのがこれまた現実だろう。一体自分は何がしたいのだ。本当にしたいと思っていることは本当にやりたいことなのか。何がしたくて何をしたくないのか。そんな疑問が半永久的に頭の中を回り続けてまたまたどうしようもないけれど、でもいつかは答えが見つかるはずだし、そのためには考えることではない、動くことでしか答えは見つからないと思っている。それだけの話。