3月26日
大江健三郎が亡くなったのは今月の3日のことだそうだ。普段、時事ニュースにあまり目を通すことのない私がそれを知ったのは、彼が亡くなったその2週間後のことであった。たまたまコンビニで買った朝日新聞にその内容が伝えられていた。小梅線で佐久平駅へと向かう、豊かな自然の間を縫いながら進む列車の中で、その記事を見ていた。
なんとなくだが、彼はもう少し長生きするものだと思い込んでいた。別に自分が大江健三郎の何を知っているわけでもない、ただの妄想にすぎない話ではあるが。でも三島由紀夫も、安倍公房も、自分の好きな作家はみんな自分が生まれる前には亡くなっていて、でもその中でも大江健三郎はほぼ唯一といっていいほどに、今に生きる伝説だった。その事実が自分の中で、文学に望むことのできる希望のような道筋ではあったのだ。でもそれもまた過去の話となったのだ。
人は亡くなるという実感が、普段から稀薄なのは、今に始まった事ではない。自分が白状な人間だということを言いたいわけではない。ただ日常を何気なく過ごすと、人はあっという間に死から遠ざかった状態で日々を過ごしてしまうものだ。どれだけ日々を慈しんでも、どれだけ周りの人たちに敬意を持ってしてもそれには限界がある。そして作品を残す者たち、作家、音楽家、画家、映画監督、最近ではユーチューバーなどに対しても、敬意を示しているつもりであり、有限の命を持っているものだと意識してはいるのだ。
ただ、その作品を残す者たちが創って完成した作品は、寿命が縮むわけでもなく、永遠に輝き続ける。その輝きが、ついその作者たち本人が照らしている無限の光に思えてしまうのだ。しかし現実はそうではない。数多の作品を残した文豪でさえ、神はその命を奪ってしまう。その虚しさがやってきて初めて、言葉上だけではなく、作品を残す人たちの死を強く実感することになるわけだ。これで自分は、彼が天寿を全うした時代に生きたことになり、生きていくことになる。そしてこれからもそんな、たくさんの死を見ていく時代を生きることになる。これから何人もの死を見送り、見届け、知り、そして感じることだろうか。そして自分の死は、誰が見送り、見届け、知ってくれるのか。そう考えると、怖い。じわじわとその予感がせまってくるようで、少し肌寒いように怖いのだ。でもいつかは来ることではあるから、意識せざるを得ない。ご冥福をお祈りします。