イタリア文化会館で催された講演会「レオナルド・ダ・ヴィンチ 最後の謎-なぜ未完の作品を多く残したのか」
『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』の作者コスタンティーノ・ドラッツィオ(美術史家、随筆家)の講演会
本を購入された方にサインをされていました。
この講演の主題は、ダ・ヴィンチは何故作品を完成することができなかったのか。ということでした。
ヴァザーリが書き残した『美術家列伝』を根拠にし、ダ・ヴィンチは完璧主義者で納得がいかなかったので
途中で放棄したからと言われています。
しかし、ドラッツィオ氏は、そうではなく、ダ・ヴィンチに絵を注文した依頼主が、彼の作品の途中経過を見て断っていたというのです。
それは、ダ・ヴィンチがあまりにも革新的で、エキセントリックで、他の画家とは全く違う独創的なポジショニングで描いていた為なのです。
『東方三博士の礼拝』では、その当時確立していた構図とは全く違った配置でマドンナや生まれたばかりのキリストを描き、注文主は断り、その絵をフィリッピーノ・リッピに依頼したのだそうです。
最初のフィレンツェ時代は、ほとんどの絵が断られ続けたのです。
システィーナ礼拝堂の壁画や天井画の作成でフィレンツェにいた多くの画家はローマに派遣されますが、ダ・ヴィンチはローマには派遣されず、ミラノに行かされます。
それも画家としてではなく、楽器職人として。
兵器や城塞の設計などをしていたのですが、10年の時がすぎやっとブロンズ像の依頼がきました。
しかしこれも未完に終わりました。
では、どうやってダ・ヴィンチが認められるようになったのか?
それは、あの有名な『最後の晩餐』を描いたからでした。
ダ・ヴィンチ45歳の時です。
この作品は完成したのですが、彼の作業方法ではフレスコ画で描けず、テンペラ・グラッサで描いたので、ヴァザーリの時代には既にほとんど色が落ちていたそうです。
当時のフィレンツェには有名な11もの『最後の晩餐』の絵があったのですが、どれも同じ構図で、のちにキリストを裏切るユダが前面に描かれています。
しかし、ご存じの通りダ・ヴィンチは全員が同じ側に座っていて、手や体がドラマチックに動いています。
ヨハネは、ダン・ブラウンが言うように女性がモデルですが、マグダラのマリアではないようです。
当時は若者や無実を表現するのに女性の顔を用いていて、ダ・ヴィンチのヨハネにはモデルがいて、ジョバンニーナと言ってミラノの病院で見つけた女の子だったそうです。
全てのお話しがとても興味深く、書き足りないのですが、この辺で。
『モナリザ』についても諸説お話ししてくださいました。
講演はイタリア語で、逐次通訳だったのですが、ドラッツィオ氏のお話しがかなり長く、通訳を待っておられる方には少し臨場感がかけたのでは?
途中で、ドラッツィオ氏も、ここの説明は長くなるけど、続けて話したいから、あと頼むよと通訳さんにおっしゃってました。
イタリア文化会館での講演なので、イタリア人やイタリア語の分かる人が多かったのですが、通訳されて笑っておられる方の方が多かったので、同時通訳の方が面白かったのでは?と思いました。
そうすれば、もっと楽しいお話しを聞く時間が増えたのに~と残念でした。
ほとんど自分の覚書のブログになりましたが、ドラッツィオ氏の本お勧めです!
『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』の作者コスタンティーノ・ドラッツィオ(美術史家、随筆家)の講演会
本を購入された方にサインをされていました。
この講演の主題は、ダ・ヴィンチは何故作品を完成することができなかったのか。ということでした。
ヴァザーリが書き残した『美術家列伝』を根拠にし、ダ・ヴィンチは完璧主義者で納得がいかなかったので
途中で放棄したからと言われています。
しかし、ドラッツィオ氏は、そうではなく、ダ・ヴィンチに絵を注文した依頼主が、彼の作品の途中経過を見て断っていたというのです。
それは、ダ・ヴィンチがあまりにも革新的で、エキセントリックで、他の画家とは全く違う独創的なポジショニングで描いていた為なのです。
『東方三博士の礼拝』では、その当時確立していた構図とは全く違った配置でマドンナや生まれたばかりのキリストを描き、注文主は断り、その絵をフィリッピーノ・リッピに依頼したのだそうです。
最初のフィレンツェ時代は、ほとんどの絵が断られ続けたのです。
システィーナ礼拝堂の壁画や天井画の作成でフィレンツェにいた多くの画家はローマに派遣されますが、ダ・ヴィンチはローマには派遣されず、ミラノに行かされます。
それも画家としてではなく、楽器職人として。
兵器や城塞の設計などをしていたのですが、10年の時がすぎやっとブロンズ像の依頼がきました。
しかしこれも未完に終わりました。
では、どうやってダ・ヴィンチが認められるようになったのか?
それは、あの有名な『最後の晩餐』を描いたからでした。
ダ・ヴィンチ45歳の時です。
この作品は完成したのですが、彼の作業方法ではフレスコ画で描けず、テンペラ・グラッサで描いたので、ヴァザーリの時代には既にほとんど色が落ちていたそうです。
当時のフィレンツェには有名な11もの『最後の晩餐』の絵があったのですが、どれも同じ構図で、のちにキリストを裏切るユダが前面に描かれています。
しかし、ご存じの通りダ・ヴィンチは全員が同じ側に座っていて、手や体がドラマチックに動いています。
ヨハネは、ダン・ブラウンが言うように女性がモデルですが、マグダラのマリアではないようです。
当時は若者や無実を表現するのに女性の顔を用いていて、ダ・ヴィンチのヨハネにはモデルがいて、ジョバンニーナと言ってミラノの病院で見つけた女の子だったそうです。
全てのお話しがとても興味深く、書き足りないのですが、この辺で。
『モナリザ』についても諸説お話ししてくださいました。
講演はイタリア語で、逐次通訳だったのですが、ドラッツィオ氏のお話しがかなり長く、通訳を待っておられる方には少し臨場感がかけたのでは?
途中で、ドラッツィオ氏も、ここの説明は長くなるけど、続けて話したいから、あと頼むよと通訳さんにおっしゃってました。
イタリア文化会館での講演なので、イタリア人やイタリア語の分かる人が多かったのですが、通訳されて笑っておられる方の方が多かったので、同時通訳の方が面白かったのでは?と思いました。
そうすれば、もっと楽しいお話しを聞く時間が増えたのに~と残念でした。
ほとんど自分の覚書のブログになりましたが、ドラッツィオ氏の本お勧めです!