今日は朝から快晴でした。
ウン、これでこそ五月だよ~と思うほどの五月晴れ。
しかし、午後5時頃から俄にかき曇り風をともなう激しい夕立となりました。
遠雷は聞こえるは、風はビュウビュウ吹いてくるわで、ドラマチックなくらいの天気の変化でございました。
ナズナ君の続きです。
未だモヤッともしてません。
日が傾き街灯が点される頃になってからが 花街の賑わう時刻です。
ナズナはこの時刻になると台所で取り分けた水糊を娼妓達の部屋に届けます。見習いの最初の仕事でした。
最初は糊を何に使うのか分からなかったナズナですが、郭で半月も過ごすうちに『娼妓』は何をするのが仕事なのか垣間見て知るようになりました。
娼妓達のもとにはナズナより少し年上の少年が禿(かむろ)として付き、娼妓達の世話をしながら芸事も習っていました。一年から三年後には娼妓として独り立ちすることになる少年たちです。自分が娼妓としてやっていけるのか、いい客がついてくれるのかと禿の少年たちの中には不安を覚えるものも多いのです。不安定な自分の感情を誤魔化すために他人を攻撃するものも少なくありません。新入りのナズナはそんな禿達の格好の虐め相手でした。
「ナズナなんて貧乏たらしい名前」
「だいいち、花とは呼べないじゃない」
アオイやスミレといった華麗な名を与えられた禿はそう言ってナズナを悲しい気分にさせるのでした。
ヤマネはナズナがよい名だと言ってくれましたが、ナズナはそんな言葉だけでは慰められなかったのです。
「旦那様はなんでナズナなんて郭らしくない名前を付けたんだろう・・・」
心の奥でそう思っても新入りのナズナには旦那様と話をする時間などありません。ときどきアトリが台所の仕事を見にきますが、相談できるような雰囲気でもありません。ナズナはなるべく禿達を避けて仕事をするようになりました。
見習いは悪いことばかりではありません。仕事をしながらヤマネはナズナに簡単な読み書きを教えてくれました。竃の灰を使って火箸で字を練習するのです。食卓に出す芋や大根、トウフなどを切り分けながら数も教わりました。飲み込みの速いナズナは少しするとヤマネからそろばんを貰いました。仕入れた食材の勘定書きの検算をさせたりとヤマネは少しづつナズナの才を伸ばすことにしたのでした。
一年が過ぎ、新しい少年が三人萬華楼に入ってきました。
そのうちの一人は驚くほどの美形で『白蘭』と名付けられました。
「白蘭、お前は見習いを通り越して禿だよ」
アトリの言葉にナズナは複雑な気持ちになりました。けれどもアトリの言葉は松風の意思を受けたものであると分かっていました。アトリが自分の意思でものを言うときは相手の目を見るのです。そうでないときはそっぽを向いてしまう癖があることをナズナは一年のうちに気がつきました。
「ナズナ、お前も今日から雑用は新入りにまかせ、禿になってお華さんに付くんだよ」
アトリはナズナと白蘭に付いてくるように言いました。
萬華楼では娼妓は三種類に分けられておりました。『呼びだし』と呼ばれる娼妓は一晩に幾つもの座敷を掛け持ちする売れっ子でした。自分の居室である座敷のほかにもいくつも座敷をもっておりましたのでこう呼ばれております。『座敷持ち』と呼ばれる娼妓は自分の座敷だけで商売をしておりました。『部屋持ち』は座敷ではなく部屋というところで格が一つ下がる存在でございました。
萬華楼は全ての娼妓に部屋を持たせている高級遊廓でした。
萬華楼の娼妓にはいずれも禿がつきましたが、『部屋持ち』は一人、『座敷持ち』は三人、『呼び出し』は使用する座敷の倍の数の禿がつくと決められておりました。
アトリが二人を連れてきたのは、萬華楼の裏口に近い松風の居室でした。二人は松風の前に座らされました。松風は煙草を飲みながら二人の顔を眺めました。そして、ゆっくり口を開きました。
「ナズナは紅牡丹、白蘭はアヤメの禿になるように」
紅牡丹という娼妓は『呼びだし』の中でも一二を争う売れっ子で、毎日四つから五つの座敷を渡っておりました。名前の通りの上品な美貌と教養の持ち主でした。
アヤメはかつては『呼びだし』でしたが今は『座敷持ち』になっておりました。もうそろそろ年季明けといった年頃のアヤメには馴染客も多く そのうちの誰がアヤメを身請けするのかと囁かれておりました。
「今日より紅牡丹さんの末席の禿となりましたナズナです。よろしくお願いいたします」
先輩の禿に囲まれた紅牡丹にナズナは深々と頭を下げました。
「こちらこそ、よろしくね。ナズナ」
明るく高い声で紅牡丹が言葉を返しました。声までもが綺麗な人なのだなとナズナは感心してしまいました。
先輩禿は十人、そのうちの一人はあと一月で娼妓として部屋持ちとなることが決まっておりました。
その日から、ナズナは先輩禿から細々とした用事を言い付かり休む間もありませんでした。
部屋の掃除はもちろん、客の膳の上げ下ろし、紅牡丹の着物の半襟替えなどの針仕事まで目立たない細かい仕事ばかりを押し付けられました。
二、三ヶ月経って馴れてくるとナズナは紅牡丹に与えられている部屋を冷静な目で見ることが出来るようになりました。客層に合わせた上品な調度をそろえた座敷が二つ、しかしあとの三つの座敷はけばけばしく豪奢に飾られたものでした。
「紅牡丹さんの御客で御馴染になるのはごく一部だからね」
客筋を知っている先輩禿のコデマリが教えてくれました。
「評判の紅牡丹さんがどれだけ綺麗なのか見に来ただけの客も多いんだよ」
確かにあれだけの美貌なら顔を見るためだけに大枚を払うお客もいるだろうなとナズナには思われます。
「ただ、そういう人は二度は来ないんだよ。田舎の小金持ちが都に出てきて話の種にと金を払って紅牡丹さんを見て帰るのさ。田舎の人間から見ると派手な座敷の方が有難い気がするだろう?」
なるほどなとナズナは思いました。
そういうお客がいるからこそ一晩に何部屋も渡り歩くことが出来るのです。
売れっ子である紅牡丹が毎日全ての部屋の客と床をともにしていたら身体が持たないでしょう。
ウン、これでこそ五月だよ~と思うほどの五月晴れ。
しかし、午後5時頃から俄にかき曇り風をともなう激しい夕立となりました。
遠雷は聞こえるは、風はビュウビュウ吹いてくるわで、ドラマチックなくらいの天気の変化でございました。
ナズナ君の続きです。
未だモヤッともしてません。
日が傾き街灯が点される頃になってからが 花街の賑わう時刻です。
ナズナはこの時刻になると台所で取り分けた水糊を娼妓達の部屋に届けます。見習いの最初の仕事でした。
最初は糊を何に使うのか分からなかったナズナですが、郭で半月も過ごすうちに『娼妓』は何をするのが仕事なのか垣間見て知るようになりました。
娼妓達のもとにはナズナより少し年上の少年が禿(かむろ)として付き、娼妓達の世話をしながら芸事も習っていました。一年から三年後には娼妓として独り立ちすることになる少年たちです。自分が娼妓としてやっていけるのか、いい客がついてくれるのかと禿の少年たちの中には不安を覚えるものも多いのです。不安定な自分の感情を誤魔化すために他人を攻撃するものも少なくありません。新入りのナズナはそんな禿達の格好の虐め相手でした。
「ナズナなんて貧乏たらしい名前」
「だいいち、花とは呼べないじゃない」
アオイやスミレといった華麗な名を与えられた禿はそう言ってナズナを悲しい気分にさせるのでした。
ヤマネはナズナがよい名だと言ってくれましたが、ナズナはそんな言葉だけでは慰められなかったのです。
「旦那様はなんでナズナなんて郭らしくない名前を付けたんだろう・・・」
心の奥でそう思っても新入りのナズナには旦那様と話をする時間などありません。ときどきアトリが台所の仕事を見にきますが、相談できるような雰囲気でもありません。ナズナはなるべく禿達を避けて仕事をするようになりました。
見習いは悪いことばかりではありません。仕事をしながらヤマネはナズナに簡単な読み書きを教えてくれました。竃の灰を使って火箸で字を練習するのです。食卓に出す芋や大根、トウフなどを切り分けながら数も教わりました。飲み込みの速いナズナは少しするとヤマネからそろばんを貰いました。仕入れた食材の勘定書きの検算をさせたりとヤマネは少しづつナズナの才を伸ばすことにしたのでした。
一年が過ぎ、新しい少年が三人萬華楼に入ってきました。
そのうちの一人は驚くほどの美形で『白蘭』と名付けられました。
「白蘭、お前は見習いを通り越して禿だよ」
アトリの言葉にナズナは複雑な気持ちになりました。けれどもアトリの言葉は松風の意思を受けたものであると分かっていました。アトリが自分の意思でものを言うときは相手の目を見るのです。そうでないときはそっぽを向いてしまう癖があることをナズナは一年のうちに気がつきました。
「ナズナ、お前も今日から雑用は新入りにまかせ、禿になってお華さんに付くんだよ」
アトリはナズナと白蘭に付いてくるように言いました。
萬華楼では娼妓は三種類に分けられておりました。『呼びだし』と呼ばれる娼妓は一晩に幾つもの座敷を掛け持ちする売れっ子でした。自分の居室である座敷のほかにもいくつも座敷をもっておりましたのでこう呼ばれております。『座敷持ち』と呼ばれる娼妓は自分の座敷だけで商売をしておりました。『部屋持ち』は座敷ではなく部屋というところで格が一つ下がる存在でございました。
萬華楼は全ての娼妓に部屋を持たせている高級遊廓でした。
萬華楼の娼妓にはいずれも禿がつきましたが、『部屋持ち』は一人、『座敷持ち』は三人、『呼び出し』は使用する座敷の倍の数の禿がつくと決められておりました。
アトリが二人を連れてきたのは、萬華楼の裏口に近い松風の居室でした。二人は松風の前に座らされました。松風は煙草を飲みながら二人の顔を眺めました。そして、ゆっくり口を開きました。
「ナズナは紅牡丹、白蘭はアヤメの禿になるように」
紅牡丹という娼妓は『呼びだし』の中でも一二を争う売れっ子で、毎日四つから五つの座敷を渡っておりました。名前の通りの上品な美貌と教養の持ち主でした。
アヤメはかつては『呼びだし』でしたが今は『座敷持ち』になっておりました。もうそろそろ年季明けといった年頃のアヤメには馴染客も多く そのうちの誰がアヤメを身請けするのかと囁かれておりました。
「今日より紅牡丹さんの末席の禿となりましたナズナです。よろしくお願いいたします」
先輩の禿に囲まれた紅牡丹にナズナは深々と頭を下げました。
「こちらこそ、よろしくね。ナズナ」
明るく高い声で紅牡丹が言葉を返しました。声までもが綺麗な人なのだなとナズナは感心してしまいました。
先輩禿は十人、そのうちの一人はあと一月で娼妓として部屋持ちとなることが決まっておりました。
その日から、ナズナは先輩禿から細々とした用事を言い付かり休む間もありませんでした。
部屋の掃除はもちろん、客の膳の上げ下ろし、紅牡丹の着物の半襟替えなどの針仕事まで目立たない細かい仕事ばかりを押し付けられました。
二、三ヶ月経って馴れてくるとナズナは紅牡丹に与えられている部屋を冷静な目で見ることが出来るようになりました。客層に合わせた上品な調度をそろえた座敷が二つ、しかしあとの三つの座敷はけばけばしく豪奢に飾られたものでした。
「紅牡丹さんの御客で御馴染になるのはごく一部だからね」
客筋を知っている先輩禿のコデマリが教えてくれました。
「評判の紅牡丹さんがどれだけ綺麗なのか見に来ただけの客も多いんだよ」
確かにあれだけの美貌なら顔を見るためだけに大枚を払うお客もいるだろうなとナズナには思われます。
「ただ、そういう人は二度は来ないんだよ。田舎の小金持ちが都に出てきて話の種にと金を払って紅牡丹さんを見て帰るのさ。田舎の人間から見ると派手な座敷の方が有難い気がするだろう?」
なるほどなとナズナは思いました。
そういうお客がいるからこそ一晩に何部屋も渡り歩くことが出来るのです。
売れっ子である紅牡丹が毎日全ての部屋の客と床をともにしていたら身体が持たないでしょう。