人生、失敗しちゃった~ニート後遺症 闘病記~

十数年のニートをやめて一年。ニート後遺症と戦う、ニート研究家。

ニートになりたくなければ、棄てろ若者【ニート前夜】

2016年04月19日 | ニート前夜
以前、軽く、ニートは精神的に問題があるからなるものなのか、精神的に問題が起きないようになるものなのかという話をしました。ありていに言ってしまえば、おかしくなったからニートなのか、おかしくならないようにニートなのか。これは個々人に由来することなのでどちらが正解ともいえません。ただ、後者だった場合、ではどうすればいいのか、となる。社会復帰したらおかしくなるんじゃ、解決策がない。おかしくならないように頑張るしかないんですが、その頑張りが精神に異常な圧迫を与えてしまうとしたら。

ニートになるべき人は、少年~青年時代の成長においてその病根を抱えて育ててしまったのかもしれないです。
深く深く精神に根を張るそれをひっこ抜くのは、だからとても危険で、無理に引っこ抜くとボロボロになってしまう。だけど、ニートを長期間すればするほど、ケアしながら引っこ抜く時間がなくなる。引っこ抜くしかない。引っこ抜いた後、ニート後遺症が発症するからそれに負けないようにうまくしのいでいくしかない。
でもうまくしのぐ余裕もないのが実情なんですね。

ニートになどなると、普通の人には戻れない。
ニートになるのは、普通の人ではない。

どちらにしても、ニート後の社会復帰、再起は極めて難しい。

思うのは、「人並み」であることの重要性と難しさ。
若い頃はえてして「変っている」といわれたがるもの。人とは違う言動をして耳目を集めて悦に入る。そういうい時期がありますが、そういう熱病は早く覚めた方がいい。
ニート化する人は、自分は特別、だなどとその熱病に浮かされています。

となると、ニートはただ、幼稚なだけなんでしょうね。
子ども特有の万能感・特別感・根拠ないポジティブ。それを現実と照らし合わせて棄てていくことが成長。大人になるということ。棄てるといってもマイナスなことではなく、万能感の代わりに達成感を知り、特別感の代わりに個別感を知り、根拠ある建設的なポジティブで生きる。
きっとこの取捨は、人によっては大変な痛みを伴うんだろうと思います。それを棄てることがアイデンティティを傷つけることもあるでしょうし。自分が必死になれる根拠を棄てなくてはいけなくなるかもしれません。それでも棄てないと、人生失敗しちゃいます。

なので、棄てろ、若者。

ニートは怖いくらいポジティブ。でもそれエアポジティブ【ニート前夜】

2016年04月18日 | ニート前夜
春の訪れに心をぽっきりいかれた元高齢ニートです。
体調・精神面、こんなに不調になるかというほど不調です。昨年の今頃、社会復帰をしなくてはと必死に仕事を探していました。それでもまだニート。「現実」と直面せずに「仕事を探すドラマ」の中で生きていたんですね。だから必死ではあったもののどこか気楽でした。

そうなんですよ。
ニートって、恐ろしく「ポジティブ」なんです。「ポジティブ」だからこそニートになるのかもしれません。

その発端は人それぞれだろうから決めつけはできませんが、ざっくりと分析すると「現実」の直視をやめたいという甘え、「現実」への悲観から社会参加を放棄する。それはそのまま無職へと繋がり、いわゆるニート化する。ところが普通の精神状態ならそこで更に、その「現実」からの逃避は将来をダメにするという思いに至り、焦ったり不安だったりで、結局なんとか頑張って仕事をしようとなるだろうところ、ニート候補者は「まあ大丈夫か」と変なポジティブシンキングでニート化へ踏み出す。

悲観とポジティブの同時進行。

これが良い方向に進めば、現実に悲観しながらも仕事をすることで改善されるさ!となる。
これが悪い方向に進めば、現実に悲観したので仕事をしないけれどなんとかなるさ!になる。

後者がニートの精神構造の一つです。

怖いくらいのポジティブ。
仕事しなくて生きていけるわけがないのに。何とかなると思っている。思いこもうとしている。
ポジティブっていうのはいい側面ばかりじゃない。何でも前向き、じゃダメなんだ。というとそもそもお前の言っているポジティブの定義が間違えている、と言われそうですが。
じゃあエアポジティブ。何とかなると思いこもうとしている。前向き、ではなく前向き気取り。本来の不安や心配を隠ぺいしようと、現実への恐怖から逃げようと、諸々のマイナスな理由や原因に目を伏せるための前向き…なのだから、エアポジティブ。本来ないはずのポジティブをあるかのように振りまわしているんですね。

そのエアをはぎとられるわけです。
脱ニートすると。
そうすると残るのは、諸々のマイナスな理由や原因。つまり「現実」。今度はエアができないから直面せざるを得ない。そして、ニート後遺症を発症するんです。(続く)


気持ちがポッキリ折れていることに気付いた元ニート【ニート後遺症、闘病中】

2016年04月13日 | 今、思う。
おはようございます。
バイトの新人さんを一人立ちさせた元ニートです。

教える時間のない中、おおげさにいえばOJTでの育成でした。OJTなどと大仰にいわずに一緒に作業をしながら覚えてもらう、ってだけのことなんですが、そこは日々を少しでも面白く過ごす為の自分なりの工夫です。

育成といえるほどではないただの単純労働の教授でしたが、それでも学ぶべきところは多かったです。
言葉づかい一つ、教える側も教わる側も気をつけなければならないこと。ていねいでやさしくいえば、それがゆえに相手が作業を軽くみてしまうこともある。この作業は分かっていますよの意思表示もタイミングと言葉の選択を誤るとただの言い訳や鬱陶しい屁理屈・口応えになってしまう。「簡単な作業」が自分と人とでは違う。マトモに社会人として働いてる方には当然すぎる基礎中の基礎を実感、痛感しました。

さあこれで、後がまもできたことだしいよいよ退職してちゃんとした職に…といければいいんですが…

先日、ふと、気持ちがポッキリ折れていることに気付きました。

今でも毎日、必死に求人募集を読み込む日課をこなしていますが、ここしばらく問い合わせの電話をしていませんでした。場所・年齢・仕事内容等、面接させてもらうことができそうな職がなかったのも事実です。とはいえ、前は「○○とありますが、そこは××になりませんか?」くらいの勢いで問い合わせをしていました。派遣業者さんが間に入る求人は、企業さんの名前や所在地を明かしていないものも多数あるので「だいたいでいいので場所を教えてもらえますか?」というお電話は毎週毎日のようにかけていたものです。

昨年は多くの死別がありました。その中で、急がなくては何もかもが間に合わないという意識に囚われ、嘔吐を繰り返しながら履歴書を書き続けていました。その瞬間はわかりませんが、その意識がポッキリ、折れたようなんですね。未だにその「間に合わない」という強迫観念には追い込まれています。嘔吐以上にめまいと耳鳴りの頻度、深度はどんどん増しています。なのにどこか空虚で、いわゆる「やる気がない」状態になっています。

ありていにいえば、疲れた、ってところです。疲れました。根本的に現状の全ては自業自得なので、疲れのなんのと言っていいことではないんです。そう思ってガツガツと動いてきました。でも結果は出ない。たまには息抜きをすれば…と思っても、その息抜きをした時間がもったいなくて、息抜き中もストレスなら、その後もそれ以上のストレスと悔恨に襲われました。息抜きが息抜きにならない。休日が休日にならない。

これもまたニート後遺症なんでしょう。バイトに楽しみを見出したことでさえ自分を追い詰める。ニート後遺症、なかなかエグいです。

だからもう、何をしてもどう考えてもこのポッキリを繋ぎ合わせる術がない。
どこかで、どうせ仕事ないし…と思っています。バイトにも慣れてきてそれなりに楽しみも見つけられるようになってしまい、それで一日が終わればなんとなく今日がうまく回った気になっています。
それをどうやって払拭すればいいのか。

職が決まって、夢中になって働く毎日に突入すればいいのかなと思いつつ、その職が決まらないからこんな精神状態なんだろ、と、また、頭を抱えます。

元ニートが社会を斬り始めた。どうする?2 幸せは金じゃねんじゃね?という人もいますが、金ですよ。

2016年04月12日 | 元ニートが社会を斬り始めた。どうする?
だから敗北者救済の色々な措置があるんです。
地区・地方行政による若年ニート支援制度とかね。再就職支援制度とかね。高齢者就労支援制度とかね。障害者就労支援制度とかね。
ところがそれが追いつかない。国民総数の増減ではなく、敗北者増産によるものです。総数が多かろうと少なかろうと敗北者が増えれば結局、救済措置制度は追いつかなくなる。で、貧困層が増え、犯罪者も異常者も増え、税金滞納未納者も増える。そうなると「社会の存在理由・数をたのんで幸せになろうよ」からどんどんかけ離れていく。金・金言ってっけど、幸せは金じゃねーんじゃね?という人もいるでしょうが、金ですよ。基本。病気になっても医者行けない。病気の予防もできない。健康維持さえままならない。そんなんで幸福とはいえないでしょう、やっぱり。

そもそも、この「税」のシステム自体がいわゆる「社会主義」的でもあるわけです。更にそこに敗北者救済措置とかが乗っかるとね。「社会主義」はその「みんなで幸せになろうよ」全開の主義ですよね。だから「社会」主義。みんなで協力し合って、出せるもの出し合って、できるかぎりみんな同じように平等に幸福になろうぜ、です。

だからそもそものそもそも、「社会」をどう回すかと考える前提の「社会」そのものが「社会主義」的発想であってね、なにこのめんどくさい感じ、だから、資本主義資本主義言っても絶対にどこかしら社会主義なんですよね。その逆もしかりで、貨幣流通経済で社会を運営しようとする時点で資本主義的な活動は必要になるわけで、社会主義社会主義いってもモノ買う時は資本主義なんですよ。

大量な敗北者・高齢ニートを放置することは、「社会」にとって害悪でしかないなら、社会主義的と思われようと彼ら俺らから労働を義務的に徴収し、「社会」に労働力・税等をしっかり還元させる方が、結果的に「資本主義」をよりうまく回転させることに繋がると思うんです。

TVなんかではよく「大量のニート発生を考える」的な放送がされると聞きます。社会問題になるくらいニートがいるなら、俺が言ってることもあながち馬鹿な発想ではなくないですか?

元ニートのくせに社会を斬る、でした。