「私は絶対死なない、安倍首相が謝罪する日までは」

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 元慰安婦が存在するのは韓国や中国などの東アジアだけではない。11日、オーストラリア南部のアデレードで会った ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O’Herne)さん(91)も日本の蛮行の犠牲になった。オランダ系オーストラリア人のオハーンさんは慰安婦だったと正式に名乗り出た唯一の白人元慰安 婦生存者だ。

 

 オハーンさんは90歳を過ぎて気力がかなり衰えている。片目は失明状態だ。しかし同日、慰安婦像の設置を主導する「在オーストラリア韓人会」の人々に自ら恐怖の体験を打ち明けた時だけははっきりした口調だった。

 

  オランダ領東インド(現インドネシア)に暮らしていたオハーンさんの子どものころの夢は修道女になることだった。オハーンさんが修道女会で生活していた 1942年、日本がインドネシアを侵略し、全てのオランダ人を収容所に収容した。「44年の初めだった。17歳以上の若い女性たちは引っ張り出され、整列 させられた。すると、上から下までじろじろ見られた」。オランダ人女性約250人がトラックに乗せられ、連行されたのは日本軍の慰安所だった。

 

  慰安所に着くと、オハーンさんは日本軍将校に日本刀で脅されながら無残にも強姦(ごうかん)された。毎日昼も夜もおぞましい行為が繰り返された。性病検査 をしに来た日本人医師に「私たちは強制的に連行されてきた。上部に知らせてほしい」と哀願したが、その医師にも強姦された。

 

 そう言うと、オハーンさんはしばらく言葉を詰まらせた。そして「慰安婦(comfort woman)という表現は日本の強制性を和らげる表現だ。私たちは日本軍の性奴隷(sexual slave)だった」と言った。

 

 日本軍は女性たちを収容所に送り、慰安所で経験したことを口外したら死ぬだろうと脅迫した。戦後はイギリス人兵士と結婚、60年にオーストラリアに移住した。恥ずかしさのあまり、当時の記憶を完全に封印していた。


  だが、50年余りがたった92年、オハーンさんはオーストラリアの放送局のニュースで韓国人元慰安婦たちの叫びを聞いた。「何も答えない日本大使館の前で 堂々と謝罪を要求する韓国人元慰安婦たちを見て勇気をもらった。同じ歴史が繰り返されないよう立ち上がらなければならないと決心した」

 

 白人慰安婦が存在したという事実は、西欧社会に大きな衝撃を与えた。この証言を基に94年、映画『50年の沈黙』が制作された。オハーンさんは2007年、米下院の慰安婦公聴会で証言した。

 

  オハーンさんは謝罪どころか慰安婦の存在さえ否定する最近の日本政府の態度を見て、慰安婦像設置に協力することを決心した。オーストラリア在住の韓国系・ 中国系団体が先月、慰安婦像の設置を決めた。慰安婦像が設置された米国の小都市グレンデールとは違い、シドニーは人口500万人というオーストラリア第1 の都市だ。シドニー・ストラスフィールド市のオク・サンドゥ副市長は「日本の度重なる歴史歪曲(わいきょく)に対抗し、オーストラリアの与党・自由党女性 委員会も慰安婦像設置を支援する意向を明らかにした」と語った。シドニーの慰安婦像は韓国人、中国人、そして白人の少女が手を取り合う形で設置される予定 だ。白人の少女のモデルはオハーンさん。ソン・ソクチュン在オーストラリア韓人会会長は「慰安婦が韓日問題ではなく、女性に対する反人倫的な戦争犯罪であ ることを世界に知らしめる像になるだろう。日本がどのような妨害をしてきても必ず設置する」と語った。

 

 オハーンさんは次々と天に召されていく韓国人元慰安婦たちに哀悼の意を表した。「日本は、その蛮行を証言する私たちがみんな死ぬのを待っているのだろう。反省しない日本政府は絶対に許せない。私は決して死なない。安倍首相から謝罪を受ける日までは」

 

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ジャン・ラフ・オハーン

 

ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O'Herne、1923年 - )は、第二次世界大戦中、日本軍により強制的にインドネシア慰安婦にされたオランダ人。現在はオーストラリア国籍。戦後に手記を書き証言を行っている。ヤン・ルフ・オヘルネ、ジャンヌ・オヘルネなどとも表記される。

日本の侵攻直前1942年5月ジャワ島バンドンにて撮影

 

目次

証言履歴[編集]

  • 1992年12月9日「日本の戦後補償に関する国際公聴会」(東京)で証言。ビデオ『生きている間に語りたかった』(制作=ビデオプレス)
  • 手記を記録している。ジャンヌ・オフェルネ「レイプされた女の叫び」『福音宣教』(オリエンス宗教研究所)47巻5号 1993年5月:手記原題は「Cry of the Raped :A Story to be Told」1992
  • 取材記録が出版される『破られた沈黙:アジアの「従軍慰安婦」たち』 伊藤孝司編 風媒社1993
  • 手記『50 Years of Silence』を1994年にオーストラリアで出版。1999年『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語』として日本語翻訳出版。木犀社。
  • 参議院本会議でその体験取材記録が紹介される
  • 2007年2月15日、マイク・ホンダ提案の慰安婦法案に関連してアメリカ下院公聴会にて慰安婦として李容洙金君子らと共に証言。

証言内容[編集]

白馬事件(スマラン事件)の被害者。

  • 1923年:スマラン近くの砂糖農園の裕福な家庭に生まれる。オランダ系移民の4世であった。
  • 1942年(19歳):修道女になるためフランシスコ会の教育大学で学んでいる時日本軍が侵攻、アンバラワ抑留所に母親と2人の妹と一緒に入れられた。
  • 1944年2月(21歳):日本軍将校がやってきて「17歳以上の独身女性は整列しろ」と言われた。将校達は整列した少女の身体を上から下まで見て仲間内で笑いあった。16名の少女が選別されトラックに移るように命令された。女性が抗議したがしれは受け入れられなかった。スマランについて7名が下ろされ慰安所で部屋が割り当てられた。将校が毎日来て強姦された、少女を意に従わすことが出来ず怒ったある軍人は刀を抜いて身体につきつけ刀で身体を撫でたという。毎回抵抗を試みたが無駄だった。

「やって来た日本人が『日本人の性の慰みのためにここにいるのだ』と私たちに説明しました。」

「私は窮地に追い込まれた鼠のように男達からもて遊ばれました。男は弄びをしばらく続けた後、自分も裸になりました。重い体で私におおいかぶさり押さえつけました。レイプされる私の目から涙が止めどもなく流れました。」[1] [2]

  • 1944年4月:慰安所は閉鎖、女性達はクラマト抑留所に移された。ここは周囲と切り離されていたが、このことが却って噂を広めることになり「売春婦の収容所」と呼ばれた。
  • 1946年:イギリス軍の兵士のトム・ラフ(Tom Ruff)と結婚し、ラフ・オハーンという苗字になる。
  • 1960年:夫とともにイギリスからオーストラリアに移住。