
イラク戦争の時に、3人の日本人が現地の武装勢力に拉致され、そんな危険なところに行くから悪いと袋叩きにあってから「自己責任」という言葉がずっといやな意味で使われ続けてきました。
自己責任とは他人のやったことの責任は負わないというのが法律上の意味で、それ以上の意味はありません。自分のやったことの責任しか負わないという、ごく常識的な言葉が自己責任なのです。
なのに、その言葉が、「自分のやったことは何もかも責任を取らないといけない」という意味でつかわれ。
しかも、まさか、拉致という、犯罪の被害者が国中から責められるとは思いませんでした。
人質になった3人は少なくとも平和を求めていた、そのために勇気ある行動をとったのになぜ責められるのかと強く主張したいのですが、それはひとまず置きましょう。
もちろん、イラク戦争に賛成の人も反対の人もいたでしょう。しかし、武装した現地の人たちに人質にされたその恐怖の体験くらい、誰でも想像できるはず。
それなのに、さらに彼ら三人を日本中が非難しまくっているヒステリー状態を見てから、私はなんだか日本という国への愛国心がずいぶん減っちゃった気がします。
オリンピックなんかで、日本チームだけでなく、どの国の美技にも、勝者にも敗者にも拍手を送る優しいところが日本のいいところだと思っていたんです。
なんだか、おらが愛したニッポンは変わっちまっただよ、という気持ちがあれ以来ぬぐえません。
辛坊さんというキャスターが遭難して、生還されたというニュースを聞いて、あの「自己責任」という言葉を思い出した方は多かったようです。辛坊さんも自己責任を言い募った一人だったからです。
辛坊さんのように能力のある人でも失敗はします。
人は誰も自分のけつを全部自分でふくのは無理なんです。おしりは自分では見えないんだから。
人は一人では生きていけないから、社会を作り、国を作り、税金を払って、行政組織をつくっているんです。
助け合わなければ生きていけないんだから、人に助けてもらっていいんです。
いいんです。
むしろ、助けて!と早くいうほうがいいですよ。自分のおしりは自分で押せませんから(笑)。
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「自分のやったことは何もかも責任を取らないといけない」というだけではありません。
「自分に決定権のないことにも責任を負わされることがある」
のです。
2008年に起きた製造業における凄惨な「派遣切り」などはまさにその一例です。
あの派遣労働者たちには、派遣先の会社に対する経営に関与する権利は一切なく、何らの責任もないはずです。そして、雇用関係を契約期間の途中で労働者に意に反して終了させる決定権も全くありませんでしたし、その責任も当然ありません。
にもかかわらず、経営者たちの無能・不手際の責任を押し付けられる形で職と住をいっぺんに失うことになってしまいました。
しかし、そんな派遣労働者たちに浴びせられた罵声が、まさにこの「自己責任」でした。
結局、「自己責任」というタームは、「本来、法的または道義的に責任を負うべき者がその責任を免れたり、他人に転嫁するするために」、あるいは、「本来の責任者の責任逃れを弁護するために」用いられるマジックワードにすぎないということでしょう。
まるで出来の悪い司法試験受験生の答案に出てくる「取引の安全」とか「法益保護」とかいう文言のようものです。
とはいえ、司法試験受験生なら栄えある「G」評価をもらってまた来年~で済みますが(いや、旧司法試験受験生の多くはその「来年」もなくなってしまいましたが)、この「自己責任」というマジックワードは、先生ご指摘のとおり、この国の人々の意識を変え、国や会社その他の共同体のあり方を激変させてしまいました。
わたしも、イラク戦争のときに、高遠菜穂子さんたちが「自己責任」という罵声を浴びせられたのを機に、一気にこの国に対する愛着がなくなってしまいました。
福岡県久留米市に「ミヤイリガイの供養碑」というものがあるのをご存知でしょうか。
ミヤイリガイは、俗に「風土病」とも言われた日本住血吸虫病の原因となる寄生虫の中間宿主でして、山梨県や福岡県などではこの日本住血吸虫病に長年多くの人々が悩まされ続けたため、ミヤイリガイを徹底駆除し、ついに絶滅に至らしめたという経緯があります。
供養碑は、人間の都合によって絶滅にさせられたミヤイリガイの霊を慰めるためのものということです。
たしかに、供養碑を立ててもらったところで、当のミヤイリガイにとっては何ら益するところはなく、人間の自己満足にすぎないと言ってしまえばそれまでですが、わたしには、これこそが日本人の本当の心であると思いたいのです。たとえ相手が虫けらであっても、たとえ自分たちにとって迷惑な存在であっても、同じ時に同じ場所に生きた者に対する思いやりを欠かさない、そういう謙虚で思慮深いところが日本人の美点だったのではないでしょうか。
この十数年で「自己責任」論の大合唱のもと、日本人から謙虚さも思慮深さも消えてしまったように思えます。
もっとはっきり言ってしまえば、日本人は野獣化しています。いえ、野獣でさえ、生態系の秩序に従っていて、種の保存に反する行為はしません。今の日本人ときたら、自らの生存基盤まで切り崩しにかかっています。これでは野獣にも劣ると言わざるを得ません。
この辛坊治郎の事件が、日本の人々に「自己責任論、やっぱりおかしい」と気づかせる契機となればいいと思いますが・・・。
ことの発端は首相であった小泉純一郎です。
一国の代表の言うべき言葉じゃない。
自己責任は社会の無責任。
TVの中もそれを見た一般人も「自己責任論」を叫んでいた。
マスコミに出る人間である辛坊氏が
「自己責任だ!」と叫んだおかげでどれだけの人が
影響を受け、そうだ自己責任だ!と思い
そうかなぁ?と疑問に感じていた人も「国が助けたら良い」
とは言え無くなったことでしょうか。
その言動すべてが辛坊氏に返ってきたんですから
人の世って面白いですね
それに、今回のように海上災害時に飛行艇が有効に活用出来るのであれば、何故、海上保安庁に配備しないのですか?
私は、故あって、海上保安庁を応援していますが、同庁は、総職員数が一万少しで、日本領海全ての警備と海上災害に対応し、更に、日本周囲の国境警備の重責にも任じています。 尖閣警備には、全国から交代に巡視船を配備し対応していますが、人員・機材等は限界に近い状態です。
今回の救助劇には、上の事情から、云うに云えない不条理を感じています。 国民も、どうして海上災害に第一次的に対処すべき海上保安庁が救出出来なかったのかを考えるべきです。 対米従属的編成の自衛隊の装備・人員を重点的に整備し、周囲が海の日本領海と海上での災害対応に任じる保安庁の装備・人員の整備を後にした歴代政権には、重大な背信の責めがあると思います。
批判が出るのは当然です。
もし辛坊氏が海上保安庁等に、渡航延期勧告を無視して
出航して、家族や周りが担当官庁に居丈高な態度を取っていたら、批判はわかりますが、堀江氏等ヨットの専門家から批判が出てないところを見ると運が悪かったのではないでしょうか。
最も盲人と二人で渡航するのがダメだといううのならまた別の話ですが。
無事日本に帰ってからの態度も違いますよね。
いずれにしても一色端にはできないでしょう。
ブログには「準備が万全ではない」ことが記されていた。
「自己責任」を声高に叫んでいた以上、この件に関わることを隠蔽することは許されない。
姑息な人間としか思えない。
辛坊氏ですが、たった数日で遭難するとは、いったい何をやってたんでしょうか?しかも、仲間の命まで危険にさらして。まず、イラクで人質になった方と関係者に謝罪して、「自己責任」発言を全面的に取り消すべきでしょう。自己の発言に責任をもって。
余談ですが、イラクの事件の後、ますます「相棒」のファンになりました。
イラクに行った彼らの自己責任論が盛んに報道された
あの小泉時代。小泉の自分の政権批判をそらすために出てきたロジックでした。
ところで、最近「消費者問題」、「自殺問題」「貧困問題」について個人的に勉強しています。
どちらも、一見自己責任というキーワードが出てきます。
しかし、消費者問題も、実は事業者と消費者との間には情報格差や交渉力格差があって、現実には消費者が被害者的な立場に置かれてしまいます。
他方、自殺問題も自殺した経緯をみれば人間関係や経済的な問題で生じていることも多く、単に自己責任とは片づけることはできません。
また、貧困問題についても、貧困者の属性には共通の傾向があって、親がいない、お金がない、社会保障が受けられない、人間関係がないなどの状況があるんです。すべてが自己責任とは言い切れません
このように、一見自己責任の問題にみえるそれぞれの事柄についても、自己責任の背後には社会問題の存在があるです。
なので、他人に対してはもちろんのこと、自分自身に対しても「自己責任」という単語は使ってはいけないのです。
イラクの時の「自己責任」バッシングは、家族の方の、助けるのが日本国家として当たり前だという、発言や態度がすべてです。危ないと言う国へ、自らの意思で行ったのだから、こうなっても仕方がないと、家族が発言すれば、状況は全く違ったものになったでしょう。
勇気と無謀は全く違うものだと理解しなければなりません。
自己責任とはこういうことだと思います。
たとえ辛抱氏(有名人)でなくても、海上保安庁は救助に行きます。正式な手続きをふみ、準備をし、行動をした人を、日本国家は助けます。しかし、誰が考えても無謀な行動を、準備もなしにした人を、助ける必要があるでしょうか?これが自己責任だと思います。
極論ですが、そこそこの山にGパンとスニーカーで登山して、遭難する人が最近います。このような人を税金を使って救助する必要があるのか?はなはだ疑問です。