全国の六善光寺(信州、元、関、岐阜、東海別院、そして甲斐!)で
数えて7年に一度の御開帳が、令和4年4月3日(日)〜6月29日(水)まで同時開催されています。
コロナ禍の影響で1年延期されて、念願の御開帳です!
当館のご近所エリアの甲斐善光寺も、御開帳まっただ中。
甲斐善光寺は、川中島における信玄公と上杉謙信の戦い(※1)の最中、
絶対秘仏のご本尊に何かあっては大変(!)と、信玄公が、ご本尊とお寺と門前町まるごと移転させたお寺。
実際、川中島の戦いを前にした武田氏の信濃侵攻や、川中島の戦いの最中、
善光寺に戦火が及ぶ恐れが高まったようです。
先日ご紹介した端午の節句ののぼり旗より
武田信玄vs上杉謙信
川中島の戦いは北信濃の支配権を巡る戦いと言われていますが、
その求心力と経済力を考えれば、善光寺の支配権も含んでのことだったかと。
山梨は、武田氏館の城下町「甲府」が後の県庁所在地に。
堺のような貿易港が商業都市に発展する例はよく見られますが、
善光寺の場合、その門前町が現在の県庁所在地、長野市の母体となっていったようです。
どれほどの人とものが善光寺に引き寄せられたことか、推して知るべし、です。
今日も、変わらず善光寺は多くの人を惹きつけています。
年間600万人の参詣者を受け入れ、
御開帳のある年、例えば前回、2015年は、その期間だけで約708万人!
その魅力の源は、絶対秘仏のご本尊、天竺、百済、日本の三国伝来、
日本最古の仏さま「一光三尊阿弥陀如来像」でしょうか。
また、善光寺は、日本に仏教の宗派が生まれる前に創建されたお寺。故に、宗派もありません。
平安または鎌倉時代ころより、女人救済。性別も問わないお寺でもあるので、
阿弥陀如来とご縁さえ結べは、どの人も現世の悩みを忘れ、極楽浄土への道を開いていただける「現当二世」・・・
時代を越えて、こうしたご利益が求められ、また観光地としての魅力も相まって、
多くの参拝者が訪れているのかもしれません。
その縁起、歴史など、なかなか興味深い善光寺ですが、
信州善光寺には大本願上人、大勧進貫主と呼ばれるご住職がお二人いらっしゃることもその一つ!?
女人救済の根拠とは別に、善光寺大本願(※)のご住職は代々女性が務められています。
由緒によれば、蘇我馬子の姫君が、善光寺の寺務職についたのが始まりとされ、
以降、皇族、または公家の女性が善光寺大本願の住職として迎えられています。
(※)「大本願」とは、建物の修造の時、勧進活動に携わる本願尼が語源。
大本願の僧房は、次第に善光寺の塔頭に発達し、戦国期には善光寺全体の統括を担うようになりました。
(朝日日本歴史人物事典より)
そして、善光寺大勧進のご住職は代々男性。こちらは天台宗系。
大本願とともに善光寺の寺務を行われる他に、
仏の教えをわかりやすく伝え、世俗の悩み解消に力を尽くすお役目を。
・・・
永禄元年(1558)、信玄公は、絶対秘仏のご本尊に、
前立仏(こちらが現在、甲斐善光寺のご本尊、一光三尊式善光寺如来)、
その他の宝物、僧侶、門前町まで一切合切甲府にお移しになります。
ご本尊が動けば、善光寺大本願のお上人さまも、ということで、
当時の大本願住職も一緒に甲斐にお越しになり、甲斐善光寺建立に尽力されました。
また、信濃善光寺などを在地のもろもろの統治を担当していた、別当栗田氏も甲斐に。
現在展示中の文書は、武田氏から善光寺大本願と栗田氏宛てのもの。
寺院建立のための材木伐採のことや、寺院・門前町もろもろの統治に関する定め書き。
お寺の造営、運営も、ひとつひとつ、数えきれないほどの方たちのご尽力あってこそ。
阿弥陀さまとの結縁とは次元の違う話でも、
およそ500年前の人々の営みを伝えてくれる文書を前に、何とも感慨✨
ぜひ、ご覧にいらしてください🙇