信玄ミュージアムの展示品。
信玄公のお住まいになった館跡やその城下町跡の発掘調査で出土したものが中心です。
一見地味で、ちょっと???
でも、それは誰かさんの生きた証で、きっと何かを教えてくれるもの。
例えば、このボール状のもの、なんだと思いますか?
ヒント1 まんまるです。
直径1㎝前後です。
ヒント2 これで、戦国の戦は激変しました。
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もう、わかっちゃいましたね。
そうなんです。答えは、鉄砲玉!
鉄砲伝来は、天文12年(1543)
種子島に、ポルトガルの商人が漂着、鉄砲の実演販売が功を奏したのでしょうか!?
島主の種子島さま、火縄銃2丁をご購入。製造技術、火薬の調合、射撃法などももちろん一緒に。
ただ、この時期、種子島だけでなく、火縄銃などの火器は、
さまざまなルートで、日本に持ち込まれたという説が有力です。
その脅威に対応すべく、館を守る土塁などは、ほとんど倍の規模にされたように、
鉄砲のパワーは驚き以外の何ものでもなかったはず。
火縄銃の国内製造が早々にスタートし、一気に普及していきます。
刀鍛冶のいる日本において、火縄銃の製造は困難というよりも、
むしろ、改良がほどこされ、他国のものよりも高性能だったとも。
問題は鉄砲玉と火薬の原料をいかに調達するか、でした。
当時の火薬のほとんどが黒色火薬、つまり、煙硝または塩硝(硝石、硝酸カリウム)、木炭、硫黄(およそ7:2:1)の混合物でした。
国内採取のできない硝石は、大陸からの輸入が必要であり、
それを一手に引き受けたのが博多や堺、伊勢など西国の貿易港。
こうした都市の豪商たちが、鉄砲や火薬によって巨万の富を築いたことは想像に難くありません。
(1500年代後半には、人工煙硝が国内生産できるようになります。)
鉄砲玉として、主に使われた金属が鉛です。
こちらも、中国や東南アジアなどから多く輸入。
火薬の原料と同じく、鉛だって、どうしたって、西国の港から入ってくるのです。
こうした東西の物流の格差が、東国のお館さまの頭を悩ますことに💦
お館さま、どうするの!?
本日はこの辺で。
続きも、ぜひお付き合いください🙇
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