新型コロナウイルスの感染の勢いが
国内でもいよいよ心配になってきました。
ところで、
「祇園」と聞いて
何をイメージされますか?
京都の花街、祇園でしょうか。
それとも「祇園祭」でしょうか。
明治以前は祇園社と呼ばれた八坂神社。
その祇園祭、
日本各地に疫病が流行った
貞観11年(869年)、
当時の国の数である66か国にちなみ、
国内でもいよいよ心配になってきました。
ところで、
「祇園」と聞いて
何をイメージされますか?
京都の花街、祇園でしょうか。
それとも「祇園祭」でしょうか。
明治以前は祇園社と呼ばれた八坂神社。
その祇園祭、
日本各地に疫病が流行った
貞観11年(869年)、
当時の国の数である66か国にちなみ、
66本の鉾を立て
災厄が去ることを祈ったことが
祭りの由来と言われております。
災厄が去ることを祈ったことが
祭りの由来と言われております。
「祇園」と言えば
「祇園精舎の鐘の声・・・」
『平家物語』の冒頭の一節を
思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうか。
「祇園精舎」とは
お釈迦さまが
雨期に過ごされた修行の場。
この祇園精舎の守護神が
牛頭天王(ごずてんのう)という
ちょっと聞きなれないお名前ですが、
読んで字のごとく
大きな牛の頭に赤い角をもつ
異国からやってきた神さまです。
祇園社、現在の八坂神社は
所説あるものの、
現在の朝鮮半島南東部
新羅国の牛頭山に座する
スサノオノミコトを祭神として
お迎えしたことが始まりと言われています。
荒ぶる神・スサノオノミコトと
姿形の恐ろしい牛頭天王
しかも共に疫病を司る神。
同じようなイメージをもつ
二つの神の習合は
自然な流れだったのでしょう。
ところ変わって
武田氏の躑躅が崎館(つつじがさき)の城下町に
祇園寺という名の
山伏を取りまとめる寺院がありました。
館から方角にして南西の裏鬼門に位置し、
そこに迎え入れられた
牛頭天王社の祭祀も行ったといいます。
(甲斐国志より)
その後
甲府城築城の時、
寺社は甲府市内の別の場所に移転しますが、
甲府城の鬼門鎮護のお役目は変わらず。
江戸時代に入り、
疫病が流行れば
牛頭天王を祭神とした神輿が
町中を練り歩いたとか。
明治の時になっても、
科学は進めど
人々の頼りにするのは
まだまだこうした神さまであったり
念仏やお題目だったようです。
牛頭天王が人々に与えたのは
何よりも心の支えだったのかもしれません。
明治以降、
寺社は八雲神社と名を改めました。
そして現在、
祇園寺と牛頭天王社跡には
小さな立て看板が残るのみ・・・ですが
その横には
今でも修験道の開祖である
役行者像が残ります。
祇園寺が城下町に建てられたのが
信玄の時代。
そのころから今日に至るまで
この地を見つめてきた石像です。
お地蔵さまのように見えますが('◇')ゞ
新型コロナウイルス。
あらゆる人が
ある意味では
平等に感染にさらされておりますが、
戦国時代も同様。
武田氏館の人々も
府中に住む人々も
得体のしれぬ感染症に
同じようにさらされて、
今の私たち以上に
恐ろしいものと
感じていたのかもしれません・・・。
新型コロナウイルスに感染された方たちの
1日も早い快復を祈ります。
そして現在、
祇園寺と牛頭天王社跡には
小さな立て看板が残るのみ・・・ですが
その横には
今でも修験道の開祖である
役行者像が残ります。
祇園寺が城下町に建てられたのが
信玄の時代。
そのころから今日に至るまで
この地を見つめてきた石像です。
お地蔵さまのように見えますが('◇')ゞ
新型コロナウイルス。
あらゆる人が
ある意味では
平等に感染にさらされておりますが、
戦国時代も同様。
武田氏館の人々も
府中に住む人々も
得体のしれぬ感染症に
同じようにさらされて、
今の私たち以上に
恐ろしいものと
感じていたのかもしれません・・・。
新型コロナウイルスに感染された方たちの
1日も早い快復を祈ります。
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