2月14日といえば、すっかりバレンタインデーが定着し、いろいろな想いでチョコを渡したり、
渡されたり、最近では自分へのご褒美で購入されたりということで、今日は一日
そわそわしている方も多いのではないでしょうか。
気分も上がる14日ですが、戦国時代の同日には勢力図が変わる大きな動きがありました。
それが甲州崩れとも言われる、織田信長と徳川家康による武田領への侵攻が始まった日です。
『信長公記』には、その一連の動向が詳細に記録されていまして、武田攻めの様子がわかります。
武田攻めの総大将となった織田信忠率いる軍勢が、現在の恵那市になる
岩村城に集結し、滝川一益や後に甲斐国を賜る河尻秀隆らを主力として侵攻を開始しました。
この動きに先立って、2月6日には武田領国境の滝ヶ沢要害を守備していた下条氏の家中で
織田方へ内通する動きがあり、河尻秀隆の軍が入城して橋頭堡を確保していました。
そして、武田方の松尾城主小笠原信嶺も織田氏への帰属を申し出たため、抵抗勢力は皆無と言った状態となっていました。
信忠は、配下の団平八や森可成ら若手武将らを先陣とし、木曽郡側の妻子口(妻籠)
から晴南寺口(清内路)を通って下伊那へ侵入させました。
信忠本軍も岩村城を出て、三州街道から侵攻し、先陣と合流したものと見られます。
合流地点は、信玄公が亡くなったとされる駒場が街道の合流地点となっていますので、
おそらくその辺りが織田軍の集結地点になっていたのではないかと思われます。
難なく国境を突破され、動揺した武田方では組織的な抵抗もできないまま、武田信廉を始め、
各地の城郭を任されていた武将らが相次いで逃亡し、織田軍は無傷で武田領に侵攻を果たし、
空き城を占拠していきました。
そのまま、武田氏の滅亡が加速していきましたので、武田氏にとっては悪夢の14日と
いうことになるのではないかと思います。
姫は、誰かにプレゼントはしたのでしょうか?
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