当館、常設展示室企画「武田二十四将 ドラフト会議」
「前線部隊」のトップを走る山本菅助!
前回の総選挙でも、総合第2位という素晴らしい結果を残しています。
その勝因には、おそらく菅助の長年培ってきた知名度があって、
高い知名度を維持できたのは、「甲陽軍鑑」の描く菅助が、
作家のインスピレーションを大いに刺激する御仁だったから!?
どんな方だったかといえば、、
「武田二十四将図」個人蔵(一部)
異形の人であり、
長きにわたる下積みの末、お館さまの下で花開くも、
最期は激戦に身を投じ、討ち死にという、
もっともっとお館さまと高みを目指したかったに違いない、志半ばの死。
そんな「甲陽軍鑑」の菅助はさらに進化し、
「武田信玄の軍師」として、大衆文学の中で羽ばたいていきます。
でも、「甲陽軍鑑」では、菅助を「軍師」と表現していないんです。
軍師というよりも、優れた足軽大将であると同時に、城の設計に通じ、
戦陣において吉凶も占う「軍配者」として描かれています。
それがどうして、「軍師」と呼ばれるようになったのでしょうか。
戦国という、いわゆる内乱時代が終わり、平和な世の中が訪れたとき、
徳川幕府の下では、さまざまな軍学が盛んに研究されます。
そういう流れの中で、菅助も伝説的な武将として甲州流軍学の祖と認められ、
戦国大名のブレーン、策士として活躍した(!)と考えられるようになります。
その役職名として、江戸時代に後付けされたのが「軍師」。
こうして生まれた、菅助や黒田官兵衛などの「軍師」たちは、
名参謀として軍記物といった文学作品に登場し、人気を博していきます。
似たネーミングで、ちょっと???となってしまいそうですが・・・
「甲陽軍鑑」によれば、菅助は「軍師」ならぬ、「軍配者」。
「軍配」は団扇の形で、邪気を払い、霊威を呼び寄せる力があると考えられたもの。
「軍配者」は、天文を読み、出陣や築城開始など大切な日どりや方角の吉凶を占ったり、
さらには軍陣の配置も行いました。
こうした兵法は、天地、陰陽など自然の摂理は神仏がつかさどるという考えを前提に、
その法則を体得した者こそがつかめる必勝法、軍配術で、まさに秘伝とされました。
甲州流の場合、軍配術の奥義と伝承されたのは「大星伝」という、
太陽(大星)と星の運行から勝機をつかむという兵法で、
菅助は、そんな、いにしえの秘伝を復興したと言いますが・・・。
・・・
「甲陽軍鑑」によれば、
菅助の軍略が家中で認められるきっかけとなったのが、1550年の砥石城攻防戦。
現在の長野県上田市の砥石城を攻めた武田勢は大苦戦の末、
駆け付けた村上義清の攻撃に総崩れとなり、全軍崩壊の危機に。
その時、菅助はお館さまに、ある策を提案、自ら50騎を率いて、縦横無尽に反撃します。
その陽動作戦の陰で、武田勢は何とか帰還・・・。
世に言う武田の「砥石崩れ」です。
「甲陽軍鑑」の言葉を借りれば、「摩利支天」のごとく戦った菅助は、
この功が認められ、知行800貫の足軽大将に✨
「摩利支天」とは陽炎を神格化した仏教の守護神。
護身や蓄財の神として中世以降、日本でも広く信仰されますが、
武将たちもまた、兜に摩利支天像を込めたり、旗印に摩利支天をかかげ、
その加護を願ったようです。
菅助も信仰していたといわれ、村上勢の激しい追撃を戦略的に陽動する姿は、
陽炎の摩利支天が菅助に降りてきた(!)かのように、
必死に退く武田勢の目に映ったのかもしれません・・・。
軍配者としてのミステリアスな面に、ちょっと神がかったエピソードも、
菅助を唯一無二のキャラクターに押し上げたに違いなく。
単なるブレーンじゃない、武田信玄の軍師・山本菅助が誕生します・・・!
どこかの山から種が飛んできて・・
旧堀田古城園の庭の奥で、ひっそりと咲きました。