川中島をめぐるもうひとつ戦い

2022-09-12 20:13:30 | 紹介
北信濃、川中島で繰り広げられた川中島の戦い。
戦国時代を代表する、上杉謙信、武田信玄という両雄がしのぎを削った戦いです。
12年におよんだ戦いのクイマックスは、永禄4年(1561)の八幡原の戦い。
信玄公の実弟・武田信繁、軍配者・山本菅助といった、
武田軍を引っぱってきた武将たちを多く失っただけでなく、
他では見られない大将同士の直接対決、謙信公と信玄公の一騎打ちもあり…。

江戸時代に入り、「川中島」のドラマは、
多くの文芸、絵画作品などのインスピレーションの源となっていきました。

現在、当館の特別展示室で展示中の錦絵「川中島大合戦の図」(個人蔵)

川中島という、一地域の合戦の知名度がここまで高くなった要因には、
甲州流軍学の聖典『甲陽軍鑑』の出版による、
身分の上下を超えた読者の獲得がありました。
実際、『甲陽軍鑑』のクライマックス、川中島の戦いは多くのファンを生み、
その人気に応えて、錦絵含む浮世絵などが制作されていきます。

ファンの方々は、どんな風に絵を眺め、楽しんだのでしょう。
めくるめく歴史絵巻+時々妄想(!?)を、頭の中で展開させたかもしれないし、
馬上の謙信公の急襲に、泰然と応える信玄公の姿に感動し、
「武士たるもの、こうあるべし✨」と、イメトレの教材にした方もいらしたかも。

けれども、それとは全く違う思いで、「川中島」を見ていた方が、どうやらいらっしゃった。
それが、紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣(1602-1671)。


視線の先には、彼の下で制作された、紀州本「川中島合戦図屏風」。
現在、和歌山県立博物館が所蔵する、
合戦をテーマとした屏風の中でも、その芸術性が評価される屏風のひとつ。

徳川頼宣が採用したのが越後流の軍学。
藩の軍政の補佐や、屏風の監修を担当したと考えられているのが、
紀州徳川家お抱え、越後流軍学者・宇佐美定祐。
定祐は北越関連の軍記(※)の制作に関わっており、
紀州本「川中島合戦図屏風」も、当然のことながらその内容に従っていますが、
これらには、『甲陽軍鑑』の記述を打ち消すような表現も多く、
その最たるものが、謙信公と信玄公との一騎打ち。

信玄公の陣営に、謙信公が馬上から斬り込んだという『甲陽軍鑑』説に対し、
川中島の戦いのまっただ中、両軍の大将が、御幣川(おんべがわ)に馬を進め、
双方、馬上で太刀を抜き払い、切り結んだ(!)という北越関連の軍記が主張する説。

どちらの説に肩入れするかは、もちろん、お好み次第。
とはいえ、シチュエーションがずいぶん違う。
なぜ、ここまで違う記録が存在するのでしょうか。

そこには、将軍家に負けじと、全ては紀州徳川家の権威を高めるために、
江戸から遠く離れた紀州で仕組まれた、壮大な策が・・・!?

そんなことあるかな~と疑う方も多いかと。
でも、この企てを軸に考えると、
少なくとも紀州本「川中島合戦図屏風」を巡るなぞが解けていく!?

定祐が関わった軍記が主張する「川中島」の、
上杉優勢の戦況を暗示させるお二人の戦いが、
合戦図6曲1双の右隻五扇に描かれた一方で、
それに相対する左隻二扇に、
上杉方の一武将に過ぎなかった宇佐美駿河守定行が、
なぜ、施された金箔の中を堂々突き進むように描かれたのか?

なぜ、こういう形で、藩の軍政の根幹となる越後流軍学の創始者として、
宇佐美定行を祀りあげなければならなかったのか?

頼宣の時代、世の中はまだ武断政治。
藩の権威を高める要素のひとつがその軍事力だったとすれば、
藩の軍政の基礎となる軍学の権威を高めることがとっても大事!

目的のためには何とやら。
きっと、こうした、大胆な一手一手が積み重ねられ、
将軍家に匹敵する紀州徳川家が目指されたのでは!?

・・・頼宣の目的は、果たして達成されたのでしょうか。
そもそも、その策を練り上げ実行したのが、頼宣と、自称軍師の子孫・宇佐美定祐だったのか、
どれもこれも、本当のところ、知る由もないのですが・・・。

いずれにしても、その後、紀州徳川家は、徳川御三家でも唯一、
8代将軍・徳川吉宗(1684-1751)、14代将軍・徳川家茂(1846-1866)という
二人の将軍を生むのです・・・。

(※)『北越軍記』、『川中島五箇度合戦記』など
・・・
”!?”ばかりの今回のブログは、紀州本「川中島合戦図屏風」を調査・研究された、
元・和歌山県立博物館の学芸員、高橋修さんのご著書を参考にさせていただきました。
『【異説】もうひとつの川中島合戦:紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(洋泉社、2007年)

紀州本「川中島合戦図屏風」は、頼宣の将軍家との戦いの証か否か!?

芸術作品から歴史を紐解く面白さをどうぞ!
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永禄4年9月10日 歴史的な激戦となった川中島の戦い

2022-09-10 13:06:54 | イベント
戦国時代で激戦といえば、皆さんはどの合戦を思い浮かべますか?
各地方の各大名ごとに大合戦はいくつもあると思いますが、
歴史上有名な合戦として、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いは
間違いなくそのうちの一つと言えると思います。

信玄ミュージアムでは、これまでもお知らせしてきましたとおり、
無料エリアの常設展示室で参加型企画展
「決戦川中島 武田・上杉勝者はどっち?」を
7月20日(水)から9月30日(金)まで開催しています。
残すところ3週間となりましたが、昨日までに4000人超の投票をいただきました。
現時点で6:4で武田勢が優勢となっています。

戦から約460年が経ち、激戦地も市街地化して様変わりいたしました。
第4次川中島の戦いは八幡原の戦いとも言われますが、
その名の由来となりました八幡神社一帯は史跡公園となり、
そして園内には長野市立博物館も所在しています。
神社の隣には合戦の激しさを象徴する両軍大将の一騎打ちの銅像も。
戦は、9月9日から夜から動き出します。
山本菅助らの献策を用いて武田勢は軍を2つに分け、本隊は八幡原へ布陣し、
別働隊は上杉謙信が陣を置いた妻女山へ。
別働隊が背後から急襲し、撤退する上杉軍を八幡原に布陣した本隊で殲滅する
作戦をとりましたが、謙信に見破られて武田軍は窮地に陥りました。
その後、別働隊が到着して形勢逆転となり、上杉勢の撤退で幕が下りた、
そう一般的に伝えられています。

ところが、非常に有名な戦であったにもかかわらず、遺された史料が少なく、
戦の実態は明らかではありません。
私たちがビジュアルで目にし、知っている川中島の戦いのストーリーは、
いずれも武田側の『甲陽軍鑑』、上杉側の『北越軍記』など
後世の編纂物で語られたものであり、事実を記録したものではないものを
事実だったかのように信じているということです。
そのため、いまだに不可解な謎も多いわけでして、
例えば、なぜ上杉謙信は海津城の先に位置する妻女山に布陣したのか?
あるいは、現実的に妻女山に万の軍勢が収まったのか?
武田の別働隊も同じく大軍がどうやって狭い尾根を伝って進めたのか?
鶴翼の陣、車掛りの陣の戦術勝負はあったのか?
などなど、言い出したらキリがないのですけど😰 

ただ、大将同士の一騎打ちも含め、戦況は不確かながら、語り継がれるほどの
激戦であったことは、数少ない遺された文書からも間違いないようです。
特にこの戦で武田側は、武田軍の副将とも目された武田信繁が戦死し、
両角豊後守や山本菅助ら名だたる武将を失っていますので、損失は相当な
ものだったと想像されます。
すべてではありませんが、戦死した武将たちに共通して言えることは、
いずれもこの時期に北信濃の軍事行動に関与していた人物であり、
上杉勢と最前線で対峙してきた武将たちであったことです。
このことが何を暗示しているのか今はわかりませんが、
おそらく戦況を知る上で、何か意味があるのだと思っています。
まだまだわからないことも多く、謎が多い第4次の川中島の戦いですが、
これから散策には適した季節ですので、現地を歩きながら
思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
コメント (2)
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9月9日は大人のひな祭り❤つづく10日は中秋の名月🌕

2022-09-09 15:29:41 | イベント
9月9日は重陽の節句、菊の節句です。

3月3日の桃の節句や、5月5日の端午の節句などと比べ、
現在は、少し存在感の薄い重陽の節句ですが、
縁起が良いという陽数(奇数)の中でも、
最も大きな「9」が文字通り重なるこの節句では、
無病息災、子孫繁栄を古来より願い、祝ったとか。

一方で、縁起の良い陽数が重なると、意味が反転すると考えられたのか、
災いなどが起こりやすい不吉な日としても警戒され、邪気払いも行われました。

「菊の節句」とも呼ばれただけあり、
菊は邪気を払うものとして、その姿が愛でられ、菊酒も用意されました。
菊は美しいだけでなく、解毒、消炎・鎮痛作用のある薬草として用いられたためで、
ちょっと脱線しますが、お刺身のツマに菊が使われるのにも、理由があったのですね。

また、庶民の間では「栗の節句」と親しまれたように、栗も旬。
美味しい😋 だけでなく、
夏の暑さで疲れた体に、元気をくれる食べ物として好まれたよう。
実際、栗は、抗酸化作用のあるタンニンやビタミンCを多く含むそうです!

もうひとつ、この日を「後の雛」、「大人のひな祭り」と呼ぶ所以は、
この時期、大切なひな人形に虫がつかないよう、風通しも兼ねてもう一度飾ったから。
それに、菊の香りを冷酒に移して愉しんだり、
菊に綿をかぶせ、そこに溜まった夜露をアンチエイジング✨の化粧水とするなど、
重陽の節句は「大人」のイベントにふさわしい・・!


旧堀田古城園にも、菊!?
こちらは秋明菊(シュウメイギク)と言います。
キク科じゃないけれど、八重咲きが菊っぽいから、このように名付けられたとか。
品評会に出品される菊とは全然ちがう。でも可憐。
旧堀田古城園の庭では、こうした木や花が調和した景色をお楽しみいただけます。

・・・・・
つづく明日、9月10日は中秋の名月🎑
イベント続きの季節、到来です♪

信玄ミュージアム内の昭和初期の料亭旅館、
旧堀田古城園では、今年もお月見の準備をいたしました。

甲州ならではの「十五夜」のご紹介もしております。

例えば、お供えしたお団子は、こっそりもらってもOK(゜o゜;で、
「取られることで福がある」と、あえて通り道に近いところに飾る家もあったとか。
地域によっては、お供え一式ごっそりもらって、後でこっそり器だけ返却(゜o゜;とか。
十五夜の夜に採ったヘチマ水を化粧水として使うと、純白のきめ細かい美肌✨になるなど。
ちょっと重陽の節句の菊の化粧水と重なりますね。
『甲州年中行事』(若尾謹之助著)より

旧堀田古城園にお越しの際には、ぜひご覧ください。
かつて神さまの依代として見立てられたススキと、
おだんごだけでなく、別名「芋名月」「栗名月」にならって、お芋や栗なども。

ささやかながら、今年の収穫に感謝✨のお供え物です。
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ちいさな秋、実りを探しに😊

2022-09-05 20:29:46 | 紹介
台風11号の影響で、ここ数日は不安定なお天気続きの甲府です。
それでも日中はそれなりの暑さ💦
朝晩は、ずいぶん過ごしやすくなりましが、残暑も厳しく、
熱中症への注意は、まだ必要のようです。

でも、すごいな〜と毎年感心してしまうのは、
秋の支度が、そこここで着々と進められていること。
本日は、旧堀田古城園のちいさくても元気でかわいい実りを
ちょこっとですが、ご紹介。

金木犀の木の下に・・・どこからきたの?
いつの間にやら飛んできたイヌタデ。


毎年、色づきのグラデーションが楽しみなコムラサキ

ひし形のお茶室前の南天の実もたくさん!

ヒノキの赤ちゃんだって(o・ω・o)


そして、植え込みに潜むこの子たちも(*˘︶˘*).。.:*♡

みんな元気に育ちますように✨

古来より、秋のお楽しみは、豊穣・収穫に感謝の秋祭り。
現代も、秋から冬にかけては、祝日も増えて、うれしさ倍増ヽ(=´▽`=)ノ

皆さまも、秋の行楽をお楽しみください🍇

ちなみに信玄ミュージアムの休館日は火曜日です。
お間違いのないようにおでかけください。
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参加型企画「決戦川中島 武田・上杉勝者はどっち?」経過報告

2022-09-03 11:04:48 | イベント
朝夕が涼しくなり、甲府も徐々に秋らしくなってきました。
日中は30℃を超える日がもう少し続きそうですが、秋は確実に近づいています。
8月が終わり、9月最初の週末を迎えています。
酷暑の7月20日から開始しています今年の夏季参加型企画もいよいよ残り1か月。
8月末時点の投票結果をお伝えいたします。

まず、総投票数は3716票で、投票率は23.1%となっています。
そして、両軍の獲得票数は、
武田2113票
上杉1603票
その差は510票というところですが、なかなか両軍の差が縮まりません。
日によっては互角、あるいは上杉勝利の日もありますが、
多くは武田勝利で進んでいます。
今回の企画では、ドラマ・映画等にも描かれ、ご存知の方も多い
第4次川中島の戦いだけではない、5回全体の合戦の結果と評価から
判断をいただいています。
その中で、一時的な合戦だけではなく、着々と地域支配の地盤を整えた
武田優位との評価をいただいているのかもしれません。
とはいえ、川中島をめぐる攻防の中の1回の激戦とはいえ、
第4次の川中島の戦いで武田の損失も相当大きかったはずです。
中でも武田信繁という武田家臣団の要を失ったことは、その後の武田家中の動向や
武田家の趨勢にも影響を与えた可能性もあり、この1点だけでも武田の敗北を
印象づける出来事と言えます。
全体の評価としては、信繁の死が最終的な家の存続にまで波及したと見れば、
武田・上杉はどちらが川中島の勝者だったのでしょうか。
開催中の企画展の主人公、山本菅助も第4次で戦死していますので、
川中島の戦いは、いろいろな方面に影響を与え、様々なドラマを生んだ
激戦だったと言えるでしょう。
ご来館の上、皆様の公平なジャッジをお待ちしております。

また、現在展示中の山本菅助に関わる資料も今月12日(月)までの展示です。
「勘助」ではなく「菅助」として実在が証明された市河家文書も展示中。
第3次川中島の戦いに関連し、北信濃の名族市河氏へ出されたもので、
信玄公から使者として山本菅助を派遣すると記された古文書です。
山本菅助に関わる重要史料ですので、この機会にご覧ください。

そして、山本菅助関連の後期展示が14日(水)から始まります。

以前のお知らせでは、手続きが完了していませんでしたので
お知らせできませんでしたが、信玄公宝物館様から「山本勘助画像」
を借用させていただき、古文書などとともに展示をいたします。
刊行されています山本菅助関連の刊行図書の中で目にする最も知られた画像です。

合わせて、信玄公の生誕祭期間では、テーマ2の「神格化された武田信玄」を
開催しますので、合わせてご覧ください。
後期展示からは、文化庁の補助を受けての開催となります。
引き続き、ご期待ください。

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