つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

春日山城@新潟県

2024-01-05 12:00:00 | 100名城
2024年1月5日

新年を迎え三城目は新潟県の春日山城。
ついにワタクシの好きな武将、上杉謙信を語る時がやって来ました。

上杉謙信は生涯70回も戦い、勝率は95%とも98%とも言われており、戦国最強であったのは間違いありません。

最大のライバル武田信玄とは12年も戦い続け、戦国時代最大規模の死傷者を出した第四次川中島の戦いや、織田軍に大勝利を納めた手取川の戦いは有名です。

そして上杉謙信といえば、義を重んじていたこと。

そんな上杉謙信が居城としていたのが、新潟県上越市にある春日山城。

巨大な山城で、本来は豪雪地帯の越後はこの時期に登城する事は難しいのですが、今年は暖冬で圧倒的に雪が少ないので、快晴を狙って登城しました。



車は春日山神社に止めることができます。
急な階段を登り、新年なので春日山神社で参拝してから登ることにしました。



春日山城の登場ルートは主に3ルートあり、中心の本丸を基本として左右真ん中から通るルートです。

そして、各ルートには上杉家にとって重要な家臣団が鉄壁の守りを敷いています。

幾つもの曲輪を併せ持つ春日山城の案内地図を見るだけでテンションが上がってしまいます。



まずは上杉謙信像を拝みに行きますが、背後には春日山城が見え、城のメインとなる三の丸、二の丸、本丸が段になって連なっています。



快晴でこれ以上ないくらい、絶好の登山日和です。
整備された道を進み、一番左手のルートから攻めていきたいと思います。



年末の写真。
実は6日前にこの時期に登城できるか、一度雪の状況を調べに来ました。

今日はさらに雪も溶けて、少しは登りやすくなっていると思われます。



堀が縦に伸びているので堅堀のようにも見えます。

右手の高い土堀のようになっている上には、直江兼続の屋敷があった場所です。



アスファルトで舗装された道の右手は春日山城の主郭部。左手は巨大な谷になっていて、ここにも削り落として作ったような曲輪が段になって連なっています。

城のスケールが大きすぎて、見どころが多すぎます。



左手から行くルートはなんと崩落していて道が塞がっています。

先日の地震の影響なのかは不明ですが、一度引き返します。



真ん中のルートから主郭部を目指すことにしました。

土塁みたいな遺構が先に立ち塞がります。



まずは三の丸に上がります。
ここは上杉謙信の養子の息子、上杉景虎の屋敷と、米蔵があった場所です。



三の丸を囲むように土塁で防備されているのが分かります。



土塁の上に登っての一枚。
雪が残っているので、かなり登りにくかったのですが、逆に雪のおかげで凹凸が分かりやすく、写真でも地形の変化が見て取れます。

土塁の形も雪のおかげでハッキリ。



三の丸はけっこう大きな曲輪面積なのが分かります。



至る所に曲輪の周りを囲む形で帯曲輪があります。
こちらも雪で分かりやすくなっています。



三の丸から上に登ってくると二の丸跡に到着です。
上には主郭の本丸が見えます。
二の丸は本丸を囲むように、細長く配置されています。

もし敵が攻めて来た際は、この二の丸が最後の砦として重要な役割を果たすようになっています。

そして、二の丸のこの先には直江兼続の屋敷の曲輪に繋がっています。



二の丸から見た三の丸。
高低差があり、守りに堅い城造りがされています。



続いて二の丸から主郭部へさらに登ります。



本丸脇には春日山城で一番高いところにある天守跡に到着です。

しかし、1月1日の地震によって天守跡に亀裂が入ってしまい立ち入り禁止になっていました。

しかし、天守跡から見る山が絶景です。
入れないのは残念ですが無事の復活を願います。

天守跡を左手に見て、右側が本丸ですが一度反対側に降ります。



天守跡から階段を降りると、井戸曲輪があり巨大な井戸があります。

雨や雪解け水が地下水として砂岩に浸透して井戸を潤していると考えられています。

どうやって、この井戸のポイントを探り当てたのかは不明らしいのですが、この春日山城が長いこと繁栄したのは、生活に欠かすことのできない水をこの井戸で手に入れたから。かもしれないですね。



井戸曲輪をさらに降るとすぐに急な階段になっていて、鐘楼跡があります。

山城の特徴でもある、尾根を降りて登るパターン・・・



鐘楼跡から見た井戸曲輪。
尾根を分断したことが分かりやすいほどのV字。



左手が井戸曲輪、右手が鐘楼跡。
分かりやすいほどの堀切です。

山城ファンなら誰でもテンション上がるやつです。



鐘楼跡から見て、井戸曲輪の反対側には上杉景勝の屋敷跡があります。

本丸の背後は養子の息子、上杉景勝が守っているので、これで本丸は上杉景勝、上杉景虎で守っていることが分かりました。

そしてさらに、上杉景勝を守るように上杉家の重臣柿崎家。上杉景虎を守るように直江家という城の配置になっています。


右手が鐘楼跡、左手が上杉景勝屋敷跡。
こちらも見事な程のV字。

至る所に曲輪や堀切があります。


上杉景勝屋敷跡の下には柿崎家屋敷跡があります。

巨大な曲輪で、防御ラインとして多くの兵を置けるようにしたのでしょうか。

正解か不正解かは分かりませんが、そんな妄想を繰り広げながら山城を歩くのが何よりも楽しい。



再び来た道を戻って本丸跡に向かいます。
右手が天守跡、左手が本丸です。


やっと本丸跡に到着です。



本丸からは見た景色は一段と綺麗で全体を見渡すことができます。



上越市の街並みを一望することができます。
この地を支えたのがこの海。

海と雪山と街並みが同時に見れる絶景。
この景色を独り占めしているようで、ベンチに座りながら、しばらく眺めていました。

400年以上前はこの景色を見て上杉謙信は何を考えていたのでしょうか。

この地から数万の軍勢を連れて信濃、北陸、小田原、千葉など関東管領の上杉謙信は出兵したと想像しただけでもゾクゾクしてしまいます。



護摩堂跡。
上杉謙信は真言密教を深く信仰していて、護摩を焚いて戦勝や息災を祈願したのがこの護摩堂でした。




この護摩堂から山々が綺麗に見えます。
ちなみに妙高山は標高2400mクラスで日本百名山です。



護摩堂の曲輪の一段下には、毘沙門堂があります。



お堂の中には毘沙門天の尊像があります。
上杉謙信はこの毘沙門堂に籠り経を唱えました。

毘沙門天は悪魔を降ろす神であり、上杉謙信は自らを毘沙門天の化身として戦国時代を生き抜く。

また上杉軍は降魔の軍として、毘の軍旗を陣頭にかざしました。

ちなみに上杉軍のもう一つの軍旗は龍。
龍の軍旗は上杉軍が総攻撃をかける時にのみ掲げました。



直江家屋敷跡。
三つの登城ルートの内の一つは、直江家が防備しています。



直江家屋敷跡から見る三の丸跡と二の丸跡。
目の前には帯曲輪が残雪でハッキリと見えます。

重要な郭を守るために、斜面を水平に切り出して防御力を高める役割がありますが、直江家屋敷跡を囲むように帯曲輪が配されています。



直江家屋敷跡を降ると春日山神社に繋がります。

その途中に食い違いの虎口があり、道が人工的にジグザグに作られています。



これも城を防備するための役割があり、下から攻めて来た敵は、この虎口でスピードが落ち、攻め手の軍が一時的に詰まったところを攻撃します。



虎口の下部には空堀があります。
さすが中世の名城。

山城のセオリーを全て取り込んでいます。





この空堀、下から見ると真ん中の堀上を中心として左右が空堀となっています。



空堀右側



空堀左側



空堀の下には千貫門の跡があります。
幾つもの古絵図で必ず書かれている門で、土塁が一部分断されているので、ここに千貫門があったと考えられています。



主道も土塁で囲まれています。

幾つもの空堀、土塁、虎口。
春日山城にとってこの場所が如何に重要な箇所だったかが分かります。

このポイントだけで、山城の魅力を全て凝縮したような贅沢な遺構が密集しています。



さらに降ると春日山神社に到着ですが、その途中の山道は写真のようになっています。

地形を削って通り道にしているのですが、完全に土堀になっています。



この上から攻撃されたら、大軍勢でも容易に先に進む事はできないかな。

日本五大山城なだけあり、城郭の周囲5〜6kmの巨大な城郭で200以上の曲輪が並びます。
まさに戦国時代を生き抜いた城。どこを歩いても見どころが満載。

上杉謙信は49歳の時に春日山城で亡くなりました。
その後上杉家は景勝と景虎による家督相続の争いとなります。
景勝が家督を継いだ後は1598年、上杉家は会津に移封となり、最終的に関ヶ原で負けた事で、山形県の米沢で明治まで存続しました。

春日山城は1607年に廃城となり、歴史の表舞台から消えました。

しかし、戦国最強の武将は今でも街に根付いています。

近いエリアに春日山城の支城が多く存在していますので、これから少しずつ攻略する予定。

その際に少しずつ小出しで上杉謙信のことも書いていきたいと思います。




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