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2016年12月号 私は部族が嫌いだ 寄稿:アッディス

2017年02月14日 | オピニオン
部族とは人々の集団のこと。共に生活し、共通の言語、文化、歴史を共有する。特に、都市や町には住まない人々を指す。(Cambridge Advanced Learner’s Dictionary 大3版より)

私からすれば、部族という考え方は、現代化とグローバル社会が発展するこの時代に逆行している。というのも、部族は文明化というプロセスの中で、消えゆくものであるからだ。

先ほどの部族の定義をもう一度見てみよう。そこでは「部族とは、特に、都市や町には住まない人々を指す」とあった。田舎の村のある部族に属する人々は、自身の部族を隣人よりもはるかに大切にしている。なぜなら、それは彼らの生きる世界に他ならないからだ。もし、「白人」(ヨーロッパ人や北米人)に向かって、あなたの部族は何か、と尋ねたら、彼らは非常に驚くだろう。彼らが部族に一度も属したことがないからではない。人類の進化の中で部族というものを経験した彼らが、文明化・都市化を経る中でそれを捨てたからである。それもはるか昔に。この問いが彼らを驚かせるほど、ずっと前に。今日、西洋化された文明社会に部族は存在しない。しかし、文明化した人の集まりとしての民族はある。この光景こそ、グローバル社会が歩む道を示している。

デジタル技術に依る文明化によって、異文化間の人々の距離は急速に縮まっている。私たちが生きるのは、様々な言語、文化、価値等を共有するグローバルなコミュニティーの中だ。

特にアフリカでみられる対立の原因に目を向ければ、そこに民族的な側面と、根深い部族間の分裂があることは無視できない。南スーダンで数十年続く対立は、その好例の一つだ。

部族社会は、人種差別をもたらす。さらにいうと、部族崇拝者は広い意味での人種差別主義者だ。私たちが部族崇拝者であるなら、人種差別主義者という理由で他人を責めることができるだろうか。

もし、私たちが部族という名のもとに、差別したり、主流から外したり、自分の部族の一員でない者に憎しみを募らせるなら、私にどの部族かと聞かないでもらいたい。私は部族が嫌いなのだ。


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