先に陶板名画の庭を紹介しましたが、本来の目的は
《京都府立総合資料館前の看板です、最終日の12日に慌ててやって来ました、この奥2階で展示しています》
実は、この日の前日、京都文化博物館に≪野口久光シネマ・グラフィックス展≫を
見に行った時の事、何気なく廊下に張ってあるポスターを見ていて気が付いたのです・・・ナント明日が最終日
台風19号の進路を気にしながら、私の進路は北山通りにある総合資料館へ
《資料館の入り口を入りますと、文化博物館で見たポスターが私を迎えてくれました (あんただけと違うで~)》
《二階へ上がろうと正面を見たら、山紫水明の京(江戸時代)が展示してあったのでパチリ、興味ある人どうぞ》
二階の展示室は、建物が古いもんでちょいと薄ぐらかった、入り口で頂いたのが
《今回のチラシです、表と裏を載せましたので見て下さい、下に頂いた資料も入れましたので見て下さい》
《資料の説明書に有るようにこの部分がデジタルで拡大して見られて【西高瀬川】の存在と位置を改めて知りました》
《この写真は、本年5月に嵐山周辺を取材した時に撮った、嵐山亀山公園にある≪角倉了以像≫と解説(光線で読みずらい)》
本年は、高瀬川開削400年記念と有るように、記念の年に当たるのですね~
何度も行っている文化博物館で11日にポスターで気が付いたのには理由が
4・5日前に、高瀬川の二条にある「一之舟入」を写真にと思っていたからでした
しかも最終日の前日に知ったというのも、不思議と言えば不思議な事ですね
もちろん、この後木屋町の二条に行くのですが、折角やから高瀬川の事を少々
高瀬川開削400年記念~高瀬川と京都の水運~資料解説集から抜粋
高瀬川の水運
高瀬川は伏見と京都を水運で結ぶために、慶長19年(1614)年、
角倉了以によって開かれました。今年でちょうど400年になります。
開くというと新たに河川を掘削した印象が強いのですが、
既存の農業用水路などを改良する工事もありました、また現在の
京都市南区付近は、鴨川を横切る難所となりました。
高瀬川の利用は時間帯による一方通行となっていました。
朝は伏見から一斉に曳き船として京都へ向かい、午後に京都から伏見へ下りました。
京都へは薪や木炭などの燃料をはじめとして、生活物資が運び込まれました
一方、京都からは物資の他に洛中で集められた、し尿が運び出され、
下流域の農地の肥料となりました。高瀬川は江戸時代を通じて
京都の生活を支える、ライフラインの役割を果たしました。
高瀬舟
明治の文豪、森鴎外の代表作です。大正5年に雑誌『中央公論』に発表されました
高瀬舟で京都から大阪へ送られる罪人と、護送役の同心のやりとりを描いた
この作品により、京都以外の人にも高瀬川の名が知られるようになりました。
国語の教科書にも収録され、幅広い世代に読まれています。鴎外は、
江戸時代の随筆『翁草』の「流人の話」を元にこの作品を書いたことを
明らかにしています。原話では同心の名は書かれていませんが、
この作品では「羽田庄兵衛」としています、羽田は実在の人物で、
京都大学総長を務めた、羽田亨氏の先祖と言われています。
今まで何気なく角倉了以の作った高瀬川ぐらいにしか知らなかったのが
今回の展示によって、色々と知ることが出来ました、
帰りに寄りました≪一之舟入≫の写真を見ていただいて
当時の事を偲んでいただければ嬉しいです
《高瀬舟の特長である、舟底が平になっているのがよく分かるでしょう・・・》
最後に ”総合資料館だより” の表紙から抜粋しました、この絵は
竹田街道沿いの高瀬川で船曳に曳かれる高瀬舟を描いています
下りは楽ですが、上りはこのように人の力で「一之舟入」まで運んだのですね
そして、角倉了以と言えば、嵐山の大堰川(保津川)を開削して
船の通航を図った事でも有名です、近代になって遊船による
保津川下りが始まったのも、この開削のお蔭ですね~
京都の大恩人【角倉了以】に感謝しながら幕と致します
永のお付き合い有難う御座いました