松ひとり言

谷藤松で御座います。
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京都発信!足利義満の建立・・嵯峨≪鹿王院≫に初めて

2016年04月24日 19時40分45秒 | 日記

カメラ片手に取材に行ったのですが、パソコンへの入力ミスで全てアウト

翌日もう一度、同じコースを取材して来ました・・・鹿王院に行った時でした

受付の(たぶん奥様かと思う)人が私を見て、あれ と言う顔をされましたので

カメラ取り込み失敗談をお話したところ、『それは気の毒に拝観料は要りませんよ』と

そのお気持ちが大変嬉しくて・・・もちろん自分のミスなので、と拝観料は置いて来ました

何か清々しい気持ちで拝観する事が出来て、ミスが吉と出たのでした

さて鹿王院さんに入らせて頂きましょう・・・先ずはパンフレットからどうぞ

   

  

あの金閣寺で有名な室町幕府の第三代将軍・足利義満の建立なんですね

この鹿王院ですが、参拝者が大変少ないんです、2日間とも私一人でした

『カメラも庭は良いけれど、室内はご遠慮して頂いてます』と言われたのですが

”鹿王院さん、ご免なさい” どうしてもブログで紹介したくってシャッター押しました

では・・・その写真を入り口から順にご覧ください

     

《山門を潜って一歩入ると、緑・緑・緑、です、石畳の参道の両横には苔がびっしり青々と、もう一つ門を潜って、いよいよ客殿に入ります》

 

《拝観料をお支払いして、上の上がらせて頂きました、客殿の正面には足利義満の筆による ”鹿王院” の額が掲げられていました》

 

《振り向くと静かで落ち着いた感じの ”本庭” が我々を迎えてくれます、そして庭の右奥に舎利殿の建物が・・・私を呼んでいるように》

 

《三段ほど降りると、本堂と(正面の白壁の建物)その中に足利義満像がありました、その横の回廊を進むと前方に舎利殿が

 

《義満像を出て、再び回廊を奥に進みますと・・・・舎利殿の入り口に・・・・・自由に入れます・・・今回許可無しで撮影致しました

 

《木の扉を開いて中に入りますと、曼荼羅が出迎えてくれました、中央に釈迦が横たわっています、涅槃の姿ですね、読んでね》

      

《舎利殿の中央に、多宝塔が素晴らしい気品に溢れた姿で、何か身が引き締まる思いに駆られました・・・貴重な写真ですよ》ゴメンね

《大満足で新緑の中に戻って来ました、ここ鹿王院は紅葉の名所新緑の紅葉も中々良いものですよ心があらわれる思いでした》

 

 

 

元の山門に戻って来ました、本当に最高でした(受付の奥様?の優しい心にふれて)

いやー2日連続で来ましたが、来て良かったです

この秋に今度は赤いモミジを写しに来たいものです

もう一度・・・・・無断で写真撮影した事、お詫びいたします

 

  

 

 

 

 

 

 


京都発信・・・長慶天皇の御陵がこんな近くに!

2016年04月24日 08時02分57秒 | 日記

長慶天皇って、不本意ながら初めて知ったのです

ましてや我が右京区しかも何度も通っているこの路沿いに

 

《少し見辛いかも知れませんが・・・嵐電の嵯峨駅の前にあります  長慶天皇・嵯峨東陵と皇太子の墓があります・・・》

《上が長慶天皇の嵯峨東陵(ちょうけいてんのう・さがひがしみささぎ)と読みます、下が皇太子の墓です》

 

《嵐電嵯峨駅を降りて左前のあります・・・(私も気が付かなかった)、奥に進むと突き当たり左側が入り口になります》

 

《中へ・・・(誰でも自由に入れます) 中々立派な御陵ですよ階段が見えている処が長慶天皇の御陵で、その奥に皇太子の墓が》

《その階段を3段上がった正面に長慶天皇・嵯峨東陵が・・・前に進むと云っても人間はダメ(もちろんカメラの望遠で前進を》

  

 

長慶天皇の御陵から奥に進むと皇太子の墓がありました、奥深い処に墓が、ここもカメラの望遠で前進しました》

 

《ナント・・・皇太子の墓の前の砂利道の真ん中に可憐な花が咲いていました、もう少しで踏みつけるところでした記念にパチリ》

さて 長慶天皇とは・・・何時頃の時代の天皇さんなんか全く分らないので調べてびっくり

室町時代の日本の恥部とも言われている、あの南北朝時代の南朝方の天皇で

京都から三種の神器を秘かに持ち出し芳野へ逃れた後醍醐天皇(第97代)

僅か2年で亡くなった後醍醐天皇の次の天皇が長慶天皇(第98代)なんですって

この頃の詳しい資料が少なくって、正式に98代天皇と決定するのが大正時代

何でも、明治天皇が南朝方が正式な天皇であるとの発言で決定したとか

調べてみると、その頃の京の(北朝)天皇は正式では泣くって、北1・北2となっている(市バスか~

そして長慶天皇の弟が99代天皇、後亀山天皇になります・・・所謂南朝最後の天皇です

細川頼之の仲裁で後亀山天皇が京の後小松天皇に三種の神器を奉還して元の朝廷に

だから、第100代天皇が元の北朝の語小松天皇になるのです(あのとんちの一休さん父親とか)

いや~南朝の天皇さんの御陵がこんな近くに在ったとは・・・また一つ知識が増えました

昭和19年に正式な陵号が決まったとか この御陵凄く新しい様に見えるのですが