今!西田佐知子のベストアルバムを聞きながら半世紀も前のことを
西田佐知子のデビューはなんと!58年も前の1956年の11月とあります
西田佐智子(知が智でした)の名前で伊那の恋唄と言う演歌だったそうです
(アカシアの雨がやむとき)の曲に恵まれるまで4年近く鳴かず飛ばずでした
しかも!この歌はB面だったとか、それにこの翌年に出た22枚目のシングルの
裏面に入れた「コーヒールンバ」がヒットチャートを急上昇し始めたのが拍車になり
地元の大阪で少しづつ売れ始めていた「アカシア・・・・」が前代未聞の大ヒット
第13回紅白歌合戦に出場を果たすのです・・・僕はこの辺からさっちゃんフアンに
懐かしいEP(ドーナツ盤)レコードのジャケットを引っ張り出してきましたので・・・・・
投げやりな?歌い方が少しハスキーな声にピッタリで、本当にシビレていた時代でした
1971年に関口宏と結婚して、あまり人前に出なくなったのが残念ですけど、・・・
最後の?ヒットはお酒の(菊正宗)のコマーシャルソングではなかったでしょうか
”やっぱり俺はァ~菊正~宗”・・・よく口ずさんだものです
あの頃、一人のポリドール歌手との出会いがありました、京都出身の歌手で
愛田健二さんです、まだ私も独身でした、その頃ラジオ京都(現在のKBS京都)に
「三時の希望ディスク」という長寿番組がありました、月~金の放送でした
ディスクジョッキーは市村義孝さんで、テレビでは福助足袋の提供の長寿番組で
「源平芸能合戦」?の司会も勤めていて、福助の福ちゃんで知られておりました
この「三時の・・・・」には友の会がありまして、月に一度?例会がありました
ちょうどその頃、友の会の会長を任されておりまして、妻とは友の会同士で
結婚式には、市村のおじさん(友の会では市村義孝さんをこの様に呼んでました)も
出席して下さり、又私の詩吟の大会の司会もして頂きました、その頃市村さんは
埼玉の草加市に住んでおられ、尋ねていった事もありました。
友の会は三時の希望ディスク家族の様な暖かい人達の集まりでした
ある時!例会に、デビュー曲「流れ星」の宣伝に愛田健二さんが来たのでした
そこで、次回二枚目のシングルの候補を二曲聞いてください・・・そしてどちらかを
選んで欲しいと言われ、満場一致で「京都の夜」・・・でしょう~という事になり
それが大ヒットにつながったのでした、本当に・・・懐かしい思い出です
このあと、友の会の会長をしていた関係で、食事に連れて行ってもらったり
一緒に風呂に入った事もありました、今年46歳の我が息子の赤ん坊の時
抱いてもらった事もありました、”愛田健二さん”お元気ですか・・・
愛田健二さんは「関西音楽学校」ではスティーブ長崎と言う芸名でした
校長先生が浅田憲司さん?でした、そして愛田さんは先生の養子に・・・
浅田先生にも大変良くして頂きました、・・・ステージで歌っている愛田さんを
ソデから心配そうに見ておられたのに、胸が熱くなった事もありました
浅田先生はNHKの「のど自慢」でアコーデオンの伴奏と指揮をされてました
この頃のポリドールに園まりが色っぽい声で歌っておりました、大フアンでした
ザ・ピーナツの曲を、歌詞を変えて歌ってミリオンヒットになったのが
「逢いたくて逢いたくて」でした、予約の時点で何十万枚になって話題に
エエ!時代でしたなァ~、ポリドールの洋盤でも、あのアランドロンの
「太陽がいっぱい」の主題曲を出していたんですね~
ジャケット見ているだけで、懐かしさで・・・胸がジーンとしますね!
当時の仲間達にももう一度会いたいものです。
今も覚えてるメンバーの名前は津田さん高田さん杉沢さん京都駅の近くの斉藤さんだったかな?それくらいですね。写真をアップできればすぐわかると思うんですが・・・
出しました。 私も京都を離れてもう30年経ちますね。
あの頃は大変お世話になりました、今 博多で細々と
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