(母方の)祖母は日本人だが、女優のジョーン・ヒクソンのような雰囲気があった。
【映画の中でミス・マープル(アガサ・クリスティー/原作)を演じるジョーン・ヒクソン】
両親はしきたりを厳守していたので、親戚の集まりには家族そろって主席しなければならなかった。
そこは旧態依然としており、因習的で閉鎖的な空間だった。
その中で唯一話せる人物が(母方の)祖母だった。
考えに柔軟性があり心根が優しく、分け隔てなく孫を可愛がる人だった。
しかし私はそんな祖母が発する言葉に反発を覚えることもあった。
「自分より下の人を見なさい。自分より恵まれていない人を見なさい。そして今の自分に感謝しなさい」
それが祖母の口癖だった。
私はその言葉に納得することができなかった。
祖母が亡くなってから何年か経った頃、私は夢を見た。
夢の中で私は知らない町をさまよっていた。
その時、祖母が道案内人として夢に登場した。
夢の中で祖母は帽子をかぶり、ジョーン・ヒクソンのような姿をしていた。
「生前の私は語彙が乏しくて、自分の思うところを正確な言葉で人に伝えることができなかった。だから今、案内人という仕事(修行)をしているんだよ…」
祖母はそう言った。
祖母と私は多くのことを語り合った。
言葉で話しているというよりも、祖母の想念がテレパシーのようにダイレクトに流れ込んできた。
同時に自分の中で「身動きできないぐらい自分を縛っている観念」がどんどん外れていった。
「ばーちゃん、今までたくさん誤解していて、ごめん」
私は夢の中で祖母に頭を下げた。
祖母と私は握手をして別れた。
月光でほのかに光る黒々とした海の傍にある寂れた町へと祖母は戻っていった。
昨晩、私は祖母の夢を見た。
祖母は意外な姿になっていた。
【マンガ「斉木楠雄のΨ難」(麻生周一/作)の実写化で、斉木楠雄に扮した山崎賢人】
祖母が俳優の山崎賢人が扮する「斉木楠雄」に見えてしかたがなかった。
もはや「ばーちゃん」とは呼べない。
「…で、なんでその姿なん?」
私は疑問をぶつけた。
「以前の姿にはいいかげん飽きたし…アバターもいろいろ変えたいっしょ。…えっ?え?ちょっと待って、その疑問ってのり丸の偏見じゃない?」
と、祖母は言った。
「…偏見って、飛躍しすぎるよ。そのルックスと言葉使いに戸惑わないほうがおかしいと思うが」
と、私は言い返した。
私は常日頃から「顔なんて単なる感覚器の集まり」だと言っていた。
その感覚器の配列(デザイン)にギャーギャー言っている人間のことを「なんて独特な捉え方をする生物なんだろう」と思うようにしていた。
もともと私は(相貌失認とまではいかないが)人の顔を捉えるのが非常に苦手だ。
例えばある人がバルタン星人に見えると、その人と似た特徴を持った人達が全員バルタン星人に見える。
その上視力もかなり悪いので、普段からよく人の顔を間違える。
そんな私だが、あまりにも以前の祖母と違いすぎることに動揺していることを自覚した。
以前、夢で交流した時の祖母は「私のイメージ通りの祖母」だった。
肉体を失った祖母が別人で登場した場合、「祖母を構成しているもの」を私はどう認識すればいいのだろう。
「のり丸も夢の中だから、好きにアバター変えればいいっしょ」
祖母にそう言われて、「明晰夢」だからそれが可能であることに気付いた。
私は迷わず、俳優の松重豊のアバターを選んだ。
【マンガ「孤独のグルメ」(久住昌之/原作・谷口ジロー/画)の井之頭五郎に扮した松重豊】
「何これ、何これ、おーこれ、すごい、すごい。逆に真反対」
祖母はペラペラしゃべった。
「のり丸は、ほぼ毎日『孤独のグルメ』をしているのに、ほぼ毎日『女友達と一緒にスイーツ』という顔にしか見られないからなぁ」
…めちゃめちゃヤバい、ヤバい、と祖母がはしゃいだ。
おそらく普段の私でも、井之頭五郎のようにネクタイを締めてスーツを着るだけで印象が全く変わる。
考えてみると、「装い」というのは人間社会ではとても便利なツールだ。
知らない人に「装い」を通して、「自分はこういう(趣向の)人間です」と端的に示すことができるからだ。
「…案内人の仕事はやめたん?」
私は尋ねた。
「そんな訳ないっしょ」
祖母は即答した。
「のり丸は結局さ、自分の寿命を知りたいだけなんだよ。先のことを知ってあらかじめ準備をしときたいんだ…」
「ロミを守れるのか…自分には自信がない…」
「のり丸は結果を知ると、ラクするっしょ。だから、う〜ん、そうっすね…『ロミ、今日も一緒にいてくれてありがとう!』でいいんじゃないっすかね」
そこで夢から覚めた。
支離滅裂な夢だった。
結果を知るとラクをする…それに関しては祖母の言う通りである。
そしていつだって(人間界に出回っている)予知が当たったことはなく、人生には想像もしていなかったことが起こる。
いろんな制限がある世界(この世)で、到底乗り越えるのは無理だと思いながら進んできた。
だから、一つの地点にたどり着つく度に喜びを感じた。
簡単にはできないから(手に入らないから)、手に入れた時は有難味がひとしおなのだ。
肉体は精神の思い通りになる道具ではなく、「制限のない世界」にいる存在の「祈り」が形になったものかもしれない。
「有限」は、想念するだけでなんでも簡単にできてしまう「無限の世界にいる住人」の夢(または願望)なのかもしれない。
手術で失明する可能性があると言われた→けれども手前の物はちゃんと見える。
俊足で足腰が強靭な事だけが取り柄だったのに負傷した→けれどもなんとか自分の足で歩ける。
目よ、まだ見えてくれてありがとう。
足よ、まだ動いてくれてありがとう。
肉体のいろいろな機能がまだ働いているから、この(有限な)世界で挑戦することができる。
毎日本当にありがとう。
珍しく、目覚めた後、そんな気持ちになった。
生前の祖母も、きっとそういうことを言いたかったのではないかと思う。
人間は自分の中からすべての限界が流れ出した時に、やっと肉体という制限から自由になるのかもしれない。
【もし、また夢に出てくれるのなら、ジョーン・ヒクソンの方でお願いします】
今日のロミ
後ろに自分が運んできたオモチャが潜んでいる…待っている。