オリジナルインテリア「Rose Party~Since 2003~」マキとスタッフのブログ♪RueRueと薔薇♪

20周年!オリジナルインテリアと大人可愛いファッション、高橋真琴の生活用品を少女のココロを忘れない女性たちへ。

利枝さまの幸せなお部屋予告パート2☆彡

2008-12-05 | お客様より・・・♪
みなさまこんばんは

本日の新作も大人気をいただきましてありがとうございます。
わたしのおススメは何と言いましても
スノーレディファーブレスでございます
めっちゃかわいいです。
もちろんわたしもゲット(*^^)v オホホ。



りえさまよりまたまた素敵なお写真が届きました
予告ばかりでゴメンナサイ。
まだ幸せなお部屋の更新準備が整っていないので・・・スミマセン^_^;

お送りさせていただいたばかりの、
ティアラドレスランプ
ドレスレースマットと一緒にとびっきり素敵に飾ってくださっています

スイッチカバーとデジカメケースも(^^♪

まだまだお写真お送りいただいておりますので、近日中にRose Party HP内の『幸せなお部屋』にて大公開いたします

おったのしみにぃ♪

今日・・・
九州に住むダーのお母さんから、名物のさつまあげがたくさん届きました・・・
ああ・・・うれしかったな・・・でも何だかせつないな・・・

ダーの死に、いつまでもいつまでも泣き続けるのは、お母さんとわたし・・・
いつまでもいつまでも忘れられずにいるのはお母さんとわたし・・・
お母さんとは遠く離れすぎていて、何にもできないわたし・・・本当にごめんなさい。

わたしたちも、いろいろと相談にのっていただいたあるがん専門医が
こんなことを言っています。

『精一杯生きて、生き切って、そして亡くなった大勢の人たちを私は知っている。
「もっと生きたい」「まだまだやりたいことがある」・・・そう思いつつ、無念にも亡くなった人たちの顔が私の胸に去来する。
彼らのことを思うと、私は弱音など吐けなくなる。
50を過ぎてもなお生きて、その上好きな勉強ができて(この医師は、50代で三度目! の東大生です)
どの面下げて「つらい」「苦しい」などと彼らに言えるのか。
言えるわけなどないではないか、と思うのだ』

わたし自身は、「無念の死」という言葉もその意味もあまり好きではありません。
遣り残したことがあるから無念だ、とは、一概には言えないからです。
と言うのも、人は遣り残したことなしに死ぬことなど絶対にできないだろう、と半ば断言できるからです。
わたしだってきっと、小さなことも大きなことも含め「遣り残しいっぱい」で死んでゆくことでしょう。
光の中を天国へ向かう途中で振り返り、「あーあ。部屋めっちゃ汚いやん。ちゃんと片付けとけばよかったヮ・・・みんなに笑われるし・・・」と憂うに違いありません。
もっと言えば、100歳で死んだ人にも、遣り残した事はあるに違いないでしょう。

わたしのダーにも、遣り残したことがありました。
亡くなる少し前に、新しい診療車を手に入れていたのです。

わたしは、あの人が、あの状態・・・抗がん剤が効かなくなり、日毎に体調が悪化する中、
それでも新しい診療車を手に入れたことに、あの人の、絶対に最期まであきらめないぞ・・・という強い気持ちが表れているようで、
悔しいやらせつないやらで大声で泣き出したくなるような・・・何とも言えない気持ちになったことを覚えています。

しかし、手に入れただけで、ついに走らせることはできませんでした。
これは、他人から見れば、大変「無念」なことです。
それでも、その診療車を手に入れたときのあの人の喜びようは大変なものでしたし、
自分の手で中を改造する予定でしたから、その設計図を、病室で一生懸命画いているときのあの人はとても幸せそうでした。

確かに、走らせることができなかったことは残念です。
でも、あの人は、その診療車を走らせている自分の姿を、何度も何度も、頭に、そして心に思い描いたはずです。

診療車はあの人の、最期の夢でした。
それでは、死によって、夢は破れたのでしょうか。
いいえ、実際に走らせることではなく、自分が意気揚々と診療車を走らせているその姿を思い描きながら設計図を画き、それによって幸せな気持ちになれたことで、夢は実現したはずだ、とわたしは思っているのです。

最期の瞬間まで、夢を抱き、最期の瞬間まで、周囲の人々に感謝の想いを持ち続け、最期の瞬間でさえ、わたしに向かって「愛してる」と言えたあの人は、
それこそ、自分の持ち時間の最期の一滴まで使い果たし、あとにはもう何にも残らないところまで生きたように思います。
そう思うと、その他の「遣り残したこと」など、取るに足らないことのようにも思えます。

遺された人間が思いを馳せるべきは、故人が遣り残したことではなく、
故人がこの世に生きている間にどれだけ精一杯生きたか・・・だと思うのです。
「遣り残したことがあってかわいそう」などと同情されるより、あの人は本当に一生懸命に生きた、だからわたしもあの人を見習って生きるのだ、と思ってもらえるほうが、故人にしても、何倍もうれしいことでしょう。

また、ここではっきり書かなければならないのは、
病気と闘って亡くなった人たちだけが一生懸命生きたわけではない、ということです。
事故であってもその他のことであっても、死を迎えた状況は関係なく、
彼らはみな、この世にいる間、それぞれの瞬間瞬間を、懸命に生きたはずです。
懸命に生きたからこそ、選んでしまった自らの死、というのもあるに違いありません。
自死を肯定しているわけではありませんが、それほどに辛い状況だったのだ・・・と思えば、自ら選ぶ死を、完全に否定することなどできません。
何事も、実際にその人自身にならなければ、その辛さ、苦しみはわからないと思います。
正論だけでは、どうしても語れないものが、世の中には無数に存在するのですから。

本当に・・・正論だけでは、人を傷つけてしまうことが多々あるのです。
わたしも、事情を知らない他人から発される数々の正論で、イヤと言うほど傷つけられた経験があります。
同様に、自分自身が発する数々の正論で、人を傷つけた経験があります・・・。

まあ話は逸れましたが、先述の医師が言うとおり、
もっと生きたい、もっとやりたい、と心から叫びつつ、自分自身と闘っている人たちが、今、この瞬間にも、たくさんいます。

だからわたしも、つらい、苦しい、しんどい、もうできない、もう動けない・・・と
感じ、うなだれてしまうとき、
最期の最期まで自分自身と闘い通したダーや、今、この瞬間、死と隣り合わせになりながらも、必死で闘っている人たちを思い出し、
「よっしゃ!」と、
再び頭をもたげるのです。