ホワイトラタンプティコレクション★ 大人気をいただいております
みなさまいつもありがとうございます
超お徳だったバスケット2pは完売しましたが、他のものは16日までご注文受付中です
高橋真琴先生の画集『あこがれ』を手に入れました(*^^)v
これ、絶版になっているので貴重なんです
でね・・・
扉絵に・・・
うちのるう子ちゃん発見(^o^)/
・・・いや、うちのるう子ちゃんに似ている子だった^_^;
これは先生の定番作品で、毎年何枚かお描きになるそうですが、もちろん原画なので、一つ一つが違うんです。
うちのるう子ちゃんは・・・
ホラ。お分かりになるかなあ。
頬に当たる髪が縦ロールなんですよ
薔薇を持つ手も違いますしネ。
瞳と瞳の間隔もるう子ちゃんのほうが狭くて美人なのです(叱られる?)。
扉絵の子は、るう子ちゃんの姉妹だったのです★
でも何だかうれしいな
るう子ちゃん、ベビーピンクのチュールレースカーテンの中・・・特等席にいますョ
このカーテンは以前Rose Partyで大ブレイクを頂戴したカーテンなんですけどネ。
わたしもずっと愛用しており、このたび、るう子ちゃんのお席にしちゃいました
「マフの少女」と呼ばれる真琴少女画を代表するモチーフもので、毎年何作品か描かれていますね。
これは1968年の作品。今から40年も前の作品です。
異国情緒あふれるこの雰囲気・・・好きやなあ・・・
こちらは1998年の作品。
先日の個展で買いました♪ 二回行ったので二回目に。
個展でも、ピンクのマフの少女の原画があり、素晴らしく素敵でした
この絵、すごくお気に入りなのです
クリアファイルなんですけど・・・あまりにかわいいので飾っています
お話変わります・・・。
みなさま、『スター誕生』という映画をご存知ですか?
何度かリメイクされている作品ですが、わたしが観ているのは1937年・・・今から70年も前の、
最初の作品です。
この映画は、著名なプロデューサー、デヴィット・O・セルズニックが、
あの『風と共に去りぬ』の前に、手がけた作品で、
テクニカラー初期の大作としても有名です。
主演は、フレデリック・マーチとジャネット・ゲイナー。
田舎の寒村で育ち、幼い頃から銀幕のスターに憧れていたエスター(ジャネット・ゲイナー)は、
彼女の唯一の理解者の祖母に勇気付けられ、ハリウッドに旅立ちます。
しかし、そこで待っていたのは、予想以上の就職難。
ハリウッドには、明日のスターを夢みる者たちがあふれかえり、誰もがみな、苦い挫折を味わっていました。
所持金も少なくなり、路頭に迷う寸前で、エスターに幸運が舞い込みました。
大スターであるノーマン・メイン(フレデリック・マーチ)の目に留まったのです。
彼の力もあり、やがて、ヴィッキィ・レスターの名で華々しく映画界にデビューした彼女は、ノーマンと結婚、幸せの絶頂に立ちます。
しかし、人気の高まるエスターとは反対に、飲酒癖のあるノーマンの名声は凋落。
自暴自棄になり醜態を見せるノーマン。誰もがノーマンを見棄てる中、彼を愛しているエスターだけは、彼を守りたい、と、引退を決意します。
引退は彼女の本望ではない、と知っていたノーマンは、
自分が身を引くことで、逆に彼女の夢を守ろうと、自ら命を絶ったのでした。
悲しみに打ちひしがれたエスターは、もうここにはいられない・・・、と田舎へ帰る決意をします。
荷造りが終わったころ、彼女の唯一の理解者である祖母がやってきます。
そこで、祖母は言うのです。
「悲劇は勇気を得る試練だよ。
立ち向かえばそれ以上のものを発見できる。
・・・自分からは逃げられないね」
そして続けます。
「彼のことはよく知らないけれど、あんたにとって本当に大切な人だったんだね。
結婚したとき、わたしに心のこもった手紙をくれたよ。
彼は、あんたが、自分のために志をくだいてしまったと知ったらどんなに悲しむことだろうね」
祖母の言葉に勇気付けられ、田舎からハリウッドに出てきて成功したエスターは、
またしても、祖母に勇気付けられ、ノーマンの面影とともに、ハリウッドに生きることを決めるのでした。
「悲劇は勇気を得る試練だよ。
立ち向かえばそれ以上のものを発見できる。
・・・自分からは逃げられないね」
この祖母の言葉は、ある人たちにとっては(わたしもその中の一人)、大変意味のある言葉であり、
この言葉が真実である、と信じているからこそ、生きているのです。いや、生きていけるのです。
もし・・・もし、自分を見舞った悲劇なるものが、ただの無意味な出来事の連鎖の中の一つだったとしたら・・・
もう生きていくのはイヤになります。
もし、単に運が悪いという理由で、悲劇に見舞われたのであれば、そこから意味を見出す事ができない=生きていく意味などない、のです。
わたしの場合で言えば・・・
もし、もし、わたしの愛するあの人は、単に運が悪いため病気になり、さらに運が悪かったからすでに手もつけられないほど進行しており、いよいよ運が悪くて亡くなった・・・となると、
わたしはもう、本当に生きていけません(>_<)
そんなことには耐えられません。
神様なんてクソ食らえ、となってしまいます。
いや、もし、わたしたちに起こるすべての出来事が無意味な出来事の連鎖なのであれば、元々神様などいないことになります。
人間の創り出した幻ということになります。
わたしはよく、周囲の人たちに、
「マキは前向きだ」とか
「マキの根性は見上げたものだ」とか言われますが、心の中では、いつもつぶやいているんですよ。
(そんないいもんやないで。めちゃしんどいねんから・・・)と。
ちっとも前向きになれず、早くこの世が終わればいいのに・・・と真剣に願うこともあれば、
人を羨むことだってあるわけです。
余談ですが、ケアのメンバーで、配偶者を亡くした方が、「石ころが二つ並んでいるのを見るだけでも腹が立つ」と言ったらしく、
それを聞いて大笑いしたのですが、笑いながらも、メンバーみんなが(その気持ち、めちゃわかる・・・)だったはずです^_^;
わたしは「一人でいる」というその状況自体をさみしいとは思わないんですよね。
元々、一人の時間というものが大好きだったのです。
一人で映画を観る。一人で本を読む。一人で空想にふける。一人でファッションショーをやる(やっている方多いと思います^_^;)
お店を始めてからは、休みがまったくないので(定休日は朝から仕入れ)、一人の時間はさほどとれませんが、とれたときは、大いに楽しんでいます。
だから、一人でいること自体にさみしさを感じてはいないのです。
わたしがさみしいのは、一人だから、じゃなくて、あの人がいないから、ただそれだけなんです。
その証拠に、たくさんの人たちの中にいても、わたしは、さみしさを感じます。
あの人のいないさみしさを常に感じ、そこからどうしても離れることができません。
当然ですが、誰一人として、あの人の代わりにはなりません。
きっと一生、こうなのでしょう。たとえ、また、異性を愛することができたとしても、あの人に対するわたしの想いは決して消えないから。
だから、覚悟しています。それでも・・・
わたしはあの人と、もっともっと一緒にいたかったのです。
あの人の優しい声を、聴いていたかったのです。
あの人が日に何十回と口にした「マキ」という呼びかけを、未だに、狂おしいほど求めているのです。
それなのにわたしは、もうこの世では、あの人に関するすべてのことをあきらめてしまわなければならない。
もうこの世では、あの人に関することは、何一つとして、叶わない。
そう想うと、叫び出したくなるほど辛いですね・・・あまりの苦しさに涙すら出ません。
そんな中でも、わたしが生きていけるのは、第一に、あの世での再会を信じているから。
そして・・・エスターの祖母の言う通り、「悲劇は勇気(成長)を得る試練」だと信じているからなのです。
試練と向き合い、無事(?!)我が身の持ち時間を使い果たし、あの世で、あの人に、「よくやったね・・・!」と抱きしめてもらいたい。
それを夢みることで、生きる勇気が沸いてくるのです。仕事をがんばろう、親に優しくしよう、今の自分にできる範囲で楽しく生きよう! と思えるのです。
悲しみを悲しみとしてしか捉えられない人は、その重みに耐え切れず、少しずつ心が死んでいく・・・
でも、悲しみを、成長のための試練だ、成長のためのきっかけなんだ、と信じることができれば、
悲しみこそ、幸せへつながる大きな機会だということに気づきます。
「幸せは、悲しみのあとからやってくる・・・」という言葉がありますが、その通りなのかもしれません。
悲しみを知ったことで、これまで近づけなかった本物の幸せに近づいたのかもしれません。