この所、急に冷え込んで参りました。
秋薔薇が長持ちするのは有難いですが、寝具や着る服に困りますね。
あおい
涼しくなって、やっと房咲きに咲いてくれました。
レッドインテューション
この薔薇、今年は本当によく咲いてくれました。
ガブリエル
ガブリエルも常に数輪咲いている感じでした。
これらの薔薇を花束にしましたよ。
頂いた生花が終わってしまったので、ルーシェの仏壇を設えました。
大きなプリザは玄関のルーシェの大きな写真の所に飾ってあります。
この場所はルーシェの食事場所でしたからキャットフードも欠かせませんね。
そういえば・・・
ルーシェの亡骸や葬儀の様子はお伝えしたのに、ルーシェの最期を語りませんでしたね。
それを書ける様になるのに時間が必要だったのです。
でも薔薇ブログなのに何時までも「猫リンパ腫闘病」のカテゴリーばかりじゃ
また誰かに意地悪されちゃいそうなのでそれを記して終わりに致します。
勿論、このブログ自体がルーシェの名前を冠したものですから思い出話は登場すると思います。
低空飛行ながらも安定していたルーシェの病状が急変したのは9月23日頃でした。
今まで、どんなに辛くても御飯だけはしっかり食べてくれていたのが食べられなくなりました。
それでも毎日、ちゅ~るは2本、服薬のご褒美として食べてましたし
シリンジでの強制給餌やスープ状のものなら多少は舐めてくれたのです。
それが・・・水すら受け付けなくなったのは前日の26日。
27日朝、ダーリンに「明日明後日かも知れないから覚悟していて」と話しました。
そして栄養と水分を摂らせる為に液状の処方食を強制給餌。
ルーシェは抵抗もせず飲んでくれたのですが涙が何故か溢れて止まりませんでした。
お昼にトイレをさせるのに抱いたらズッシリと重く・・・胸水や腹水が溜まっていました。
抱いている手を通して、聴診器をあてなくても心雑音が解かるような状態でした。
オシッコをするだけで息が上がり酸素室に戻すとグッタリしていました。
そして3時頃・・・ルーシェがグッタリした姿勢のままウンチをしたのです。
それを片付けて・・・と間も無く”しゃっくり”が始まりました。
普通の”しゃっくり”なら良いのですが腹水と胸水は横隔膜の所に溜まります。
明らかに、横隔膜の痙攣によるものでした。
あまりに苦しそうなので酸素室の中で更に酸素マスクも追加。
少しだけ”しゃっくりの間隔”が長くなりましたが目を離すとマスクが外れてしまう。
それからルーシェに付きっ切りでした。
「辛いね。苦しいね。私は大丈夫だから無理しないで」と話しかけながら・・・
そして4時頃・・・ルーシェの身体が仰け反るように痙攣を始めました。
今までの経験上、猫の最期はこの痙攣が起こる事が多かったので
慌てて酸素室から抱き上げ、抱きしめて何度も名前を呼びました。
ルーシェは目を見開いて、真っ直ぐに私を見て・・・
暫くして全身から力が抜けて、私の腕の中で溶けたかと思う程、グニャリっとなりました。
その瞬間が絶命だったのだと思います。
あの時の感触は今でも生々しく、多分、一生忘れられません。
すぐに心臓マッサージをすれば戻って来てくれたかも知れません。
前日に病院で水を抜いて貰えば少しは延命出来たかも知れません。
でも・・・しませんでした。
これ以上、ルーシェの苦しみを長引かせるだけですから。
それが良かったのか悪かったのか今でも解りません。
処置したら、もしかしたら、また復活して20歳の誕生日まで生きてくれたかも?
そう思うと、どうしようも無い気持ちになります。
お誕生日に例年通り「ササミ食べ放題」させてあげたかった。
少なくとも去年は一度にササミ大を5本ぺロリと食べる子だったのです。
・・・それからの私は泣く暇すらなくダーリンに電話し
酸素の業者に電話し、葬儀屋に電話し・・・
死後硬直が始まる前にルーシェの可愛さが損なわれないよう、安置方法に気を使い
自宅の咲いている薔薇を切り飾りルーシェを安置しブログで報告しました。
その後、業者がバタバタと借りていたハウスや機器を搬出し・・・
私は翌日の葬儀の為に部屋を掃除したり大量のペットシーツを片付けたり。
「ああ、ママが死んだ時と同じで、私はまた泣けないんだ」と思いました。
母の時もこんな風にバタバタで泣く時間も無かったせいで悲しみを引き摺りました。
一番泣きたい時に泣けないと悲しみが澱のように心に沈殿するのです。
でも母の時と違ったのは「お別れまでの時間」
母は突然死でしたからお別れや謝罪も出来ませんでしたがルーシェは3ヶ月も時間をくれました。
毎日、ルーシェの世話をしながら「私の為に生きてくれて、ありがとう」
「ルーシェ、愛しているよ」「おまえみたいにイイ子はいないよ」と話しかけられましたし
余命を宣告された時、目イッパイ泣きました。
そして、それからも急変の度、何度も同じ様に号泣しました。
ルーシェは子猫の時から、およそ猫がする悪戯を一切せず
躾けも全部、言葉で指示すれば解ってくれる賢い子でしたから
最後の最期まで親孝行をしてくれたのだと思います。
だから私は「ルーシェという心臓」を失っても、こうして生きています。
そして奇しくも部位は違えど癌という病気で死んだ我が子・・・
きっと私の癌も引き受けてくれたのじゃないかと思います。
本当は私が代わりたかったのですけれど。
だから、しっかり前を向いて出来る限り長生きしなきゃダメですね。
ルーシェがくれた20年近い日々の思い出と一緒に。
私の最愛にして最後の猫・・・ルーシェ、ありがとう。
いつも御訪問ありがとうございます。
本来でしたら、皆様とコメント欄で楽しくお喋りしたい所なのですが、ごめんなさい!
もう少しだけ、お時間下さいね。
精神的にも肉体的にもイッパイイッパイですので
コメントが残せる状態ではありませんが、リンク先の皆様のブログも拝見させて頂いてますし
出来る限り応援にはお邪魔しますね。
御用の方は拍手コメントへメッセージお願い致します。
(誰からか解らないので必ずお名前とブログアドレスを入れて下さい)
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<span style="font-weight:bold"><span style="color:blue">「置き去り猫」への支援を宜しくお願い致します。
詳細はサイドバーのメールフォームからお問い合わせください。
秋薔薇が長持ちするのは有難いですが、寝具や着る服に困りますね。
あおい
レッドインテューション
ガブリエル
これらの薔薇を花束にしましたよ。
頂いた生花が終わってしまったので、ルーシェの仏壇を設えました。
大きなプリザは玄関のルーシェの大きな写真の所に飾ってあります。
この場所はルーシェの食事場所でしたからキャットフードも欠かせませんね。
そういえば・・・
ルーシェの亡骸や葬儀の様子はお伝えしたのに、ルーシェの最期を語りませんでしたね。
それを書ける様になるのに時間が必要だったのです。
でも薔薇ブログなのに何時までも「猫リンパ腫闘病」のカテゴリーばかりじゃ
また誰かに意地悪されちゃいそうなのでそれを記して終わりに致します。
勿論、このブログ自体がルーシェの名前を冠したものですから思い出話は登場すると思います。
低空飛行ながらも安定していたルーシェの病状が急変したのは9月23日頃でした。
今まで、どんなに辛くても御飯だけはしっかり食べてくれていたのが食べられなくなりました。
それでも毎日、ちゅ~るは2本、服薬のご褒美として食べてましたし
シリンジでの強制給餌やスープ状のものなら多少は舐めてくれたのです。
それが・・・水すら受け付けなくなったのは前日の26日。
27日朝、ダーリンに「明日明後日かも知れないから覚悟していて」と話しました。
そして栄養と水分を摂らせる為に液状の処方食を強制給餌。
ルーシェは抵抗もせず飲んでくれたのですが涙が何故か溢れて止まりませんでした。
お昼にトイレをさせるのに抱いたらズッシリと重く・・・胸水や腹水が溜まっていました。
抱いている手を通して、聴診器をあてなくても心雑音が解かるような状態でした。
オシッコをするだけで息が上がり酸素室に戻すとグッタリしていました。
そして3時頃・・・ルーシェがグッタリした姿勢のままウンチをしたのです。
それを片付けて・・・と間も無く”しゃっくり”が始まりました。
普通の”しゃっくり”なら良いのですが腹水と胸水は横隔膜の所に溜まります。
明らかに、横隔膜の痙攣によるものでした。
あまりに苦しそうなので酸素室の中で更に酸素マスクも追加。
少しだけ”しゃっくりの間隔”が長くなりましたが目を離すとマスクが外れてしまう。
それからルーシェに付きっ切りでした。
「辛いね。苦しいね。私は大丈夫だから無理しないで」と話しかけながら・・・
そして4時頃・・・ルーシェの身体が仰け反るように痙攣を始めました。
今までの経験上、猫の最期はこの痙攣が起こる事が多かったので
慌てて酸素室から抱き上げ、抱きしめて何度も名前を呼びました。
ルーシェは目を見開いて、真っ直ぐに私を見て・・・
暫くして全身から力が抜けて、私の腕の中で溶けたかと思う程、グニャリっとなりました。
その瞬間が絶命だったのだと思います。
あの時の感触は今でも生々しく、多分、一生忘れられません。
すぐに心臓マッサージをすれば戻って来てくれたかも知れません。
前日に病院で水を抜いて貰えば少しは延命出来たかも知れません。
でも・・・しませんでした。
これ以上、ルーシェの苦しみを長引かせるだけですから。
それが良かったのか悪かったのか今でも解りません。
処置したら、もしかしたら、また復活して20歳の誕生日まで生きてくれたかも?
そう思うと、どうしようも無い気持ちになります。
お誕生日に例年通り「ササミ食べ放題」させてあげたかった。
少なくとも去年は一度にササミ大を5本ぺロリと食べる子だったのです。
・・・それからの私は泣く暇すらなくダーリンに電話し
酸素の業者に電話し、葬儀屋に電話し・・・
死後硬直が始まる前にルーシェの可愛さが損なわれないよう、安置方法に気を使い
自宅の咲いている薔薇を切り飾りルーシェを安置しブログで報告しました。
その後、業者がバタバタと借りていたハウスや機器を搬出し・・・
私は翌日の葬儀の為に部屋を掃除したり大量のペットシーツを片付けたり。
「ああ、ママが死んだ時と同じで、私はまた泣けないんだ」と思いました。
母の時もこんな風にバタバタで泣く時間も無かったせいで悲しみを引き摺りました。
一番泣きたい時に泣けないと悲しみが澱のように心に沈殿するのです。
でも母の時と違ったのは「お別れまでの時間」
母は突然死でしたからお別れや謝罪も出来ませんでしたがルーシェは3ヶ月も時間をくれました。
毎日、ルーシェの世話をしながら「私の為に生きてくれて、ありがとう」
「ルーシェ、愛しているよ」「おまえみたいにイイ子はいないよ」と話しかけられましたし
余命を宣告された時、目イッパイ泣きました。
そして、それからも急変の度、何度も同じ様に号泣しました。
ルーシェは子猫の時から、およそ猫がする悪戯を一切せず
躾けも全部、言葉で指示すれば解ってくれる賢い子でしたから
最後の最期まで親孝行をしてくれたのだと思います。
だから私は「ルーシェという心臓」を失っても、こうして生きています。
そして奇しくも部位は違えど癌という病気で死んだ我が子・・・
きっと私の癌も引き受けてくれたのじゃないかと思います。
本当は私が代わりたかったのですけれど。
だから、しっかり前を向いて出来る限り長生きしなきゃダメですね。
ルーシェがくれた20年近い日々の思い出と一緒に。
私の最愛にして最後の猫・・・ルーシェ、ありがとう。
いつも御訪問ありがとうございます。
本来でしたら、皆様とコメント欄で楽しくお喋りしたい所なのですが、ごめんなさい!
もう少しだけ、お時間下さいね。
精神的にも肉体的にもイッパイイッパイですので
コメントが残せる状態ではありませんが、リンク先の皆様のブログも拝見させて頂いてますし
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