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阪神大震災から15年~その3

2010年01月18日 | 日々の生活日記
大震災の起きた当時はいろんなことが遭遇しました。また、それをきっかけにうれしいこともありました。

姪の夫は、義兄の肝臓がん手術に立ち会うため前日から自宅を留守にしていました。手術当日の17日突然隠岐ノ島の実家に不幸があったのです。
お父上が亡くなりました。姪の夫は直ちに実家に飛ぶことが出来ましたが、姪は関西からの便に乗るすべががなくて義父の葬儀に列席することが出来ませんでした。

我が家の長男は、不況の為(今ほどではなかったが)フリーターを一年以上続けていたところに初めて正社員雇用の口がかかり、面接に行く予定になっていましたが行けなくなりました。
夫は・・というと胃の具合が良くないと年明け早々に胃カメラ検査をしてこの17日が結果診察を受けに「武庫川兵庫医大病院」に行く予定でした。結果はOKでしたが・・・

また、この震災で思いがけない出会いのきっかけになった事は、40年近く会えなった夫の兄と兄弟対面が出来たことです。
阪神淡路大震災は多くの人々の助けがありましたね。夫の兄も遥か北海道からポートアイランドまで仮設作りボランティアにやって来たのでした。弟が神戸地方に居てることでこの仕事に名乗りを上げたのかも知れませんが・・・

不自由な場所での仮設作り作業も大変だったようです。手作りお弁当を持ってお兄さんに会いに行った夫の気持ちはどんなだっただろうと想像しました。ポートアイランドの帰りに我が家へ立ち寄ってくださったので初対面のご挨拶が出来ました。

1月22日(日曜日)は朝から大雨になりました。この雨の中を、豊中に住んで居る従姉弟が義兄弟や幼い長男を連れてリュックいっぱいに詰め込んだ援助物資やポリタンクなど持って阪急西宮から芦屋川までを線路づたいに歩いて来てくれました。感謝、感謝です。
実家の田舎からは甥や兄が不便な道路を通ってやってきて、みんなで倒壊した姉の家の整理をしました。

我が家の周辺は、ガスも水道もいちばん後の方だったように思います。近くの公園に移動シャワーが設備されて利用しました。また、芦屋には震災前に温泉が掘り当てられていました。
ここに老人施設などの建設を予定していたようでした。温泉のお湯は豊富に湧き出ているようでしたが水が出ないので少し暑かったけれど2回ほど利用して癒されました。
毎回仮設テントの中で順番待ちでした。現在は銭湯として活躍していますね。

現在この地篠山に越してきたのも、この大震災が起きたから・・と言っても過言ではないでしょう。
一応自宅の補修は400万あまりかけて修理しました。一分損壊しか認められなかったので市からの補助はなく、全額自己負担でした。
それでも永住するには不安でした。ヘリコプターが頭上を飛ぶと振動が地震のようだったり、お向かいの方が車のドアーを、バタンッ!と閉める音にも振動があったりしました。

この地に越して7年目をむかえましが、今も思います。もし、あの忌まわしい大震災がなかったら・・・
あのままあの土地に住んでいたのだろうか~?と
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2 コメント

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ryoさん こんばんは (万樹)
2010-01-19 19:39:57
震災についてをうんうんと頷きながら読んでいました。共通の体験談ですよね。あの震災の報道写真の本はお見舞いを頂いた方全員にお配りしました。ライフィラインが通じた時の嬉しさは忘れられませんし震災貧乏になったのもね。
でも今こうして元気で暮らしているのもボランテァで食料や援助物資を頂いた多くの方々のお蔭です。その後の震災に対する国の対応もすばやいものになりました。知人で離婚して居所も知らなかった親子が再会したこともありました。やはり肉親の愛情は素晴らしいですね。
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万樹さん (ryo)
2010-01-20 03:45:22
皆さんもっともっと色んなご苦労なさったことと思います。
亡くなられた方々とは比較にならないですが、
それなりに精神的苦痛を味わった思いを書きました。
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