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阪神大震災から15年~その2

2010年01月17日 | 日々の生活日記
画像は当時報道写真雑誌を購入したものをお借りしました。


この大震災で6千人以上の被災犠牲者が出たけれど幸いにして(亡くなられた方には申し訳ありませんが・・)我が親戚縁者に犠牲になった者がひとりもいませんでした。
神戸北から宝塚まで長田も含め、姉弟・姪甥・親戚と十数所帯が故郷岡山から出て住んでいるのです。その中誰一人負傷者も無かったことは喜ばしい事でしたが、みんなそれぞれに大小の犠牲を余儀なくされました。

我が家は当時築18年の家屋でしたがその7年前にリホームして頑丈なベランダを取り付けたことが幸いにも一分損壊に止まり、倒壊を免れたのではないかと思いました。
それでも、度重なる大きな余震に壁は剥がれて今にも落ちそうだし玄関のタイルもお風呂場のタイルも剥がれてしまいました。

夜が怖くて夫婦で2階のベランダ近くの部屋に着の身着のまま、いつでも飛び出せる状態の姿で寝起きしたものです『この地はもういや!どこか活断層の走ってない土地に変わりたいっ!』と本気でかんがえました。
枕元にはラジオをつけたままで震災の模様を聞きながら~。
NHKラジオ放送の「ラジオ深夜便」はテレビ生活だった私たちに新しい癒しの心を教えてもらった一つでした。「加賀美幸子・宇田川清江さん」の名前を聞くと今でも懐かしさがこみあげてきます。

どうにか住める状態の我が家に姪たち家族3人が非難して来ました。
西宮市境に近い市内のマンションに住んでいた姪たちはマンションが危険だということで、近くの中学校舎に避難しはじめていたのです。
倒壊した姉は近くで食べ物の店をしていたお蔭で狭いながらも当座の住処はありました。
電気は当日午後には点いたのですが、ガス・水道はかなり後々まで通りませんでした。

そんな不自由な中でも人様の親切は大変うれしくあり難く感じたものです。息子の友達がその日のうちにポリ容器に入ったお水を持って来てくれました。
翌日からはお向かいの邸宅で(神戸吉兆本宅ですが)庭の井戸を午前と午後の2回解放してくださったのです。

このお宅には因縁があり、5年ほど前ここにお昼だけの「会員制食事処」を作る予定でした。住宅街ど真ん中に・・・と周囲の猛反対に断念された経緯がありました。
私たちもその中で署名活動したりして反対運動を1年ぐらい続けた苦い思い出がありました。
そんな因縁などお構いなくご近所にお水の提供してくださったこのお宅に、とても有り難い気持ちでいっぱいでした。

生きてゆく為にお水は貴重ですね。長い断水に、飲み水はもとより洗顔・洗濯・トイレなどなど水がなくては大変不便です。今までは何気なく水道を流しっぱなしで使用していたけれど、この震災を機に水の有り難さを悟りました。

我が家はお風呂の水は沸かしたあとも次のお風呂を沸かす時まで流さないで置いておく癖があったのです。これが幸いして断水になったときもトイレに使用することが出来て大変助かりました。
いただいたお水は飲料水以外は浴槽にためて洗面やトイレ・洗濯に使用しました。

自宅から芦屋川がすぐ近くです。家族は我が家と姪家族で6人になり洗濯物も溜まってきました。洗濯機は洗いだけの水を使い、絞ったあとは芦屋川にすすぎに行きました。1月半ばのいちばん寒い時期、川の水の冷たさは並大抵ではありませんでした。
でも私たちはまだまだ恵まれているのだと、もっと厳しく大変な人たちが居ることを考えて耐えることが出来ました。

物資の配給も最初は戴きに行きませんでした。お米と乾物、ジャガイモたまねぎなどはいつも保存していたのでどうにか食べるだけありますし、私たちには配給を受ける資格はないと思っていましたが、ご近所の噂話で『物資が有り余ってパンもおにぎりも硬くなってしまう』と聞きました。
せっかく配給してくださる皆様の志を私たちもいただこうと一週間あまり過ぎた頃からだったでしょか、列に並び出しましたね。






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