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【変なお辞儀】は、何故蔓延したのか?

2013年07月14日 19時49分55秒 | 色んな情報
【変なお辞儀】は、何故蔓延したのか?


作成者: 京免 史朗さん

CAやデパート店員の特殊なお辞儀が
いつのまにか”お辞儀の基本(?)”になっちゃった!?
(正しい?美しい?エレガント??どこが?)
ん?ちょっとコレ、お隣韓国のとソックリ!?

>韓流やK-popが一時持てはやされた時、
>反対運動やデモが起こった。

>あれだけゴリ押しされればウザいし、うんざりもするが
>「そんなにギャーギャーいう必要ねーよ」とも思っていた。

>日本の劣化コピーのような韓国のコンテンツが
>日本にとって本質的な脅威に成りうることは無いから。

>だが本当に怖いのは、お辞儀といった
>日常の伝統的礼儀作法や行動様式などが犯されてしまうこと。

>子供がこれが正しいお辞儀なんだ、と勘違いしてしまったら
>本当に危険だし、考えただけでも背筋が寒くなる。

>それは韓流やK-popなど比べ物にならないくらいの脅威。

>目立たない事だけに、気付かないうちに進入し、
>そして悪性癌のように一気に広がる。

>これこそ本当に反対運動でも起こさなければ大変な事に。


コメント
鉄太郎
 今度見かけたら「すみません、何で韓国式のお辞儀なんですか?」って片っ端から聞き倒すことにします。「朝鮮系の会社なんですか?。じゃあキャンセルします」って1人で反韓運動を展開します。


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「人間には、命を懸けなければならない時がある」

2013年07月14日 16時34分36秒 | 色んな情報
「人間には、命を懸けなければならない時がある」

ー国際派日本人養成講座ー より

福島第一原発の大惨事を食い止めた男たち

                                      京免 史朗

■1.自分と一緒に「死んでくれる」人間の顔を思い浮かべていた

 福島第一原発所長・吉田昌郎の様子に「異変」が起きたことを、その背後に座っていた企画広報グループの猪狩典子は見逃さなかった。

__________
 あの時、もう最後だと思いました。それまで席に座っていた吉田さんが突然、立ち上がったかと思うと、机の下にそのまま「胡座」をかくように座ったんです。吉田さんは、しばらく頭を下にして、目をつむっていました。私は、ああ、(プラントが)もうダメなんだ、と思いました。[1,p251]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 震災発生から4日目の3月14日夜、不眠不休のまま吉田は緊急時対策室で指揮をとっていた。1号機に続いて3号機で水素爆発が起こり、その影響で2号機の冷却機能が失われ、核燃料の格納容器の圧力が高まり、その爆発という最悪の事態がいつ起きても不思議ではなかった。吉田はそれに備えて、協力企業の人たちを待避させたばかりだった。吉田は後に、こう語っている。

__________
 私はあの時、自分と一緒に「死んでくれる」人間の顔を思い浮かべていたんです。

 その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。・・・あとはもう神様、仏様に任せるしかねぇというのがあってね。

 何人を残して、どうしようかというのを、その時に考えましたよね。ひとりひとりの顔を思い浮かべてね。[1,p254]
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画像

■2.日本は「三分割」されていたかもしれません

 格納容器が爆発するとどうなるか、吉田はこう考えていた。
__________
 格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計十基の原子炉がやられますから、単純に考えても、「チェルノブイリx10」という数字が出ます。[1,p356]
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 斑目春樹・原子力安全委員会長(当時)は、これを聞いて、こう語った。

__________
 私は最悪の場合は、吉田さんの言う想定よりも、もっと大きくなった可能性があると思います。近くに別の原子力発電所がありますからね。福島第一が制御できなくなれば、福島第二だけでなく、茨城の東海第二発電所もアウトになったでしょう。

そうなれば、日本は「三分割」されていたかもしれません。汚染によって住めなくなった地域と、それ以外の北海道や西日本の3つです。日本はあの時、三つに分かれるぎりぎりの状態だったかもしれないと、私は思っています。[1,p256]
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■3.やらなければならないことが、頭の中で回転し始めた

 地震発生から1時間ほどして、「非常用電源がオフ! 停まりましたぁ!」という声が響いた時が、吉田が最初に最悪の事態を想定した瞬間だった。

「どういうことだ!」と吉田は反射的に叫んだ。「わかりません」「なぜなんだ? すぐ確認しろ!」「はいっ」

 地震のあと起動して今まで動いていた非常用電源が停まったという。やがて、次々と情報が入り始めた。10数メートルもの津波で非常用電源装置がやられ、中央制御室が真っ暗になり、すべての計器が動かなくなってしまった、、、

「そうか、、、(全電源喪失で)最悪の事態が来るかもしれない」と吉田は考えた。チェルノブイリ状態になるかもしれないと思いながらも、やらなければならないことが頭の中で回転し始めた。

 原子炉を電気で冷やすことができなければ、水で冷やすしかない。水なら海にいくらでもある。その水をプラントに入れるには、消防車しかない。多くの専門家が驚くのは、この段階で吉田が、消防車の手配まで行わせていたことだ。

 3台あった福島第一原発の消防車のうちの2台は津波にやられ、稼働可能だったのは、たまたま高台にあった一台だけだった。それが分かった5時過ぎには、吉田の依頼が自衛隊に伝えられ、福島第一原発に消防車が向かうことになる。自衛隊の消防車が事故の拡大をぎりぎりで止める事になるとは、この時点では誰も予想していなかった。

 長年、原発の補修や運営に携わってきた現場のプロだけが持ちうる直感的判断だったのだろう。

■4.人力でバルブを開け、水の通り道を確保する

 消防車で水を運んだとしても、それで原子炉を冷やすには、水の通り道を確保する必要がある。格納容器の外側を覆っている厚さ2メートルほどの遮蔽コンクリートがあり、それを突き抜けて入る配管が何本か通っている。消防車のポンプから、この配管に水を入れれば良い。

 しかし、その配管にはいくつかのバルブがあって、その一つでも閉まっていると、冷却水が通らない。電源さえあれば、中央制御室ですべてのバルブの状態を見ることができるし、開閉操作もスイッチ一つでできる。

 しかし、非常用電源すら落ちた状態では、各バルブがどうなっているのか、まったく分からず、また開けるにしても、プラントの中に入り込んで、人力で開けなくてはならない。

 吉田からの指示を待たずして、制御室のメンバーはプラントの図面を見ながら、どこにどのバルブがあり、冷却水を通すためには、どのバルブを開けるべきか、との検討を進めていた。これも吉田と同様、現場に精通したプロたちの判断であった。

 津波後、数時間の間に放射線量が上がり始めていたので若手を外し、ベテランたちが原子炉建屋に入り込んた。重い防護服を着て、階段やはしごを上り下りし、直径60センチもあるハンドルを回して、バルブを開ける。放射能が急上昇したり、大きな余震があったら逃げ場のない危険な作業であった。

 最後のバルブを開けた時には、午後8時頃になっていた。放射線量はますます上がり、午後11時には原子炉建屋に入れるレベルではなくなっていた。

 このタイミングを逃していたら、バルブを開けることはできず、冷却水の通り道を確保できず、炉心溶融がすぐに始まっていただろう。この作業に取り組んだ一人は後にこう語っている。

__________
 危険は感じていましたが、やはり誰かがやらないといけなかったわけです。われわれ運転手には、やるべき使命があるんで、これは当然のことだったと思います。
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■5.最初の水が原子炉に注入された

「水を注入する方法は、全部現場で考えました」と吉田は語る。海水を入れるには、海面と建屋のレベルが10メートルも違うので、この高さまで持ち上げるポンプがない。では、どうするか。

 考え抜くうちに、3号機にある「逆洗弁ピット」という巨大なプールに、たまたま押し寄せた海水がたまっていたので、それをまず入れようということになった。

 しかし、逆洗弁ピットに近づくには、津波で散乱したおびただしい瓦礫やゴミを取り除かねばならない。またテロ対策のための厳重な柵を壊さなければならない。

 暗闇の中、重機を動かして、消防車の動く道を作るという作業が猛然と行われた。これらの作業によって、最初の水が原子炉に注入されたのは、翌3月12日明け方の4時頃だった。津波から12時間が経過していた。吉田はこう語る。

__________
 海水注入なんて、誰でもすぐにできると思っているかもしれませんが、そんなことはないんですよ。それを簡単にできるかのようにおっしゃる方もいますが、そういう話を聞くと、憤りを感じますね。
現場が、どんな気持ちで水を見つけ、そして進路を確保してやっているのか、そういうことをまったくわからないまま、想像もしないまま、話していますからね、頭で考えるよりも、時間はいくらでもかかるわけです。[1,p101]
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■6.「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」

 ようやく水の注入が始まった頃、「菅首相が来ます」という耳を疑うようなニュースが入ってきた。最悪の事態を防ぐために、現場で不眠不休の対応を続ける吉田に、ヘリコプターをどこに留めるか、そこから首相らをどう運ぶのか、ただでさえ足りない防護マスクをどうするのか、など、余計な時間を使わせた。

 菅によると、東電本社側が説明できない点があるので、直接現地に来たという。しかし、ヘリが着陸した時に、他の乗員がまず降りようとすると、写真撮影のために「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」と待たされた事が、菅の魂胆を明らかにしている。

 建物に入る際に、係員が汚染をチェックしようとすると、「なんで俺がここに来たと思っているんだ! こんなことやっている時間なんかないんだ!」とフロア中に響く声で怒鳴りつけた。自分が来たという証拠写真を撮る時間はあるが、建屋内で奮闘している人々を放射能から守るための汚染チェックをする時間はないということである。

 周囲を怒鳴り散らしていた菅も、吉田の的確な説明に気押しされてか、少し落ち着いきを取り戻したようだった。しかし、この間に貴重な吉田の時間が20分も費やされた。怒鳴り散らすだけの菅首相が多少落ち着きを取り戻した事以外に、この訪問の具体的な成果は見当たらない。

■7.「官邸が、グジグジ言ってんだよ!」

 官邸からの過剰介入はこれに留まらなかった。1号機の爆発の後、放射線量増加の危険を冒して、本格的な海水注入を始めた直後、吉田の前に置いてある固定電話が鳴った。

「おまえ、海水注入はどうした?」 官邸に詰めている東電の武黒一郎フェローである。後輩の吉田とは「おまえ」と呼ぶ間柄であった。「やっていますよ」と吉田が平然と答えると、「えっ、本当か。それ、まずい。とにかく止めろ」と命令する。

「なんでですか。入れ始めたのに、止められませんよ」と言う吉田は、武黒の次の言葉に驚いた。

「おまえ、うるせえ。官邸が、グジグジ言ってんだよ!」
「なに言っているんですか!」とすさまじいやりとりになった。

 菅は、海水注入によって再臨界などいろいろな可能性があるので、よく検討せよ、という指示を出した、と後に国会で答弁している。一国の総理が、原子炉の専門家でもないのに、こういう技術的な問題まで口を挟んでくる異常さが本人には分からないようだ。

 なんで「素人」の理不尽な要求が、現場の最前線で戦っている自分のところに飛んでくるのか。吉田は、腹立たしくてならなかった。原子炉を冷やすには、水を使うしかない。限られた淡水がなくなったら、海水を使うしかない。それがなぜ分からないのか。

 その直後、本店から吉田に海水注入中止命令が下った。本店が官邸の意向に従ってしまったようだ。しかし、吉田は先回りして手を打っていた。

__________
 本店から海水注入の中止の命令が来るかもしれない。その時は、本店に(テレビ会議で)聞こえるように海水注入の中止命令を俺が出す。しかし、それを聞き入れる必要はないからな。おまえたちは、そのまま海水注入を続けろ。[1,p221]
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 吉田は原子炉という正面の敵とともに、後ろから足を引っ張る官邸とも戦わねばならなかった。

■8.「人間には、命を懸けなければならない時がある」

 吉田の「独断」によって海水注入は続けられ、さらに応援に駆けつけた陸上自衛隊中央即応集団や東京消防庁スーパーレスキュー隊が、消防車やヘリから決死の放水を行った[a]。こうした人々の執念に負けたかのように、暴走しかけた原子炉も徐々に熱を失っていった。

 吉田がサラリーマンのように本店の海水注入中止命令に素直に従っていたら、どうなっていたか。「チェルノブイリx10」が起こって、我が国は東北・関東が死の国となって「三分割」されていたかもしれない。吉田昌郎所長と所員たち、自衛隊諸士、消防員たちのまさに命懸けの行動によって、そのような事態はギリギリのところで避けることができた。

 [1]の著者・門田隆将氏は、吉田所長をはじめとして、実に90名以上の人々の話を聞きながら、この見事なドキュメンタリーをまとめた。氏はあとがきにこう記す。

__________
 私は、このノンフックションを執筆しながら、「人間には、命を懸けなければならない時がある」ということを痛切に感じた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 吉田昌郎氏はその年の末に食道ガンが発見され、その後、入退院を繰り返し、この7月9日に亡くなった。原発事故の際の極度のストレスが原因ではないか、と言われている。

 ご冥福をお祈りするとともに、吉田昌郎氏とその仲間たちが命を懸けて我々を守ってくれた恩にどう応えるべきか、我々はそれを考えなければならない。

(文責:伊勢雅臣)

「約束の結婚式」

2013年07月14日 15時34分58秒 | 色んな情報
「約束の結婚式」


          赤星 弘毅 作成

由香ちゃんが近所に引っ越してきたのは、まだ小学校三年生のときでした。

ときどきわが家に電話を借りに来るのですが、いつも両親ではなく由香ちゃんが来るので、おかしいなと思っていたのですが、しばらくしてその訳がわかりました。

由香ちゃんのご両親は、耳が聞こえない聴覚障がいがある方で、お母様は言葉を発することが出来ません。

親御さんが書いたメモを見ながら、一生懸命に用件を伝える由香ちゃんの姿を見ていると、なんだか胸が熱くなる思いでした。

今なら携帯電話のメールがありますが、その時代を生きた聴覚障がいを持つ皆さんは、さぞ大変だったろうと思います。

由香ちゃんの親孝行ぶりに感動して、我が家の電話にファックス機能をつけたのは、それから間もなくのことでした。

しかし、当初は明るい笑顔の、とてもかわいい少女だったのに、ご両親のことで、近所の子供達にいじめられ、次第に黙りっ子になっていきました。

そんな由香ちゃんも中学生になる頃、父親の仕事の都合で引っ越していきました。

それから十年余りの歳月が流れ、由香ちゃんが由香さんになり、めでたく結婚することになりました。

その由香さんが、

「おじさんとの約束を果たすことができました。ありがとうございます」

と頭を下げながら、わざわざ、招待状を届けに来てくれました。

私は覚えていなかったのですが、

「由香ちゃんは、きっといいお嫁さんになれるよ。だから負けずに頑張ってネ」

と、小学生の由香ちゃんを励ましたことがあったらしいのです。

そのとき「ユビキリゲンマン」をしたのでどうしても結婚式に出て欲しいというのです。

「電話でもよかったのに」

と私が言うと、

「電話では迷惑ばかりかけましたから」

と由香さんが微笑みました。

その披露宴でのことです。

新郎の父親の謝辞を、花嫁の由香さんが手話で通訳するという、温かな趣向が凝らされました。

その挨拶と手話は、ゆっくりゆっくり、お互いの呼吸を合わせながら、心をひとつにして進みました。

「花嫁由香さんのご両親は耳が聞こえません。

お母様は言葉も話せませんが、こんなにすばらしい花嫁さんを育てられました。

障がいをお持ちのご両親が、由香さんを産み育てられることは、並大抵の苦労ではなかったろうと深い感銘を覚えます。

嫁にいただく親として深く感謝しています。

由香さんのご両親は“私達がこんな身体であることが申し訳なくてすみません”と申されますが、私は若い二人の親として、今ここに同じ立場に立たせていただくことを、最高の誇りに思います」


新郎の父親の挨拶は、深く心に沁みる、感動と感激に満ちたものでした。

その挨拶を、涙も拭かずに手話を続けた由香さんの姿こそ、ご両親への最高の親孝行だったのではないでしょうか。

花嫁の両親に届けとばかりに鳴り響く、大きな大きな拍手の波が、いつまでも披露宴会場に打ち寄せました。

その翌日。

新婚旅行先の由香さんから電話が入りました。

「他人様の前で絶対に涙を見せないことが、我が家の約束ごとでした。

ですから、両親の涙を見たのは初めてでした」

という由香さんの言葉を聞いて、再び胸がキュンと熱くなりました。
              


出典元: (「NTT西日本」コミュニケーション大賞受賞作品)


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由香さんは、立派に育ちましたね。

ご両親もとても素晴らしい。

頭が下がる思いです。

私はここまで両親を思いやる事が出来ているだろうか?

読んで考えさせられる文章でした。


良かったら、シェアをお願いします。

「自由と繁栄の弧」をつくる

2013年07月14日 09時34分55秒 | 色んな情報
「自由と繁栄の弧」をつくる

          京免 史朗 作成
外務省ホームページより

「自由と繁栄の弧」をつくる

拡がる日本外交の地平          外務大臣 麻生太郎

日本国際問題研究所セミナー講演      平成18年11月30日

                    於:ホテルオークラ

 日本国際問題研究所 他のサイトヘは、3年先、2009年の12月に、発足50周年の節目を迎えると伺いました。1959年にできたということでありますが、ちょうど私など、大学の1年坊主だった頃です。なにぶん遊ぶのに多忙を極めておりましたせいか、吉田茂が何をしておりましたか、週末になる度大磯で会っておりました子供の時分よりも、逆にわからなくなっておりました。

 ああそうか、祖父さん、国問研を作ったのはあの頃か、と、今回は認識を新たにさせていただきました次第です。

 さて皆さん、本日は「価値の外交」という言葉と、「自由と繁栄の弧」という言葉。どちらも新機軸、新造語でありますが、この2つをどうか、覚えてお帰りになってください。

 我が国外交の基本が、日米同盟の強化、それから中国、韓国、ロシアなど近隣諸国との関係強化にある。――このことは、いまさら繰り返して申し上げるまでもありません。今回申し上げますのはその先、日本外交に、もう一本さらに新機軸を加えようということであります。

 第一に、民主主義、自由、人権、法の支配、そして市場経済。そういう「普遍的価値」を、外交を進めるうえで大いに重視してまいりますというのが「価値の外交」であります。

 第二に、ユーラシア大陸の外周に成長してまいりました新興の民主主義国。これらを帯のようにつなぎまして、「自由と繁栄の弧」を作りたい、作らねばならぬと思っております。

●資格宣言と、決意表明

 なんとなく、「バタ臭い」ぞと…。つまり下駄履きの似合う男が、西洋仕立ての背広を着て無理しておるなと。

 あるいは、戦争で大負けしたうえ国内外に多大の迷惑をかけたのに、「価値」とはまた、いつから他人(ひと)さまに説教する徳を身につけたのか、と…。

 …いうようなことを、あるいは言う人があろうかと存じます。がそれは私に言わせますと、鏡に映る自分を、ニセモノだ、こしらえものだとどうしても思いたがる、一種の病癖であります。

 きょう、ほかのことは忘れてもらっても結構であります。しかし日本も「いい歳」なんですから、鏡に映した我と我が身にもじもじするような、そんな態度はもうやめましょう、という、そこのところは、胃の腑に落としていただきたい。そう思っております。

 だいたい、尊大にも、卑屈にもならないのが一人前の態度というものでして、こだわりを取り去って虚心に眺めてみますと、今日の日本は、長い歴史の積み重ねがあって成り立っているという、当たり前の事実が見えてまいります。

 民主主義というもの、熟成するには長い経験やら、失敗の積み重ねが必要であります。日本の場合、始まりを明治から数えるのが普通でしょうが、「法の支配」とか「契約の遵守」という考え方は、これは相当古くからあります。「十七条の憲法」だ、ヤレ「貞永式目」だ、と、その始まりの議論にも、なかなかにぎやかなものがございます。

 しかし特筆大書しなければならぬと私ども思いますのは、なんと言っても江戸時代の成熟ぶりです。

 例えば「貸本屋」でありまして、当時は一人の貸本屋に、百人以上得意先があった、と。新刊本が出ると、それを袋に詰めてお得意さん回りを致します。「おぉ待ち兼ねたぞ」と言って、お客は袋の封を切る。…これが今でも映画の世界に残る、「封切り」の語源であります。

 本に印刷された広告などから、読書階級というのが、武家から町人、婦女子まで広がっていたことが知られております。しかも江戸と上方だけではありませんで、どうも全国津々浦々に、無数の貸本屋が本を配って歩いておりました。

 江戸時代すでに、膨大な庶民が娯楽でモノを読んでいたわけでありますから、現代日本で漫画が栄えるワケであります。

 ともあれ江戸時代の日本というのは、珍しいくらい平和に、丸く治まった社会でありました。今ふうに申しますと、「ガバナンス」が相対的にうまくいっていたということでありまして、この土台があったからこそ、近代的な制度が日本の場合はうまく乗った。私などはそう思っております。

 自由とか民主主義、人権や法の支配におきまして、完璧な国など世界中に、ありません。ですがこんなふうに歴史を見返すにつけ、日本は、そういう普遍的価値を重んじる点にかけては、もはや老舗(しにせ)の部類に入りやしませんか、ということであります。

 加えて誰からも、全く後ろ指をさされない、戦後日本の平和主義という実績がございます。60年間大砲はおろか、銃弾の1発も撃たなかった自衛隊みたいな組織が、どこかよその国にあるものでしょうか。

 この頃ではイラクを始めいろんな場所で、自衛隊の諸君が必死に汗をかいてくれました。そのおかげで、制服を着た日本人のイメージも、劇的に変わったと思います。「恐い」という印象は消え、今それは、「笑顔の人」です。「同じ目線に立ち、一緒に苦労してくれる人々」であります。

 と、このような背景や、実績があるわけで、民主主義にしろ平和や自由、人権にしろ、世間一般に通じる「普遍的価値」について、我が日本は、もはや口ごもりません。以上が、「価値の外交」に関する資格宣言、ならびに決意表明であります。

●公約・民主主義各国の、伴走者になる

 ここで目をユーラシア大陸の外周に沿って、ぐるっと見回していただきたいのでありますが、この一円こそは、冷戦が終わり、東西対立が幕を閉じるとともに、激しく変わってまいった一帯です。

 そこを「自由と繁栄の弧」にしたいという、そちらへ話を移してまいります。

 なんでアフリカを取り上げないんだ、と。中南米は大事じゃないのか、と、地球儀を片手にあまり突っ込まれても困ります。

 あとから申しますが、EUやNATOとの協力を今後強めていこうと、そういう動機がひとつございます。そこから自然と思い浮かびますのが、いま申しましたちょうど弧のようになった一帯です。東西対立が終わり、体制が大変化しつつある国々を含む地域です。そこを、「自由と繁栄の弧」に致しましょう、ということでありました。

 それからこの一帯には、当然中近東地域も入るのでありますが、実は中近東政策については別途スピーチする必要があろうと考えておりまして、今日は詳しく申し述べません。

 具体的に、いま私の念頭にありますのは、例えばカンボジアにラオス、それにベトナムです。頭文字をとってCLVなどと呼んでおります一帯です。

 それから、世界に対する資源供給という点で非常に大事な、中央アジアの諸国や、グルジア、アゼルバイジャンなど、コーカサス地方の国々であります。

 さらには今年の夏、私自身が訪問しまして、首都のキエフなど、さすが大国の風格があると感じてまいりましたウクライナ。

 いずれの国々とも、いま我が国は外相会合など、いろいろな接触を定期的に持とうとしております。それによって先方の状況が、格段によく見えてまいります。

 一言で申しますと、「経済的繁栄と民主主義を通じて、平和と幸福を」という道を、多くの国が歩んでおります。これはいつも言いますように、戦後日本がたどった経路、そして最近では、ASEAN諸国が軽やかに通過しつつある道であります。

 けれども民主主義というのは、終わりのないマラソンであります。しかも最初の5キロくらいがとりわけ難所だと、相場は決まっております。

 このとき若い民主主義は、大量の成長ホルモンを出します。それが、社会を落ち着かせる制度作りの方へ向けば結構。しかし若い内は、破壊衝動がまさったりいたします。

 他人(ひと)さまのことを言っているのでは、ありません。1年前、アジア外交のスピーチで申しましたように、日本も戦前戦後、世の中の振り子が大揺れする時期を何度か経て、やっと今日の落ち着きを得ております。

 以下は、そういう国、日本の外務大臣が、公約として申し上げることです。

 我が日本は今後、北東アジアから、中央アジア・コーカサス、トルコ、それから中・東欧にバルト諸国までぐるっと延びる「自由と繁栄の弧」において、まさしく終わりのないマラソンを走り始めた民主主義各国の、伴走ランナーを務めてまいります。

 この広大な、帯状に弧を描くエリアで、自由と民主主義、市場経済と法の支配、そして人権を尊重する国々が、岩礁が島になり、やがて山脈をなすように、ひとつまたひとつ、伸びていくことでありましょう。

 その歩みを助け、世界秩序が穏やかな、平和なものになるのを目指すわけであります。

 我が日本は、世界システムの安定に死活的な利害を託す、大国の一員であります。自らの生存と安定、それに繁栄という、国益の三大目的を追求しようといたしますと、日本くらい大きな国になりますと、世界のどこで何が起きようが無縁ではいられません。

 でありますからこそ、米国はいうまでもなく、豪州、インド、それにEUあるいはNATO諸国という、思いと利益を共有する友邦諸国とますます堅固に結ばれつつ、「自由と繁栄の弧」の形成・拡大に努めてまいらねばならぬと、固く信じるわけであります。

 一言補足でありますが、日本とインドの関係は、例えば日中関係に比べまして、かなり見劣りいたします。人の往来は、日中間が年間417万人なのに対し、日印間は15万人。中国からは日本に8万人以上の留学生が来ておりますが、インドからはわずか400人とちょっとであります。飛行機の直行便も日中間には週に676便飛んでおりますが、日印間はたったの11便という状態ですから、今後数年で、劇的な改善を図って参らねばならぬと考えております。

●ボディランゲージに言葉と名前を

 「自由と繁栄の弧」をつくるのは分かったが、じゃあ何をするんだ、と、お尋ねでありましょう。

 実はまったく実績もなしに、大見得を切っているのでは、ありません。

 10年前、1996年のリヨン・サミットで、我が国の発表した事業がひとつありました。「民主的発展のためのパートナーシップ」、頭文字をとって「PDD」と、当時の外務省は命名したようでありますが、若い民主主義国に対し、ガバナンスの仕組み作りに手を貸そうとするものです。

 この一環では、民主化・市場経済化に向け産みの苦しみを経験しておりましたカンボジアやラオス、ベトナムのCLV諸国、それからモンゴルやウズベキスタンといった国々に対し、法制度、司法制度づくりといった国造りの基礎作業を、集中して支援した実績があります。しかもそれは、PDDのほんの一端に過ぎません。ご存じないとすれば、いかに私ども、宣伝ベタかということであります。

 宣伝ベタついでにもうひとつ。冷戦が終わるや否や、我が国は東欧諸国支援に大々的な手を打っていたことをご紹介いたします。

 1989年の夏は、まだベルリンの壁が落ちておりません。しかし、予兆は日増しに強まっておりました。その段階で、日本政府はアルシュのサミットを機に、ポーランドとハンガリーに対し大規模金融支援策の用意あり、と打ち出しております。

 翌年1月、壁がまさに落ちたばかりのベルリンへ行った当時の海部俊樹総理は、ポーランド、ハンガリーへ、総額19億5000万ドル、日本円では2800億円以上に上る巨額の支援策を発表し、公約を具体化させております。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでも、1995年に紛争が終るや否や、日本は5億ドル出しております。二国間では米国に次ぎ2番目の額でしたので、「なんで日本がそこまで」とかえって不思議がられたそうでありますが、今となっては「一番実のある支援をしてくれたのは、結局日本だった」と言われているようであります。

 これが実質上、「価値の外交」でなかったとしたらなんだったのか。私ども、「自由と繁栄の弧」をこしらえようと、「ボディランゲージ」では、既に言っていたのではないでしょうか。

 アジアでも、日本のボディランゲージは、実は雄弁だったのではありませんか。

 1997年から1998年にかけ、韓国とASEANの主だった国が、軒並み通貨危機に襲われました。あのとき我が国は、デフレ不況のどん底。しかし、1998年10月には総額300億ドル、4兆円以上の資金支援を打ち出しました。韓国には約84億ドル、インドネシアに30億ドル…。あれからかれこれ10年経って、韓国にしろASEANにしろ、「自由と繁栄の弧」の、チャンピオンとなったわけであります。

 つまり私がきょう申し上げようとしている新機軸は、実を申しますと新機軸でもなんでもありません。16、17年前から日本外交が少しずつ、しかし地道に積み重ねてきた実績に、位置づけを与え、呼び名をつけようとしているに過ぎないわけであります。

 ですが、位置づけがないと、自分で自分が何をしているのか意味がわかりません。名前もない政策は、国内外の人々に、記憶すらしてもらえません。だからこそ、言葉が必要なのであります。そこを自覚して、明確な言語を与えようとした点に、あえて申しますなら本当の新機軸がございます。

●CDCやGUAMへ

 「日CLV首脳会議」とか、「日CLV外相会議」。「中央アジア+日本」対話や、チェコ、ハンガリー、ポーランド、それにスロバキアを加えた中欧4カ国がつくった俗に「V4(ドナウ川の地名ヴィシェグラードのV)」と称するグループとの対話…。

 これらは定例化するなり、既に定期化しているものは充実させるなりして、まずは関係相手国と頻繁に会合し、対話を重ねていかねばならぬと考えます。個別には、アフガニスタンと既にそのプロセスを始めております。

 その際賢いやり方というのは、日本を深く理解してくれている国々を足がかりにすることです。代表例として思い浮かびますのは、中近東や中央アジアについて知識の宝庫である国、トルコであり、ウクライナについて知ろうとする際、頼りになるポーランドです。

 ポーランドは私、外務大臣として行き損ねておりますが、小泉前総理が平成15(2003)年8月に行かれて驚かれたのは、例によってショパンのことだけではありません。

 「灰とダイヤモンド」などの作品で有名な映画監督・アンジェイ・ワイダさんなどは、京セラの稲盛和夫さんが差し上げた京都賞の賞金を元手に、古都・クラクフに「日本美術技術センター・マンガ館」を作っております。マンガと申しますのは「北斎漫画」のことでして、若きワイダ監督が見て心打たれたという、さる収集家の作品を収めた施設です。

 もっとも、現代日本の漫画人気も大したもので、私のコレクションには、ポーランドの外務大臣がくれた「犬夜叉」のポーランド語版が入っております。

 それからポーランドには「ポーランド・日本情報工科大学」といって、「日本」という名前がついた大学がありますが、この大学ではUNDP(国連開発計画)の協力を得まして、日本からの支援総額35万ドルをもとに、「対ウクライナ情報技術移転プロジェクト」という事業を実施しております。最新技術を使い、遠隔教育の仕組みを組み立てようとする試みです。

 つまり日本に対して理解が深く、地理的・文化的に見て、「自由と繁栄の弧」のうち伸び盛りの国々を上手に助けられる、という…。そういう立場にあるポーランドなどとの協力は、大いにやりがいが出てまいります。

 ポーランドやハンガリー、バルト三国など多くの旧社会主義国は、2004年5月にEU加盟を果たしました。援助される側からする側へ、急転回を果たしたわけであります。

 バルト海まで延びる「自由と繁栄の弧」を、虫食い状態にさせないためには、いわゆる「グアム(GUAM)」の国々……というのはグルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバを言うのでありますが、この辺一帯を安定させねばなりません。

 それをわきまえているのでありましょう、ウクライナとグルジア、リトアニアとルーマニアが組んで、1年前、「民主的選択共同体」、頭文字を取って「CDC」という名のグループができています。

 目的はずばり、バルト海から黒海、カスピ海周辺という、私どもが「自由と繁栄の弧」でイメージいたしております地域において、民主主義を根づかせようとすることです。

 我が国はCDCやグアムの国々と、なるべく多くの接触を図ってまいりたいものであります。繰り返しますなら、その際はパートナーになり得る国との協力を大いに追求すべきであろうと考えます。

 ちなみに、ただいま日本の外交力強化をうたい、在外公館の数や外交官の人数など大幅な増加を目指しておりますが、今議論しておりますGUAM(グアム)などの地域に、我が国は満足な外交機能を置いておりません。早く充実させたいものと思わざるを得ません。

●なぜ外交にビジョンが必要か

 そろそろ締め括らせていただきます。

 「東は東、西は西」、だと。イギリスの詩人、キプリングの詩をもじりまして、東西はなかなか出会わないんだと言われることがございます。

 が、私は去る5月、ベルギー・ブリュッセルのNATO本部へまいりまして、実を申しますとかなり踏み込んだ内容のスピーチをしてまいりました。

 我が国自衛隊とNATOとに、世界の紛争予防、平和構築といった分野で、これからきっと協力の余地が拡大するだろう、と。それを見越して、今から付き合いを親密にしておきましょうという提案を、させていただいております。

 東は西へ、西は東へ、それぞれ翼を伸ばし、インド洋やらアフガニスタンやらで、日本とNATOが隣り合って働き、汗をかく姿がもはや珍しくなくなりました。

 本日は価値を重視する日本の外交が、ユーラシア大陸の外縁に沿って「自由と繁栄の弧」を築いていこうとするその意欲を、申し上げました。

 自由と民主主義、人権と法の支配の尊重を大切にする思いにかけて、人後に落ちぬわれわれであります。その日本が、21世紀の前半を捧げるにふさわしい課題に、思いを共にする国々と一緒に取り組めることを、私は喜びたいと存じます。米国はもとより、豪州、おそらくますますもってインド、そしてEUや、NATOの加盟各国等であります。

 いかがでしょう、麻生太郎がまた大風呂敷を、と思われたとしたら、2つ申し上げて締め括りとさせていただきます。皆さん、大風呂敷とおっしゃいますが、ビジョンとはたいがいいつも、大風呂敷であります。そして日本外交には、ビジョンが必要であります。

 なぜとなれば、これが第二の点ですが、日本外交のビジョンは、われわれ日本の善男善女にとってのビジョンであります。日本人ひとりひとり、誇りと尊厳をかけるに足るビジョンであるのであります。

 外交とは、国民に、地に足が着き、身の丈に合った、穏やかな自尊心を植えつける仕事でもあります。外務大臣として、日本人を元気にし、自信をもたせる外交を心がけ、そのための言葉を幾万言なりとも語ってまいりたい。そう申し上げて、おしまいにさせていただきます。

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「悪人家族」

2013年07月13日 17時38分10秒 | 色んな情報
「悪人家族」

           涙が止まらない
ある町に2軒の家が隣り合わせに建っていました。

... 一軒の家は7人暮らしでしたが、いつもにぎやかで一家団欒の楽しそうな声が絶えませんでした。

もう一軒の家は3人の家族なのに、毎日ケンカが絶えず、

面白くない日ばかりを送っていました。

どうして隣はいつも睦まじく暮らしているのだろうと、

3人家族の主人が、隣の家にそのわけを聞きに行きました。


「あなたの家はいつも仲良く暮らしているのに、

私の家ではケンカばかりです。

どうしてなのでしょう?」


すると、隣の家の主人は言いました。


「それはあなたの家が善人ばかりの家だからでしょう。

それに比べて私のところは、

悪人ばかりの家だからなんですよ。」


その意味が理解できないので、3人家族の主人はさらに聞きました。


「どうしてもよく分かりません。

悪人ばかりの家だったら、

余計にケンカが絶えないはずですし、

逆に善人ばかりだったら仲良くするはずですよ。」


「いえ、そんなことはありません。

たとえば夕飯のおかずが少なく、

ご馳走じゃないとします。

そんなとき、妻がこんなものしか作れなくてスミマセンと言い、

私は自分の稼ぎが少なくていつも悪いなと言い、

両親はいやいや、私達がいるから、おかずが少なくなって申し訳ないと言い、

子供は学校の帰りが遅くなり、お母さんの手伝いができなくってごめんねというんです。

つまり、みんな自分が悪いと思っているので、ケンカしようがないのです。

それに対して、あなたの家ではおそらく、みんな自分は善人だと思っているから、

それぞれ自分の非を認めたがらないのでしょう。」


それを聞いて、訪ねてきた主人は返す言葉がありませんでした。

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ちょっと耳が痛いです。

私は、なかなかここまで謙虚になることは出来ません。

ですが、ほんの少しの気持ちの切り替えで、良くも悪くもなるということを学びました。


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昨夜八時から自分自身がダウン

2013年07月12日 16時37分43秒 | 色んな情報
昨夜八時から自分自身がダウン
10時前までは我慢していたけれども救急に電話して県立病院へ。
点滴受けてCT検査をして貰った。
むねと背中が痛くて大動脈解離などとは全然柔らかい感じの痛みだけれども
あれと同じ場所なので。
昨年 辺りから自分では焦りが有って偉そうに自分がしないとと無理を
しているんだとは思っている。
生意気な奴だと思う人が多いと思う。
現状の日本 そして世界状態を見ているとジッとしていられ無い。
呑気な人が多すぎる。
ここ何日かオカシナ感じはしていた。
 
一昨日だったかな 千葉麗子 確かの名前だったかな。
画像が写りお先にどうぞと自衛隊員の滑降した若者が画像の左右にいて
標語としてお先にどうぞ 総理から。
その人のコメントとして
子供たちを戦争に死なせるために育てたのではない。
流しても普通なら済むが総指揮官に先に行って下さい。
コレはどういうことを言っているか判りますか。
瑞穂の言うのと同じ事 何もしなくていいことになる。
指揮官初めから居ない戦争なんて聞いたこと無い。
瑞穂は兵隊のない戦争しましょうと言っているのと同じ。
何処に平和が有るのかな。
みんな幸せにするにはどうしようか考えているのに。
シナは幾つかに分裂して南と北と日本へ来るだろうと思う。
半島も大陸も今 恐らく金が無くなっている。
日本に金寄越せとまた乞食に来る。
日本は今コレ以上渡すものはない。
戦争仕掛けてくるしか無いのではないか。
指揮官も居ない兵器も持たない軍隊で何が役に立つ。
 
 
私は少し違うことも考えている。
我々は情弱と言われている。
知っていることが少ない。
この四年間 私は偉そうになるけれども情報を一つでも身に付けて
偉い人になってほしいと思い 色んなことを調べたり知ったりしたことを
馬鹿と言われながら流してきた。
有るサイトでは干された。
マイ日本デモ大分言われた。
ミクシーなんかヤット少し見向いてくれる人が出て来た。
アメブロも。その他にもいくつか見てくれている。
私はアタマが悪いから上手く書けないから人のものでも持ってくる。
ソレは気に食わない人は沢山いるだろう。
ハッキリ言って一々お願いします いいよ どうぞと言うまで時間がないことが多い。
私自身 後どのくらい命がも使わ判らない。
ソレに世界情勢も切迫している。
なのにコンナ呑気なこと云ってる人がマダ沢山いる。
日本語が好きだから日本語を色々沢山掘り起こして書いてきた。
ネットに流れている日記は 総数 3500は超えている。
ちょっとしたものから 膨大の情報を一つに入れたものまで有る。
一つに考えてみると多いので1000は超える情報が入った樅野もたくさんあると思う。
一つしか入っない下らんものも有る。
知ってもらう一つでも多く。
ソレが日本を良くしてくれるのではと思っている。
私は偉ぶった高慢ちきなんだろう 他人から見れば。
どう思われても良い 私は余り時間がないだろうと思っている。
だから一つでも無理にでも貴女の頭へ突っ込んでいく。
イヤでも構わない。
あなたの命を助けることになるのではないかな。
日本を後世に残して下さい。

「閣下」が降り立ち、現場の警察官を一喝

2013年07月11日 20時23分55秒 | 色んな情報
「閣下」が降り立ち、現場の警察官を一喝
   
            手登根 安則
国会議員も恐れて近づかない、あの場所に
「閣下」が降り立ち、現場の警察官を一喝されておりました。
この方は、元航空自衛隊幕僚長(米軍で言えば大将、Four Star)です。
この異常な状況を、全国の方々に伝えてもらえると思います。

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「江戸しぐさ」って、ご存知ですか。

2013年07月11日 12時51分46秒 | 色んな情報
「江戸しぐさ」って、ご存知ですか。

          宮本 喜恵子

「江戸しぐさ」って、ご存知ですか。
江戸時代、大都市江戸で互いの商売繁盛を願い、共倒れにならないようにと、江戸商人が考えた行動哲学です。

今日のコラムは「忙しい」です。

江戸の人は、ほかの人から「忙しそうですね。」と言われると、顔色を変えて怒ったそうです。
ええ? どうして?
現代人は時々、自慢気に、またお断りしたい時にも使っていませんか。

「忙」という字は分解すると、りっしんべん、つまり「心」が「亡」くなったと書きます。よく言われることですね。
江戸では心を失った人はデクの棒(丸太)と呼び人間ではないと考えたほど。

「何言ってんだ。我を忘れて何ができるんだ」
「心がそこにないんだったら、まともなことができるわけがないじゃないか」
「相手のことを思いやることができないって、言っているのか」
と、解釈されました。

江戸っ子に「忙しい」という言葉は絶対に禁句だったのですね。

江戸っ子のように、そんな時は「ご多用のところ、誠に申し訳ありませんが・・」と語りかけたり、応える時にも「いやあ、今雑用に追われていまして・・」
「今書き入れ時でございまして」などという言うのがいいのかもしれません。

言葉というのは、語っている自分がその状況を作り出しているものなのですね。

【家族から学ぶ小さな教え】

2013年07月11日 08時46分25秒 | 色んな情報
【家族から学ぶ小さな教え】

          森井 貴志子
8歳の次女がいつものように、

「ママ~、見て~!親指ホタルだよ~。」

下から光を照らしているようなのですが、
見事に光を通しています。

私はその時この歌を思い出しました。

<手のひらに太陽を>

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズたって オケラたって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友達なんだ
歌:童謡  歌詞:やなせ・たかし 作曲:いずみたく

まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)......

当たり前のように、
自分の体と共に生活して、
当たり前のように、
自分の体を使っている....

だけど、
体の中では、計り知れない神秘が存在してから、

私達は動くことが、行動することが出来る。

それが、どんなに凄いことなのか、
感じずにはいられませんでした。

自分自身の体に
深く感謝し、いたわりを持とう.....

そして、それを忘れないためにも、
たまには太陽に手をかざしてみよう.....

次女が言いました。
「体って、光るんだね。」

私達の体は実は大きな光に包まれているのかも知れませんね。

人間は元来、身勝手・得手勝手なもの。

2013年07月09日 19時56分49秒 | 色んな情報
人間は元来、身勝手・得手勝手なもの。

           幸せのカタチ

夏がくると冬がいいと言う。

冬になると夏がいいと言う。

太ると痩せたいと言う。

痩せると太りたいと言う。

忙しいと暇になりたいと言う。

暇になると忙しいほうがいいと言う。

自分の都合のいい人は
善い人だとほめ、

自分に都合が悪くなると
悪い人だとけなす。

人間は元来、
身勝手・得手勝手なもの。

(おかげさま、上所重助)

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ないものねだり、なのかもしれませんね。
でもそれが人です。

自分に正直に、
そして他人にも正直にいきたいですね。

夏は大好きですが暑いのは苦手です。
これが正直な気持ち(^_^)

あなたの身勝手な言い分聞かせてください。
どこにも言えない事ここで吐き出して
少しでも楽になれば幸いです。

共感頂けたらシェアしてくださいね。
みんなで身勝手語りましょう(^^)

人間元来の姿です。無理をせず・・・。
そんな時もあっていいと思いますよ。

相手チームを褒める。なかなかできることではないですね。素晴らしいです。

2013年07月09日 14時58分16秒 | 色んな情報
相手チームを褒める。なかなかできることではないですね。素晴らしいです。



【真の勝者】

            涙が止まらない

つい最近「ミラー細胞」

というものが見つかり、

脳医学で注目されている。

どんな細胞かというと、

そばにいる人と同じ表情をしたり、

相手の感情をそのまま反射したりする。

つまり、

相手の気持ちを鏡のように反映する細胞。

ということは、

相手に思いやりの気持ちを向けると、

相手もこちらの気持ちに

シンクロ(同調)するということになります。

相手が「ありがとう」と言ってくれたら

自分も「こちらこそありがとう」という気持ちがわいて来る。

そうさせるのがミラー細胞。



このニュースを聞いて著者は

2007年夏の全国高校野球大会で

優勝した佐賀北高校のことを思い出したとのこと。

佐賀北高校は勉強に熱心な県立高校で、

チームも全国から野球エリートを

かき集めて作ったわけではありません。

その佐賀北高校、

試合中に相手チームを褒めるのです。

例えば、

相手チームがカーンとヒットを打ったとします。

すると、佐賀北の一塁手は、

塁に立った相手走者に言うんです。

「ナイスバッティング」

二塁を打った相手には、二塁手が

「素晴らしいですね」

と褒めます。

一方、打撃に入って三振をとられると、

相手のピッチャーに

「ナイスピッチング」

と声を掛けます。

普通は、こんな事は絶対にないでしょう。

佐賀は結局一度も負けず、

優勝しましたが、

佐賀と対戦して敗れたチームは

みんな佐賀北のファンになってしまう。

そして、勝つたびに佐賀北は

多くの応援団をつけ、

県立高校としては

11年振りの甲子園全国優勝を果たした。

この話はミラー細胞のお話と合致する。

たくさんの人から応援されていると思うと、

なおのことパワーが出る。

それがまた佐賀北を後ろから押し上げていきました。

いわば、プラスの相乗効果だった。

人との関係は、

まず相手を尊敬し受け入れることから始まる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

相手への尊敬を惜しまない彼らの姿勢は、
素晴らしい事ですね。

常に相手に敬意を払い、かけられて嬉しい言葉を
常に相手にかける。

それが実は自分のためにもなる。

スポーツ以外でも同じことが言えますよね。

褒めてほしければ、人を褒め、尊敬してほしければ人を尊敬する。改めて自分自身も行っていこうと感じさせてくれました。

少しでも共感していただけたら、シェアお願いします。

~~~ 【 な み 】 ~~~   周波数って・・・?

2013年07月08日 19時08分11秒 | 色んな情報
~~~ 【 な み 】 ~~~   周波数って・・・?
  
有木 利夫

周波数って・・・?
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周波数  frequency
SI単位  ヘルツ (Hz)

CGS単位
ヘルツ (Hz), サイクル毎秒 (c, c/s)

なんか、いろいろ書いてありますが・・・じっとしてない物です(笑)

周波数(しゅうはすう)とは、工学、特に電気工学・電波工学や音響工学などにおいて、電気振動(電磁波や振動電流)などの現象が、単位時間(ヘルツの場合は1秒)当たりに繰り返される回数のことです。

周波数は、波動や振動の周期の逆数であり、単位は「ヘルツ」(Hz) が使われる。かつては、「サイクル毎秒」(c/s、略して「サイクル」)が使われていたが、1970年代にヘルツに切り替えられた(日本における切替えは1972年7月1日に施行された改正計量法による)。
振動数も英語では frequency でありほぼ同義であるが、「周波数」がおもに電気・電波に関する工学用語として用いられるのに対し、「振動数」は力学的運動など自然科学(理学)における物理現象に用いられることが多いようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はい、本番です。

10の何乗か・・でまとめました。
< 小 ⇒ 大 へ >
・-15乗 :ベルセウス座銀河団のブラックホールの音波
・-10乗 :1世紀に1回、冥王星の公転
・- 9乗 :10年に1回
・- 8乗 :1年に1回
・- 6乗 :1週間に1回
・- 5乗 :1日に1回
・- 4乗 :1時間に1回
・- 2乗 :1分に1回
・- 1乗 :LPレコード 33回転
・  0乗 :人の心拍数、脳波(α波)1~3
       脳波(β波)4~7、脳波(γ波)8~13
・  1乗 :ピアノの低音27.5、
       人の音域20~16000
・  2乗 :音階調律(イ音・A・ら)440?・・ジョンレノン
・  3乗 :超長波 VLF
・  4乗 :長波 LF30~300、CDサンプリング44.1
・  5乗 :中波 MF300~3000、
       AMラジオ531~1612
・  6乗 :短波HF3~30、DVDサンプリング192
・  7乗 :超短波 VHF30~300、地上波TV42~260
       FMラジオ76~90

*** 休憩タイム ***

はい、スタート・・・!
・  8乗 :極超短波UHF300~3000、地上波TV
・  9乗 :中性水素の基底の放射周波数1.4
       Bluetooth2.4~2.485、電子レンジ2.45
       セシウム133の遷移9.19

・ 12乗 :赤外線3~400、遠赤外線3~30(波長限定)

*** 休憩タイム ***

さあ、最後のがんばり・・だぁ~~

・ 14乗 :近赤外線120~400、光ファイバー193
 
**** 可視光線405~790 ****
  赤405~480、オレンジ480~510、黄510~530
  緑530~580、シアン580~600、青600~667
  藍667~700、紫700~790
  紫外線750~3000

・ 16乗 :X線30~3000
・ 18乗 :γ線2.42~124
・ 43乗 :プランク周波数1.8549
       (NASA:宇宙の年齢137億年≒4.323×10の
        17乗秒より)

つまり、-15乗~43乗まで、10が58個ということは、
1円玉が、100阿僧祇(あそうぎ)円・・なんぼほどや?
になるということ。

16乗が、京(けい:コンピュター競争中)、20乗が、垓(がい)。
恐るべし、【 な み 】の力よ・・・!
                           おしまい

努力することの意味を考える

2013年07月08日 16時30分55秒 | 色んな情報
努力することの意味を考える

おの しゅうじ
「歩くから道になる
歩かなければ草が生える」
(by 相田みつを)

勉強を一生懸命する子供をみて

努力することの意味を考える

毎日努力すること
毎日前進すること
毎日歩き続けること

とっても辛いし
とっても厳しい

でも

歩くことをやめたら

今の風景は変わらない

辛くても
苦しくても

歩き続けるから
目に見えることも変わってくるし
進むべき道も見えてくる

立ち止まってしまうと

楽かもしれないけど
道は段々と閉ざされ
景色も徐々に色あせてくる

一歩一歩の歩みが
これから進むべき道をつくる

一歩一歩の歩みが
モノクロの人生に彩りを与える

一歩一歩の歩みが
夢、希望、勇気を心の中に創り出す

だから

これからも歩み続けよう

人生のゴールは
遠くに見えるようで
以外と近くにあったりする

今日の歩みが
明日の希望へと変わり
未来の勝利へと続いていく

その時が来るまで

歩き続けていこう!


みなさん、今日も一歩前進ですよ!

(*写真は25年程前にいった
エジプト古代都市テーベの遺跡です。
by Cameron Grant)

努力することの意味を考える

2013年07月08日 16時30分27秒 | 色んな情報
努力することの意味を考える

おの しゅうじ
「歩くから道になる
歩かなければ草が生える」
(by 相田みつを)

勉強を一生懸命する子供をみて

努力することの意味を考える

毎日努力すること
毎日前進すること
毎日歩き続けること

とっても辛いし
とっても厳しい

でも

歩くことをやめたら

今の風景は変わらない

辛くても
苦しくても

歩き続けるから
目に見えることも変わってくるし
進むべき道も見えてくる

立ち止まってしまうと

楽かもしれないけど
道は段々と閉ざされ
景色も徐々に色あせてくる

一歩一歩の歩みが
これから進むべき道をつくる

一歩一歩の歩みが
モノクロの人生に彩りを与える

一歩一歩の歩みが
夢、希望、勇気を心の中に創り出す

だから

これからも歩み続けよう

人生のゴールは
遠くに見えるようで
以外と近くにあったりする

今日の歩みが
明日の希望へと変わり
未来の勝利へと続いていく

その時が来るまで

歩き続けていこう!


みなさん、今日も一歩前進ですよ!

(*写真は25年程前にいった
エジプト古代都市テーベの遺跡です。
by Cameron Grant)

【日本史上最強の軍人】 舩坂弘(ふなさか・ひろし)

2013年07月06日 21時43分01秒 | 色んな情報
【日本史上最強の軍人】 舩坂弘(ふなさか・ひろし)

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それは生きている英霊、不死身の分隊長、サイボーグ舩坂弘氏である。

「撃ってみて、毒を飲ませて殴打して、溺れさせても船坂は死なず」山本五十六

舩坂弘(ふなさか・ひろし) 遺伝確率250億分の1で生まれる異能生存体であり、正式名称は四式人造歩兵初号機。大日本帝国陸軍がその威信をかけて製造した汎用人型決戦兵器の秘匿名称。また平野耕太の漫画作品『HELLSING』(ヘルシング)登場人物アレクサンド・アンデルセンのモデルとなったことでも有名。

・「不死身の分隊長」と呼ばれる
・米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。
・軍医が助からないと判断して自決用の手榴弾を手渡される程の瀕死の重傷。
・ちなみに軍医が来るまでの間、米軍の銃火の中に数時間放置される。
・しかし、日章旗で縛ることで止血し「夜通し這う」ことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には歩けるまでに回復。
・その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、不思議と翌日には回復している。
・「生まれつき傷が治りやすい体質」と、本人談。
・鬼神の如き奮戦の記録。
・アンガウルの戦いにて擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷。
・絶望的な戦況でも、拳銃の3連射で3人の米兵を倒す。
・米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に倒す。
・左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺。
・その銃剣を「短機関銃」を手にしていた敵兵に投げ、顎部に突き刺して殺す。
・腹部に重傷を負ってついに「這うこと」しか出来なくなり、「もはやこれまで」と自決用手榴弾の信管を抜くも不発。
・戦友も次々と倒れ部隊壊滅するが、死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと
重傷なのに米軍司令部への単身斬り込み(10000人vs1人)、肉弾自爆を決意する。
・その前に自分の傷口に群がる蛆虫を拳銃の火薬で殺すが、あまりの激痛に失神。半日間死線を彷徨うが後に復活。
・手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って重傷なのに数夜這い続ける
・重傷なのに前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。

・ちなみにこの時までの負傷は大小24箇所。
・左大腿部裂傷・左上膊部貫通銃創2箇所
・頭部打撲傷・左腹部盲貫銃創

さらに
・右肩捻挫・右足首脱臼・火傷
・全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片
・でも敵を目の前にして「立ち上がり」、発見した米軍は激しく動揺。
・手榴弾片手に米軍に向かって全力疾走。
・残念ながら首を銃撃されて昏倒する。もちろん米軍は戦死と判断。
・一応は野戦病院に担ぎ込まれ、「これが日本のサムライだけが出来る勇敢な死に様」と評価される。
・そんな船坂は3日後に米軍の野戦病院で生き返る。
・素早く周囲の医療器具を叩き壊し、駆けつけた鬼より怖いMPに「俺を早く撃ち殺せ!」と無理を言う。
・その後も顔面蒼白の米兵を尻目に暴れまわる。
・戦地アウンガルにいる米兵の間で「伝説」と化した。
・敵ながら勇気を称えられ「勇敢なる兵士」の名を贈られる。
・数日後、ペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。
・船坂の最強伝説はペリリュー島まで伝わっており、要注意人物の筆頭に挙げられる。
・瀕死の重傷なのに収容所から抜け出すことに成功。
・この時、極度の栄養失調に加え出血多量により、両目はほとんど見えていない。
・なのに1000メートルも潜んで行って日本兵の遺体から抜き取った火薬によって、米軍弾薬庫を爆破。
・爆破後に収容所に戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼に参加。
・もちろん米軍は徹底的な捜査をしたが、弾薬庫が吹き飛んだ原因は判明しなかった。
・仕方がないので米軍の公式記録には「原因不明の爆発」と記される。
・耐えかねた米側に捕虜収容所を追い出され、各地の捕虜収容所を転々として1946年に無事帰国。
・実家に帰ってきたが、すでに死亡したとされ位牌まであった。
・村の人々は幽霊ではないかと噂し、しばらくの間疑いの目で見られる。
・個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられている。

死没 2006年2月11日(満85歳没)
本当にサイボーグかと思う、凄すぎて合掌ですw