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「世界インフレの謎」(著者:渡辺 努 発行所:講談社現代新書)
- 世界インフレはウクライナ戦争以前に始まっている(はじめに)
「世界インフレの謎」の著者は、2023年6月に政府が策定する経済財政運営指針「骨太方針」の策定に向けマクロ経済運営を議論する、経済諮問会議メンバーから選ばれた8名の特別セッションの一人です。日本銀行出身の金融政策の専門家です(東大大学院教授、キャノングローバル戦略研究所研究主幹)。
大規模データによる経済分析を得意とする著者の「世界インフレ」の分析を是非知って頂きたい思いで紹介本を採りあげました。
世界のインフレの動きをコアCPI(食品とエネルギーを除く消費者物価指数/日本はコアコアCPI)を見てみましょう。
【図表1】から分ることは、日本を除き、アメリカ、イギリス、ユーロ圏のコアCPIについて同じ動きを確認できます。それは2021年半ばからインフレが起こっていることです。2022年2月のロシアのウクライナ侵攻以前からインフレが起こっているのです。ウクライナ侵攻の影響は若干みられるものの、一つの要因ではあっても、本質的な要因ではありません。
著者は、世界経済の代表とも言える、アメリカに焦点を絞り、著者のデータ(【図表2】「米国のフィリップス曲線」)と「フィリップス曲線」理論に基づき、「世界インフレ」の要因を探索しています。著者の探索のプロセスを見てみましょう。
【図表2】「米国のフィリップス曲線」は、縦軸にインフレ率(コアCPI)横軸に失業率を置き、2007年1月~2020年12月を●印で、2021年1月~2022年5月を■印でプロットしたものです。
【図表2】は重要なことを示しています。それは、2007年1月~2020年12月の168個(14年×12ヶ月)の●印は、『2.1%-0.083×失業率』で表される「フィリップス曲線」理論の点線の直線の範囲で変動していることが判ります。即ち需要が上がり景気が良くなれば失業率が下がる、一方需要が下がり景気が悪くなれば失業率が上がる「フィリップス曲線」理論通りに動いていたのです。
しかし、2021年1月~2022年5月の17個(1年5か月)の■印は、3個(2021.1~2021.3)を除き「フィリップス曲線」理論の点線直線から大きく外れている事が判ります。従来の「フィリップス曲線」理論の動きに沿わない、何らかの要因がコアCPIを動かしていることが判ります。
著者は「フィリップス曲線」理論を「インフレ率=インフレ予想-a×失業率+X」の数式で現し、このXを「ファクターX」と呼び、Xが大きければ「フィリップス曲線」理論から外れた動きになるとします。このXの解明が、「世界インフレの謎」を解くことになります。
それでは次項で『「ファクターX」は何か』を見てみましょう。
- 「ファクターX」はコロナの世界的な感染拡大(パンデミック)の後遺症
著者は、過去のパンデミックの検証(100年前のスペイン風邪)など、様々な仮説・検証をし、2021年4月から起こっているインフレの要因「ファクターX」について次の様に結論付けます。
『ロシアのウクライナ侵攻と資源高は本質ではない。2022年2月の侵攻より前からすでに米欧でインフレが進んでいた。その本質は新型コロナウイルスのパンデミックの後遺症だ。これは「①個人消費がサービスからモノにシフトした」「②感染拡大で職場から離れた労働者が戻ってこない」「③グローバル化の反転-供給網の機能不全-」の3つの事象に集約できる』と。
この3つの事象のキーワードを見てみましょう。「突然」「恐怖心」「同期」「SNS等の情報通信の進展」「供給不足」です。パンデミックという「突然」のことが、「SNS等」により「恐怖心」が国内は勿論、世界中に「同期」して拡大し、「モノにシフト」「労働者の大離職」「都市封鎖による供給網の機能不全(生産・物流の停滞)」が発生し、「世界経済全体の需給の不釣り合い(供給不足)」をもたらし、インフレに繋がったのです。
三つの事象について、以下で詳しく見てみましょう。
【個人消費がサービスからモノにシフトした】
【図表3】と〔補足資料3-①、3-②〕を見てください(ここをクリック)。
【図表3】は、コロナのパンデミックが始まった2020年1月から2022年3月の間の、サービス消費が4%減り逆にモノ消費が4%増えたことを示しています。
つまり、過去のサービス消費比率の拡大に終止符を打ちモノ消費比率が大きく伸びた変容を、〔補足資料3-②〕ではおぼろげにしか見えない変容を、つまびらかにしたのです。
この消費行動変容による、モノの需要増に伴う供給が追い付かず、異常インフレとなったのです。特に、〔補足資料3-①〕が示す通り、耐久財需要が著しく増えたのです。その例としては、パンデミックへの恐怖から、スポーツ・ジムを退会し自転車を購入して体を鍛えた例、在宅勤務の急増に伴う耐久財需要増などを挙げることが出来ます。
【感染拡大で職場から離れた労働者が戻ってこない】
最近のアメリカの労働市場に異常値が出ています。それは、インフレ率を上げても失業率が下げ止まる失業率の最低ラインNAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment:自然失業率=完全雇用下における理論的失業率)の理論が通用しない事態が起こっています。アメリカではNAIRUは4%とされていましたが、2023年1月の失業率は3.4%と大きく下回ったのです。
この異常値の背後にあるメタは、著者が指摘するパンデミックの「後遺症」である「大退職(Great Retirement)」と呼ばれている事象です。
【図表4】と〔補足資料4-①、4-②、4-③〕を見てください(ここをクリック)。
パンデミックの「恐怖心」などが労働者に広がり、労働者の「大退職」が起こります。米国非労働力人口(職を求めない)が、コロナ前の2020年2月は9505万人でしたが、コロナ直後の2020年4月には1億354万人と849万人増加します。しかし、コロナが落ち着いた2022年5月は約9930万と425万人が戻っていないことが分かります。OECDでも同様な傾向がみられます。【図表4】と〔補足資料4-②の「参考資料」〕参照。
また、労働参加率からみた場合、264万人(1.0%)が非労働人口に留まったまま戻って来ないと試算できます。〔補足資料4-②〕参照。
この事象が、失業率の異常な低下、労働市場の逼迫、賃金の上昇を招き、インフレの要因となっているのです。
著者によれば落ち着くまでは相応の時間を要するとしています。労働市場の落着きは、求人件数と採用件数の「GAP」が200(万件)を下回ってからでしょうか。注目したいです。〔補足資料4-③〕参照。
【グローバル化の反転-供給網の機能不全-】
この事象は、中国を主として起こっています。ゼロコロナ政策による都市・職場封鎖により生産・物流の停滞と供給網の不全が起こり、世界的にサプライチェーンの停滞を起こし、製品の減産と価格の上昇を引き起こしたことは周知の事象です。
「突然」起こったことは、一般的には、時の経過で落ち着いてきます。しかし、「グローバル化の反転」の再発を恐れ、米企業の92%の企業が数年内に「リショアリング(生産拠点の米国内または近隣国への移転)」を計画している(A・T・カーニー調査)ことなどを考慮すると、パンデミックの終息後も以前のトレンドに戻ることは難しいと思われます。
- 日本がデフレから脱却するチャンス-失われた40年からの脱却-(むすび)
「世界インフレ」のメタが良く判りましたね。著者は、「世界インフレ」の波が日本に押し寄せている今こそ、デフレ体質から脱却するチャンスと力説します。
まずは、名目賃金を上げ、その後実質賃金を上げ、好循環経済社会を実現することです。特に、実質賃金を上げる(賃上げと同時に生産性を上げる)ことを可能にするのは経営の力です。経営力による生産性向上の例:伊藤忠が「朝型勤務制度」の採用により2021年度の労働生産性を2010年度比5倍に(2023.2.26日経電子版)。
【酒井 闊プロフィール】
10年以上に亘り企業経営者(メガバンク関係会社社長、一部上場企業CFO)としての経験を積む。その後経営コンサルタントとして独立。
企業経営者として培った叡智と豊富な人脈ならびに日本経営士協会の豊かな人脈を資産として、『私だけが出来るコンサルティング』をモットーに、企業経営の革新・強化を得意分野として活躍中。