12月25日、クリスマスです。
今日のソワレが私の最終観劇になりました。数人の友人に勧めて、成り行き上?自分も付き合ったとはいえ、数え上げると10回。よくもまあ通ったものです。何度も書きましたが、決して後味の良い内容ではないのに、何故かまた観たくなる。2013年の締めくくりに相応しい、深い思索の機会を与えられた舞台でした。
上川さんファンの私としてはもちろん!ずっと期待していた「まともではない」難役・恐ろしいばかりの脚本を見事に演じ切って見せてくれたことに感謝、感謝ですし、浅丘ルリ子さまの圧倒的な存在感、舞台上で演じ分ける女性としての様々な表情、感情表現の豊かさ、美しさにはただひれ伏したい思いです。そして脇を固める素晴らしい配役の方々、特に今回初めて生の芝居を拝見した演者の方々への新鮮な感動も忘れがたく嬉しい経験でした。
今思えば、往々にして世間で言われがちな「翻訳劇の違和感」は全くありませんでした。むしろ埋もれてしまっていた「誰の中にもある」かつての記憶や経験を、彼らがお芝居というナイフで見事に捌き、えぐり出してきたことにも大きな衝撃を受けました。多分これが一番大きなインパクトではなかったかと思います。
まだ傷痕がパックリ開いて血を流しているような状態ですが、今まで書かなかった雑感をまとめて、今年の最後の投稿にしたく思います。
なお「今日の公演」の振り返りにしない理由ですが、25日夜公演単体での感想は、座席の位置が余り良くなかったせいもあり(ステージに近い前方最下手)本来のお芝居の半分くらいしか感じ取ることができなかったこと、東京公演が始まってある程度時間がたったせいか?「粗くなってきた」と感じる場面が増えたこと、そして台詞のミスとか細かな所に気付いてしまう自分自身の「慣性」に「多分今日あたりで打ち止めが一番いい」これ以上観ると感動よりも粗探しになってしまったり、自分の中での最高の演技だった回の残像と比べてしまうのが出てくるに違いない、とも思ったからです。←これは同行した友人も同じことを言っていました。しかし逆に言えば700席程度のシアター1010やクリエと、1500から2000人収容の市民ホールでの公演は全く別物でしたし、中規模劇場ならではの距離の近さ・居心地の良さや、同じ台詞・シーンでも間のとり方やタイミング、言う雰囲気や表情が違うと「あれ?」と感じることもあって、それが私自身の心象風景に投影されるとさらに違う印象を生み出す、まさに「毎回違う」という意味では面白い経験でした。
それは別として、何よりも1ヶ月の濃密な時間を共にさせていただいたこと、心から感謝申し上げます。カーテンコール3回目、ルリ子さまに手を振ったら振り返してくださってとても嬉しかったです。1ヶ月間密度濃い時間を過ごすことが出来ました。
これで今年の舞台納め。上川さんにも、カンパニーの皆様にも、心から感謝申し上げますm(_ _)m ありがとうございました。
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渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~ 日比谷編(2)
(雑感)
※以下、ごく個人的な感想や連想です。
≪ハトの声と羽ばたきの意味するもの≫
開演前~第一幕冒頭。潮騒に交じり、窓辺に集まっているらしいハトの声が間断なく続いている。時折、羽ばたきの音がする。
不協和音のような効果か、それとも姿は見せないが観客と同じようにチャンスやアレクサンドラたち「登場人物」を高みから見下ろす存在としての暗示か。ハトはキリスト教で三位一体の聖性を表すシンボルでもある。この戯曲がアメリカ南部のキリスト教(プロテスタント)的な価値観、いささか古風な「純潔」への拘りなど、宗教的な側面も持っている以上、ハトたちが「舞台を見下ろす第三の眼」としての役割を与えられていたとしても、不思議ではない。
第一幕・第一場でフライが口にしたように、折しもその日は「復活祭の日曜日」――通常「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」であるから、おそらく季節は3月末から4月中旬。メキシコ湾岸の都市ならば昼の日差しは既に暑いと感じる程だろう。
この「復活祭」という場面の設定にもテネシー・ウィリアムズの意図を感じる。主役の二人を見ると明白だ。かつての大女優、引退、衰えかけた容貌…その現状からカムバックを試みて失敗した女、そして「美貌とそこそこの才能を元手に成功を掴みかけていた」俳優の卵、色あせた夢を再び現実のものとし、かつての恋人と成功を手に入れたいと願う男。「復活しそこねた女」「復活を願う男」この取り合わせが過ごす一日が「復活祭の日曜日」なのだ。
ハトの声と羽ばたきは他の場面でも象徴的に現れる。第一幕、アレクサンドラに「しゃがれた声、まるでカモメ」「風邪っぴきのハトかしら」と揶揄されるシーン。客観的に見れば、酒と薬が抜けきらないフラフラの彼女こそまさに「風邪っぴきのハト状態」だというのに。
第二幕では夜ということもあり、存在は薄くなるが、ヘヴンリーががっくりと崩れ落ちてうなだれるシーン、急に飛び立つハトの羽ばたきは観客と彼女の意識を「ここにはいない」チャンスのもとへといざなう。ヘヴンリーが不安げな瞳で羽音を追った先が、破滅の舞台であるロイヤル・パーム・ホテルだ。
姿を見せない「第三の眼」が、唯一劇場中の視線を集める場面は最終局面になる。羽ばたきの音とともに、四~五片の雪のような羽毛が天から舞い降りるシーン。照明が白々と照らす中、アレクサンドラもチャンスも、目の前に迫る破局を忘れたかのように暫しその非現実的な情景に見入る。これが「復活祭の日曜日」最後の締め括りになる。
ハトは何かを見届けたのだろうか?荒野で苦行を終えたキリストが、悪魔の誘惑を退けた後、聖霊は白いハトとなってその許に下ったという。だが、神の救いは二人の前には現れなかった。「神に力を借りてでも」と祈ったチャンスだったが、ヘックラーの台詞を借りるなら「神の沈黙はまだ当分続く」――ボス・フィンリーの言葉もそうだが、人間がいかに神という存在を都合よく自分の為に利用するのか、その顛末を見届ける役目を、テネシー・ウィリアムズは「皮肉を込めて」ハトに託したのかもしれない…と思う。
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≪差別と偏見・ヘイトスピーチ≫
『渇いた太陽』は1964年の公民権法制定以前の南部諸州における空気感、政治的状況を伝える舞台でもある。南北戦争以前は「奴隷制度=合法」だったジョージア州やアラバマ州、ミシシッピ州などの南部諸州では、居住や社会的生活の場を分ける「区別=平等」を隠れ蓑にした差別は根強く、KKKなどの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、黒人の営む商店や店舗、住居への放火も行われた。さらにKKKと同じような志向を持つ警察による不当逮捕や、裁判所などによる冤罪判決などが多発したという。
観客からすればギョッとする「黒人青年への去□事件」も、要はリンチである。矛先は黒人に同情的であったり、リベラル派の白人にも向けられた。ヘックラーは白人という設定だが、やはりこの犠牲になっている。まして、上流階級の白人ばかりが集うホテルに勤務するフライのような黒人スタッフの心情は、細やかな視線の震え、怯えた表情、怒りを表面に出せないもどかしそうな仕草などでわかりやすく表現されている。孤独感、恐怖、口を噤み、見ないふりをすることしかできない…冒頭に明るい声でチャンスに話しかける(叱責されシュンとしてしまうが)彼に比べ、第二幕での姿は別人である。
これと対照的なのがバーテンダー・スタッフで、ボス一派には従順だが、フライを嘲笑ったり、ルーシーに対する「ボスの愛人としての立場」にも物言いたげ、チャンスへの軽侮を隠そうとしない(これはチャンスの自業自得でもあるが)態度など、水面下に潜む負の感情の種はあちこちで目を出していく。それでもヘックラーを殴れと命令されて一瞬戸惑うあたりは、意外に彼も「小心者」なのかもしれない。
むしろ私にはバッドとスコッティー、この二人の方が恐ろしい。直前のシーンまで「よき夫」「お堅い職業についている、社会的にも相応に認められた」側の立場を代表していた二人が、表情も変えずに同じ白人の男を痛めつける。この落差と事実は、21世紀の私たちにも同じことが言えるのではないだろうか?「人種差別は、宗教上の理由からでもイデオロギーでもなく、ただ単に生活上の不都合から生まれる」と書いた作家がいたが、このシーンを見て、昨今我が国で起きているヘイトスピーチ・排斥デモなどに「根っこの部分でのつながり」を考えてしまったのは、決して行き過ぎではないと思うのだが。
全てをくわえ煙草で冷たく眺め、鉄棒を突きつけチャンスを威圧し、ヘックラーに止めを刺すトム・ジュニア。明日は我が身だ、と震え上がるチャンスには目前の暴行を止める力も術もない。堪らず逃げ出す情けないその姿も、上からヘヴンリーにしっかり見られているが、もちろん当人は気づくような余裕はないだろう。残忍な芝居はもちろん、照明やSEといった演出効果(深作健太氏らしいと言うべきか)も相まって、しばらく脳裏から離れないほどに強烈なトラウマシーンだった。
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≪チャンスのその後≫
あれからどうなったのだろうか?実は余り考えたくない。
あそこで物語の時間軸を止めてくれたこと(演出)で、何とか救われている自分がいるから。
「同じ男を二度去□することはできないさ!!ぼくはもう、今朝貴女によって□勢された…このベッドの上で!!大女優の、貴女に!!」
「ぼくは貴女の荷物じゃない」「じゃあ何だっていうの?!」「さあ?でも、ぼくは貴女の荷物なんかじゃない」
この台詞の解釈も観た友人たちとの間では(もちろん男性と女性双方でも)ずいぶん意見が分かれたが、はっきり単独の解答などないのかもしれない。自由に生きることはもうできない。金と色で飼われること受け入れず、第二のフランツになることを拒絶したところで、その先にも未来はない。それでもなおチャンスは「南部の男」としての最後の矜持を突きつけて、自らに引導を渡したのかもしれない。
友人は「チャンスは自分の『何物でもなかった』人生を受け入れて、ヘヴンリーに対して犯した過ちを償うために目前の死を受け入れている。トム・ジュニアに自分を殺させることで、彼の憎悪と絶望にひとつの解を与えようとしている」と読み解いていた。それも理解できる。
ラストシーンに至る芝居で「チャンスが既に未来を失っている」ことは痛いほどわかったし、他ならぬ彼自身が「諦めてしまった」のも、肩を落としうなだれる姿や、醒めた静かな口調で伝わった。「まだ間に合うわ」と腕を掴まれても、「ありがとう、アレクサンドラ。でも…いいんだ」と呟く声と眼差しの何と優しいことだろう。でもそれは、燃え尽きた灰に残された温かみでしかなく、いずれは消えるもの。それだけに、愚かで浅はかな男の末路、当然の帰結とはいえ、何とも切なく哀しく気持ちを震わせる。日比谷公演では(その気持ちが伝わったかのように)アレクサンドラの瞳に涙があふれるのが印象的だった。
正直、今日の公演では「お願いだからもうやめて!」という思いが強く、自分でもキツいなと観ながら感じていた。それは芝居の変化でもあり、上川チャンスの壊れっぷり、そこに引きずられるかのように粗くなる舞台、自分の受け止めるキャパシティ、いろんなものが「オーバーフロー」だったのだと思う。
もう少し落ち着いてから、そして取り寄せ中のテネシー・ウィリアムズによる原作戯曲が手元に届いてから、ゆっくりと芝居そのものを紐解いていきたい。
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追記。
煙草を吸わない自分には多少紫煙が気になりましたが、第二幕、アレクサンドラの登場とともにふわりとコロンの香りが漂ったのは、さっと新鮮な風が吹くような思いがしました。演者の纏う「香り」って、雰囲気だけでなく物理的にも存在していたんですね。
追記2。
ラストシーンの二人のモノローグは録音したものが流れますが、あの声は公演期間中に一回録り直していると確信しています。明らかに違う間の取り方(「…それはもう、僕じゃない」のもう、の後の間とトーンの落とし方が全然違うインパクトだった)だけでなく、程よく舞台涸れした声のトーンにして、それまでの芝居との違和感を軽減してると思います。
北千住で初めて(おそらく稽古中に録音されたであろう)あのモノローグを聞いて、それまでの芝居声との差(役作りの加減や温度差…という意味合いです)に「あれっ?」と思ったのですが、日比谷の声はそれがなかったのが大きな違いでした。
※年が明けてから、改めて振り返りを書き足します。
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