徒然草庵 (別館)

人、木石にあらねば時にとりて物に感ずる事無きに非ず。
旅・舞台・ドラマ・映画・コンサート等の記録と感想がメインです。

渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~ 日比谷編 (1)

2013年12月23日 | 舞台
  

≪ラネーフスカヤとアレクサンドラ≫
日比谷凱旋公演の前に、2012年の舞台『櫻の園』(チェーホフ原作/三谷幸喜翻案・演出)をWOWOWにてさらっと視聴しました。『渇いた太陽』以外での浅丘ルリ子さんの舞台のお芝居を目にすることで、アレクサンドラという役柄や彼女自身から受ける印象、ひいてはお芝居の解釈が少し多角的になるのでは、と期待したのが理由です。

(余談だが、私が子ども時代TVで見ていた「リリーさん」は、あくまでもリリーさんである…中の人などいなーい!笑)

戯曲の持つ喜劇的部分を三谷氏が敢えてクローズアップしたという(従来の「斜陽貴族の退廃と美しさ」メインとはちょっと違う…らしい)前売文句もあり、台詞は露骨に笑いを取りに行っている感が。どこまでも噛み合わない滑稽な人間関係に笑う悲喜劇としても、うーん…まあまあという感じでした。

それでも、女地主ラネーフスカヤ役のルリ子様はやっぱり「ああいう役」が似合う…と言いましょうか。決して「同じタイプ」という意味ではなく、美しくて、どこか浮世離れしていて、現実感覚がなくて…でも何とも言えずコケティッシュでとても魅力的、愛らしくて人を惹きつけずにおれない、いや放っておけない。自宅と荘園が売り払われ、成金に買われたと知って椅子に座り込み、身動きすらせずに美しい瞳から声もなく涙を流す姿。周りのドタバタぶりの中で、そこだけが静謐な絵のようでした。クラシックな20世紀初頭のパリ風ドレスが本当によくお似合いになるのは言うまでもありません♪←憧れますね。

アレクサンドラの持つ「自立性」「したたかさ」「強さ」とは対極にありますが、根本にある演者自身の持つ「香りのような空気感」が、ラネーフスカヤにも確かにありました。そして、浅丘ルリ子さんという女優さんに対する畏敬の念を強くしたのでした。


◆   ◆   ◆


さて、本題です。
日比谷の初日と二日目、合計3公演を観てきました。
感想の前に今回の「舞台チェックコーナー」!
使われた楽曲を分かった範囲で紹介します。(刈谷公演メモからの転記含む)


◆冒頭&ラストのシーン
『Deborah's Theme』エンニオ・モリコーネ
http://www.youtube.com/watch?v=_3UTb34_3JQ
※映画『Once upon a Time in America』より

◆チャンスとアレクサンドラのラブシーン
『Moonlight in Vermont』
http://www.youtube.com/watch?v=CwyZyDD6Yqw


◆チャンスがヘヴンリーとの思い出を語る場面
『Deborah's Theme ~ Amapola』
http://www.youtube.com/watch?v=PzB-Vif9nUc
※同じ『Once upon a Time in America』サントラの一曲ですが、OPとは違うバージョンです。


◆チャンスとノニーが歌った映画の歌
『I like You』
(『The Man with Two Brains』より)
http://www.youtube.com/watch?v=Bq5vt_KUj5o
(歌詞)If you like-a me, like I like-a you and we like-a both the same.
I like-a say this very day, I like-a change your name…♪


◆チャンスがバンドに演奏させた歌
『It's A Big Wide Wonderful World』
http://www.youtube.com/watch?v=IKqmHui9LtQ
(歌詞)It's a big wide wonderful world YOU LIVE IN
When you're in love you're a master
Of all your survey you're a gay Santa Claus…♪


◆第一幕ラスト 
ルイ・アームストロングが歌っています。曲名を教えてくださった方に感謝です^^
『On the Sunny Side of the Street』
http://www.youtube.com/watch?v=lRsreijPClY



個人的な想像ですが、この劇中に使われている曲はすべて戯曲の舞台である50年代以前のもの。元の映画などで触れたことのある観客には、単なるBGMではなく、付随して当時の記憶や思い出までも引き出す「仕掛け」として敢えて選んだのではないか、と思っています。その「一人一人の持つ時間の記憶」が、舞台の持つ力を正負どちらにも増幅し、観る側に跳ね返ってくる…そんな気がします。



◆   ◆   ◆



『渇いた太陽』日比谷公演開幕

刈谷公演から2週間。
チャンス・ウェインが!アレクサンドラ様が!東京に帰ってきました!!

戻ってきた舞台『渇いた太陽』は大きく変化していました。
それは演出面でもあり、キャストのお芝居でも言えることです。

一言で言うと、より輪郭線のハッキリしたキャラクターたち。一幕、二幕でそれぞれの抱く感情を、所作や台詞の追加によってさらに際立たせていました。観る側にとって「よりわかりやすい」演出に変化したことはとても大きく、それによって台詞や行動、人物の心情が全てなめらかにつながるような心地よさがありましたし、演者のみなさんが「役をすっかり肌になじませた」リアルな登場人物として舞台上に存在している!ことへの感動もあり、舞台を磨き上げてきた「ひと月という時間」に改めて感慨を深くしました。

芝居空間としては、開けたばかりのボトルのワインが時間をかけて緩やかに花開いていくように深みが加わり、まさしく上質な酩酊感。じわりと頭に染み込む台詞もあれば、鋭く胸に突き刺さる言葉もあり、それぞれが一ヶ月の時を経て素晴らしいクオリティーの舞台空間に昇華しています。特に第一幕はこのままずっと酔っていたいほどの濃密さ。瞬きを忘れて見入っているせいか、場面とは関係なく時折涙が滲むほどです。そして「切れ味を増したナイフ」のように、観る側の心を切り裂く芝居にもなっていました。

日比谷で「明確な変化」を感じたポイントを覚え書きしておきます。
(あくまでも個人の主観ですので、感じ方は人それぞれと思いますが…)


≪参考 過去記事リスト≫
渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~ (1) @北千住
渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~ (2)
渇いた太陽 ~Sweet Bird of Youth~ (3) @刈谷



・チャンスの声!さらに若返っていました。もちろんこれまでも上川隆也さんは実年齢が信じられないくらい(!)全く違和感のない「20代後半と思しき青年」像を演じていたわけですが、さらに尖った危なっかしさを感じる若さです。大声もさらに輪をかけて大きくなっていて、それによって、滑稽さや痛々しさも増し、時々見せる「静」の表情の陰影を深く濃いものにしていました。

・アクションも輪をかけて大振りになり、芝居中に何度か聞かれる「手が震えているんですか?」の場面では、ちゃんと手が震えている。前はそこが弱かった。(動きや空気が距離を置いた客席にも伝わるように演技されているという意味です)飛び跳ねたり叫んだり蹴飛ばしたりする仕草は3割増しくらいのオーバーアクションではなかったかと。酔っぱらいのふらつく足取りは二幕を通じてのものになり、ピルケースを振る神経質な仕草、酒を飲んでむせる様子、アルコールと薬物に侵された彼の「危険な状態」こいつヤバイぞ…という黄信号が、分かりやすいアイコンで強化されていました。

・北千住ではまだどこかに「地面に足がついている」片鱗を残していたチャンス・ウェインでしたが、日比谷に戻ってきたチャンスはもう「手が付けられないくらい」バランスを崩した、自分だけの空虚な夢を諦め切れない弱い男そのものでした。そのリアリティたるや、観ていていたたまれず目を背けたくなるほど。

・チャンスについては北千住・刈谷と決定的な外見の違いも。「カラーコンタクト」!ポール・ニューマンのガラス玉のような青い眼も印象的でしたが、まさに渇いた空のような淡い虹彩、少し赤くなった眼、照明を浴びて病的なまでの熱を持ったその眼に「壊れていく」チャンスの精神を覗き込むような気分になりました。

・アレクサンドラがチャンスに惚れかかっているのを自覚していく過程を台詞や所作で分かりやすく第一幕の最後に持ってきていました。第二幕の再登場まで数十分姿を消している間、私たち観客が彼女のチャンスの帰りを待ちわびる心、切なさ、心細さ…そういった「女心」をより容易に想像できる、そんな気がしました。

・第二幕で共通しているのは、新しく出てくる登場人物が「誰なのか」を台詞中に織り込んできたこと。例えばヘックラーの登場シーンも、以前ではこの大男が(名前の出ていた)あのヘックラーである、とは示されていませんでした。名指しすることで、観る側に刷り込まれる効果があったと思います。

・同級生たちとの再会シーン。今までは「ほぼ空気」だった妻2人、ヴァイオレットとエドナに台詞と動きを加えて、夫との関係性や彼女たちが抱くチャンスやルーシーに対しての感情を形にして見せていました。バッドやスコッティー、スタッフにしても同様で、口論になる寸前にはカッとする表情や布巾を投げ捨てる所作が加わり、短い時間で変化していくそれぞれの感情が明確で説得性のある演出に変わっていました。ホテルのボーイ、フライの芝居もそれに伴って(白人である同僚)スタッフとの関係性、彼の表に出さない感情が一瞬だけ表に吹き出すシーンなども「大きく見せる」変化がありました。

・スカッダー医師が登場人物たちと交わす会話も、ハッキリと「相手によって微妙な温度差」を持っていることが分かってきました。ボスには丁寧な口調、トム・ジュニアに対してはやや上から目線に近い(不遜な)嫌味を込めた言い回し、チャンスに対してはより複雑で、しかし容赦のない物言い…相変わらず鉄面皮ですが、少しその下の感情や計算高さが見えてきたように感じました。

・ヘヴンリーのフワフワとした存在感は変わりませんが、籠の中で叫ぶ傷ついたカナリアのような痛々しさは、ボス・フィンリーとの長い二人芝居の時間でひしひしと伝わってきました。ボスのお芝居が「コミカル」と「恐ろしさ」の二極性がハッキリしたものに深化し、実際の大きさ以上に「圧倒的な支配」を体現しているせいか、その気味の悪い存在の前に一人立つ彼女の怯えや絶望感が際立つ効果も。ボスの持つただならぬ雰囲気は、コミカルな口調だからこそ深みを増すなあ…とハラハラ見守っていました。

・ミス・ルーシーは「男前度」を落として「ハスっぱ度」を上げた印象に。声もきゃあきゃあ高くなり「ミーハーな女の子」といった雰囲気です。もともとが愛人役ですし、軽い女…という印象は強くなりましたが、その分後半で見せる真摯な言葉が重みを増す、という相乗効果もあったかと。←私は前の「男前な」ルーシー好きだったんですけどね…どちらが芝居の中で相応しいか?だと日比谷版なのかもしれません。

・ヘックラーも、これまでは普通の登場だったのが「その前の数週間の演説会でボコられている」という設定通り、喉を痛めた、という台詞だけでなく、少し足を引きずっていたり、ズボンの膝に傷がついていたり、小さなところに説得性を持たせようとしていました。

・ダン・ハッチャーの「ウェイン!」と呼びかけるシーン、薄々感じていたのですが、ホテルがゲストの名を呼び捨てにすることはあり得ません(フライの言動がいい例)…この瞬間「ホテルが宿泊客(この場合はチャンス)に対する庇護をしないと宣言した」のかな…と。アレクサンドラに対しては脅迫まがいながらもまだ敬意と節度を持って接していますが、他ならぬホテルの副支配人が「襲撃者」をチャンスのもとに案内してきたわけですから。この直前にスタッフに電話をかけるのもおそらくハッチャー。彼は彼なりに支配人の座を狙ってボス一家の歓心を買おうとしていた、なんて背景も考えられるかと。

・トム・ジュニアは一番「存在そのものが一回り大きくなった」気がします。同行した友人とも「パンフのインタビューに書いてあったけど、あれは悪役じゃない」「妹を愛する心優しい兄、ってちゃんと伝わってくる」「チャンスが最低なだけに、彼に共感してしまう」と絶賛…爆発するマグマのような憎悪、怒り、絶望、ナイフを手にした時の「狂犬のような」ギラギラとした眼差し…強烈な存在感です。日比谷公演、彼が出てくるシーンは目が離せませんでした。

・アレクサンドラとサリーの電話の場面では、重くなった空気を多少軽くするためか、チャンスの動作や周囲でバタバタする仕草、チャンスがアレクサンドラに叩かれるシーンに加えて手首をひねりあげられ情けなく悲鳴を上げるというコメディ要素も。シーン全体のバランスが良くなった気がします。


◆   ◆   ◆


ラストの「破局」に至る独白、そしてあの印象的な幕切れの台詞。アレクサンドラの「私、もう行くわね」が「私、もう行くわ」になったこと、声音が変わったことで、シーンのニュアンスが変わりました。
燃え尽きたようなチャンスの表情、それでも最後に「僕はあなたの荷物なんかじゃない」というプライドの欠片を投げつける姿。震えて立ち尽くすアレクサンドラの頬に伝う涙、チャンスの空色の瞳が映す狂熱と、絶望に満ちた声。こちらが直視するほど、狂気に囚われてしまうそうになる、封じ込めていた感情や記憶を炙り出されそうになる、心の準備をして立ち向かわないと、深淵に引きずり込まれる、そんな恐怖すら感じました。



僕はあなたの同情を求めたりなんかしない。
ただ、理解してもらいたいだけだ。

いや――そうじゃない。

あなたの中にいる僕に気がついてほしい。
時間という敵は、僕たちみんなの中にいるんだ。




二日目のソワレが終わった時、軽い酩酊状態というか、またも「頭の芯、そして前頭葉のあたりがズキズキ痛む」あの感じが襲ってきました。(初日は衝撃でボーッとしてしまい、日比谷線逆向きの電車に乗ってしまいました…笑)北千住でも感じた「オーバードーズ」状態、今回は芝居自体の破壊力が増していたせいか「ちょっと危険な水域にまでダメージを受けてしまった」自覚が。

そして何より、この台詞の持つ意味合いが、芝居が変わったことでさらに深く重くのしかかるように感じて、眩暈に加え呼吸が苦しくなるほど。この重さ、そうだマチソワで観てはいけない芝居だった…と今更反省した所で、あとの祭りでした。
一緒に行った友人も終演後やはり黙り込んでしまい、日比谷の地下道をディナーの場所まで歩く10分ほどが長く長く感じました。(「このモヤモヤはなんだろう」と不思議な顔をしていて、私が「人生これまで山あり谷ありだった人ほど、あの舞台観て何か気持ちがザワザワせずにいられないと思う」と言いましたら「腑に落ちた!」と頷くなり、ボロボロッと泣かれてしまったのには物凄くビックリしましたが…泣かせちゃった…orz)


日比谷初日のカーテンコールで上川さんが「やり切りましたね!」とでも言うように渡辺哲さんの手を「ぐっ」と力を入れて握って、哲さんも「おう!」と答えるように頷いて力強く握り返す場面がありました。まるでお父さん…上川さんも嬉しそうな笑顔に!カンパニーの結束を感じました。
22日夜公演のカーテンコール2回目では、哲さんが繋いでいた上川さんの手を放してからニコッとして「ポンポン」と上腕部を叩いてねぎらっていました。上川さんも「ありがとうございます」というようにくしゃっと笑顔で頷き返すという…キツいお芝居の後だけに、心が少し癒される場面でした。
22日の昼公演は、小さな行き違い?がちょこちょこあって、少し気が散ってしまいました。珍しかったのは上川さんが台詞を噛んでしまった!ことでしょうか。第一幕のラスト、あと2分ほどで終わるという大詰めで「そんなのどっちだっていい!」→「そんなのだっだだっでいい!」思わず「え?今のは?!」珍しい、とザワつく幕間の観客席でした…(笑)


さて。
私の手元には、あと1枚だけチケットがあります。


もうちょっと個々のシーンの解釈について変わったこと、終演後に友人たちと話したことなどもまとめておきたいのですが、今回はここまで。あまり深く受け止めすぎるのはよくない、どう生きるかは人それぞれ、とルリ子様も対談でおっしゃっていましたので、これ以上深みにはまりすぎない程度に(苦笑)残された公演を楽しみたいと思います。




(蛇の足)
日比谷版、私が一番目覚ましボイスにしたかった台詞「お姫様!朝ですよ~~~!起きて!」の「朝ですよ~!」が削られてしまったのが悲しすぎる…・゜・(ノД`)・゜・まあ「あすなろ抱き」でゆらゆら揺すったりするのはツボなんですけどね。あの「朝ですよ~!」の浮わついた爽やかさ(笑)が良かったのにー!

(蛇の足 2)
僕はあなたの同情を求めたりなんかしない…と言う台詞。私はチャンス・ウェインと言う登場人物にこれっぽっちも同情する気はないですし、むしろ彼が周囲を傷つけ、身を破滅させたことはある意味「当然の帰結」だと思っています。しかし、そこに至る彼の狂気、愚かさ、浅はかさ、浮わついた情熱…どこか自分にもかつてあったのではないか、といつも感じてしまいます。日比谷公演では上川隆也さんの熱演で「チャンスの実在性」がとてつもなく大きく感じたので、こちらの受ける「古傷にナイフを突き立てられるようなダメージ」も大きくなってしまったのでしょうか。