昔、、
まあ今の季節柄、時代と言うのはあって、前の時代とは区別するがように進んでいるわけだ。え、まあ世と言うのはどの界隈をとっても繋がっている節があり、まあ僕が見ている今の治世柄から言えば、今の治世柄をとる
:仏さまが通ずる(運ぶ)道
これが、いざ良い見える。
お札(ふだ)と言うのがある。まあおんなのこたるやこのお札に関しては一方ならず、通ずることがあり、ただこのお札に関しても一位ならずただの通り過ぎるように得るものでもない。
例えばである。世に
;おんな使用人
そして、
:おんな主人
なるこれ方向を逆にとる2組の(おんなの)あり様があるならば、おんなとしてはこのどちらか一方のおんなのこと言うを目指し(取るべく)行き道を探す。まあ勝手にこの両方向の道筋で、為らず取り得るなんてのは不可能なわけだけれど、僕が上にこの書く、
:仏さまが通ずる(運ぶ)道
と言う遥かな道のりを選択、行き求むなら、(いや仏さまを通ずる道と言うは前代為らずものだ、、)それは決死の覚悟でおんなのこ道、これに精進せねばなる舞い。では、僕がどうもここ長岡(小千谷)地方にい、どう言ってあの烏帽子山(弥彦山)を北上、(東)北の方へ進路をとる、のではなく、僕は(まあ脇の町ちょい先の)中永トンネル付近の道を出雲崎方へ向かって、出るここは京の方へ西進む、まあ京(丸)の方角を求め、実際長岡(小千谷)の台地から進んでゆくのだ!とするなら、僕はこの行き先、ある方角ゆえのある自分ではない、もう一度京へ舞い戻ると言う選択、これをすることになる。どう言うことかと言えば、僕は今ある自分から要は前時代的に舞い戻る「おんなのこ」と言う自分へ、舞い戻りたい!と言うこう言う決心を持つ!
いずれ、これは僕が
:仏さまが通ずる(運ぶ)道
これを通じ進むとき、それは長々道筋を通す、’一体いつになるのやら、、・’と言うこれは途方に暮れそうになる、仏の道と言うのはあるものだ。一向に時間が動こうともせず、殆ど前にも進む果てもないけれど、いつか遥か前方に見える僕が京(丸)に見据える道、これはまあ今の自分の大想いになるわけだ。
宮中の片側に、ちょっとした小屋があり、中はちょっと鼻を突くような刺激臭が鼻を突く。僕は、探し物がある。それは、とある僕がここで探し求めるものなのだけれど、僕はその鼻を突く刺激臭の臭いに思い出す。
いざ!、では僕は、前項の
1、おんなのこの道(お月さま)
2、仏の道
3、???
と言う3つの道標で、
1、おんなのこの道(お月さま)
と言う道を追い求める。話す、僕が
3、???
と言うおもろ道はまた次回今度で。