彼は画廊に通い詰め、さくらんぼ
との「逢瀬」のひとときを過ごし
ていた。
そんな彼の姿に目を留めていたの
か、何か思うところがあったのか、
ある日、画廊のオーナーと思しき
人が彼に声をかけてくる。
美しく年を重ねたと思われる、上
品な初老の女の人。
「あの、その絵に何か、特別な思い
入れでもおありですか?」
「いえ、ただなんとなく、なんとな
く・・・・・いえ、なんと言えば
いいのかわからないのですが、この
絵の前に立つといつでも、心臓を
ぎゅっと鷲づかみにされてしまった
ような気持ちになって、離れられな
くなるんです」
思うがままを口にすると、彼女は
とても丁寧な指先で、本のページ
をそっと捲るようにして―――
言葉を差し出した。
「その絵を描いたのは、わたしの
母です。バイオリニストでした。
今は亡き母はその昔、深く愛した
人のことを想って、その絵を描き
ました。
愛し合っていたのに、事情があっ
て、別れを余儀なくされてしまっ
たようです。別れたくない、行か
ないで欲しい、お願いだから、も
どってきて、
そんな気持ちで彼を見送ったあと、
母はその絵を描いたのではないで
しょうか。つまり、そのさくらん
ぼは彼女のせつない恋心。
母の好きだった人は、おそらくわ
たしの父だと思います。が、その
ことを確かめるすべはないし、今、
どこでどうしているのか、生きて
いるのかどうかさえ、わかりませ
ん。
ふたりが別れた『事情』というの
は、戦争です」
彼女の背後で、チゴイネルワイゼ
ンのバイオリンが泣いてきるよう
な気がした。もしかしたら僕は、
彼女の母親が愛した人の―――
生まれ変わり?
彼はこれまで、そのようなものを
一度も、信じたことがなかった。
だが今は、信じてみようか、信じ
てみたいな、と思い始めていた。
画廊の外に出ると、あたりは瑠璃
色の夕闇に包まれていた。
曲がり角の手前まで来た時、ふり
返って、画廊を見た。ガラス窓
の向こうに、さくらんぼの絵が
あった。暗闇のなかで、なぜか
その絵だけが光に包まれている。
小さくなった絵は彼に「さよな
ら」と言っているように見えた。
次の日、彼が同じ場所にやって
きいた時、そこにはもう、画廊
も絵もなかった。何もかもが跡
形もなく、消えていた―――
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