周代の頃の支那では、北方の異民族を総じて狄と呼んでいました。方角である北を加えて北狄とも言い、恐らく元来は北方のとある民族の名称だったものと思われますが、やがて多分に通称として遊牧民そのものを指すようになりました。他の三方の異民族はそれぞれ南蛮・東夷・西戎と言い、四方を総称して蛮夷戎狄などと呼ぶこともあります。例えば今でも日常的に使われる「野蛮人」という言葉は、もともと南方の未開人を表したもので、 . . . 本文を読む
秦漢の長城が至って簡易式だったのは、まだこの時代には遊牧民の脅威と言っても突発的な侵入に限られていて、後世のように黄河文明の発祥地である中原が、長期間遊牧民に支配されるような経験もなかったので、基本的には国境を可視化したに過ぎなかったからでしょう。遡れば西周は首都鎬京に犬戎の侵攻を許し、時の幽王が殺されるという事態を招いていますし、諸侯の一人である衛公が狄人に殺戮された例もありますが、所詮それ等は . . . 本文を読む
蝗という虫がいます。但し常日頃から目にすることのできる固体ではなく、蝗単体で固有種という訳でもありません。世界中のどこにでもいるバッタ類が、生活環境や個体群密度の変化によって、孤独相から群生相に相異変を起こしたもので、通常のバッタ(孤独相)の飛翔能力が至って短距離であるのに対して、蝗(群生相)は長距離を飛行するのに適した容姿へと変形しています。この蝗が群を成して飛ぶことを飛蝗、その害を蝗害と言い、 . . . 本文を読む
東夷と並んで『魏志』に録された烏丸と鮮卑について軽く触れておくと、かつて秦末から前漢初期にかけて、支那大陸の北の平原に強大な勢力を張っていたのは、漢帝国にとって最大の外敵でもある匈奴でした。やがて漢の武帝が匈奴を駆逐し、北の国境はやや平穏になったものの、漢帝国が総督を派遣して匈奴の放牧地を支配した訳ではないので、依然として匈奴が遊牧民の中では最大の脅威であることに変りはありませんでした。やがて帝室 . . . 本文を読む
公孫氏討伐の総司令官である司馬懿は、(大尉という地位からすれば当然ですが)東夷には殆ど関っておらず、もともと明帝から司馬懿に与えられた任務は公孫氏の討伐であり、四万の軍勢もこの戦役のために編成されたものでしたから、景初二年の八月末に襄平が陥落して公孫氏が滅びると、戦後の処置を済ませて翌月には兵と共に帰路に着いています。従って内政では戦後の旧燕領を経営してその復興を担い、外交では東夷との折衝に当って . . . 本文を読む