
某月某日
「伊勢神宮と出雲大社」新谷尚紀著 講談社選書メチエ を読んでいるんだけど、漢字が多いし、難しい話なので難儀している。
その中に「蘇民将来」の話が出ていたのだが、それを読んで去年の夏に行った南知多の事を思い出した。
南知多の細い路地を徘徊していたら、各門戸に護摩符のようなものが張ってあった。
そこには確か「蘇民将来之子孫也」と書いてあった。
そのときはこれが何の意味かわからず、蘇民将来という名からして渡来人系の人の子孫の集落なのであろうかと勝手な想像を働かせ、札自体も検索で出てくるような立派なものではなく、単に門戸にペタッという感じで張ってあり、長辺15センチほどの小さなものであったの撮影はしなかった。
それがこの本の話から民間信仰である事を知り、また自分の行った場所へとつながった事に面白さを感じた。
Wikiでは伊勢志摩地方で盛んとあるが、知多半島など「お向かい」なので、こちらでも信仰が流れてきているのだろう。
まったく知らない事ばかりで、また本を読んだだけでは実感出来ない事ばかりあると恥じ入るお年頃である。
やはり知識とフィールドワークを兼ね揃えてこそ、「遊び」というのは楽しくなるのだろうと思う次第だ。
「伊勢神宮と出雲大社」新谷尚紀著 講談社選書メチエ を読んでいるんだけど、漢字が多いし、難しい話なので難儀している。
その中に「蘇民将来」の話が出ていたのだが、それを読んで去年の夏に行った南知多の事を思い出した。
南知多の細い路地を徘徊していたら、各門戸に護摩符のようなものが張ってあった。
そこには確か「蘇民将来之子孫也」と書いてあった。
そのときはこれが何の意味かわからず、蘇民将来という名からして渡来人系の人の子孫の集落なのであろうかと勝手な想像を働かせ、札自体も検索で出てくるような立派なものではなく、単に門戸にペタッという感じで張ってあり、長辺15センチほどの小さなものであったの撮影はしなかった。
それがこの本の話から民間信仰である事を知り、また自分の行った場所へとつながった事に面白さを感じた。
Wikiでは伊勢志摩地方で盛んとあるが、知多半島など「お向かい」なので、こちらでも信仰が流れてきているのだろう。
まったく知らない事ばかりで、また本を読んだだけでは実感出来ない事ばかりあると恥じ入るお年頃である。
やはり知識とフィールドワークを兼ね揃えてこそ、「遊び」というのは楽しくなるのだろうと思う次第だ。
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