3ヶ月続けて月間23冊の”読書”。
読書と言っても資料読みも含まれるので純粋の読書は半分ほどか。
写真に関する本は日頃読まないのだけど、”はずせない”本は”仕方なく”読んだりする。
写真について”考えない”のは、どうも写真を論じる人というのが写真を撮る事をあまりやっていない人で、写真に興味はないが写真を論じる事には興味がある人が多いからだ。
そしてその中身だが写真そのものを論じるのではなく、自分の思想を話したがる人が多くて、かつ多少下手でも写真を撮っていればわかるような事を「そうかあ?」と思うような筋で話したりする。
なのに世間では結構写真を撮る人も、そういう人の言う事を読んだりして、あるいは写真家の書いた文章や言葉を参考にしたがるのが不思議なのだが、なんかそういう”思想”が自分の写真撮影に役立つと思っているのだろうか。
たぶん多くの写真家は撮る時にはそんな思想的な事など考えていないと思うんだよね。
そんな事は常日頃にしているはずだから。
そうやってすっかり身についた考えで、撮影に挑むと思うんだね。
だからむしろ身につけるのは写真の事ではなく、社会の事や文化芸術の事、学問の事だと思うんだよ。
で、そんなわけで今更ながら
「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ
長島有里枝 著 大福書林
を買ったのだが、単にポイントが貯まったから今という感じではある。
1990年代に輩出された女性写真家たちをひとまとめに「女の子写真」とくくられた事への当事者からの異議申し立て。
なんだけど、ところどころで「んんんそうかなぁ」と当時を思い出して感じる部分があった。
当時個人的には興味を惹かない写真群だったけど、そういう女性たちが次々に現れる事は認識していた。
そういうジョシたちを某評論家を先頭に「女の子写真」と呼んだんだけど、文中の意見とは自分はちょっと違っていて、これまでの文脈から(写真脈か)評論できない連中が現れてとまどった末の命名であると個人的に思うのだ。
当時なら「新人類」とかさ言われた連中がいたようにさ(新人類には男も女もいた)。
そう”分類”して”オトナたち”(そういう世界は男の世界だったから主に男が)は安心したんだよ。
なにしろ自分が判断できない未知のものは不安になるのが男だからさ。だから当時の写真評論はオッサン評論と呼んでいいんだと思う。
従来のお約束事だった写真脈とは異なる視線、距離感、表現方法が現れて、多くが若い女性であって(というか男でその写真脈に属する人なんて思い浮かばない)取り扱いに困ったんだと思う。
ここで不思議に思うのは、該当写真家が当時どのような環境で何を考えていたのか、どのような生活をしていたのかが取り上げられていない事なんだよね。
子供の時期をバブルが通り過ぎて世の中は大きく変化したんだけど、それを”少女期”にどのように過ごしたのかすごく関連があると思うんだけど。
そういう時代環境と表現の関連性は写真だけではなく、当時から見ていた大学美術でも明らかで、当時は男社会の関心事から女性は別の関心事へ意識が変わったのだと感じて、86年の男女雇用機会均等法施行も関係するかもなんて思ったりした。
つまり女は勝手に動き出したわけだよ、男の思惑から抜け出して。
それを男は不安と脅威で迎えたわけだ。
そんな男の事は放置して、女は自分で考え出して動き出したんだけど、当時の学生美術なんかを見ていて感じたのは、主題が漠然としだして何をしていいのかわからないのではと思える作品が増えてきたんだよね。
あと絵画というよりイラストと呼べるようなものが日本画、洋画でも増えてきた。
そういう状況で身の回りのことを絵にしてた作品も多かった。
そんな時代なんだぁと思いながら鑑賞していた事を思い出す。
で、ここで女の子写真は身の回りにしか興味を持っていないという評論に繋がるんだけど、作者はそんなわけないというのだが、では何を見ていたのか、フェミニズムを意識していたのか、それともそれは後づけの考えなのか。
バブルが始まる時期に援交などで少女の性的価値を売買する社会が広がったのだが、そういう時代にどのように生きていたのかは書かれていない。
でもオッサン達が決めつけた”評価”には違和感があった。そこのつながりがわからない。
あと著者は巷の自撮り写真の少女達と自らの写真撮影とは明確に分類していて、つまり相互の影響はないという立場なのか、それがそうかぁ?と思うところである。
現在でもsns等で主に女性を中心に世界中で自撮りがアップロードされているが、この現象をどのようにとらえるのか知りたい気もする。
女性的という事にも意義を申し立てるけど、これまでの手法と違うものを女性が中心になって発して来たのは事実で、(もう何十年も男の写真は変わりばえしなくてつまらんと言い続けて来たぞ)、女性が置かれた時代背景、環境の変化と共に表現が変わっていったというのを女性的と現していいのではないかと思えるほどあの時代は変化したと思うんだけど。でないとなんか時代とシンクロしていないような表現だと言ってるようだ。
書き疲れたのでこの話題はまたいつか続きを
ちなみにこの日記の口絵画像(というか私の写真は)考えに考えた末に何も考えずに撮影してピックアップしたもので、わざと時代性もないものになっているのだ。(疲れたんだよ)
読書と言っても資料読みも含まれるので純粋の読書は半分ほどか。
写真に関する本は日頃読まないのだけど、”はずせない”本は”仕方なく”読んだりする。
写真について”考えない”のは、どうも写真を論じる人というのが写真を撮る事をあまりやっていない人で、写真に興味はないが写真を論じる事には興味がある人が多いからだ。
そしてその中身だが写真そのものを論じるのではなく、自分の思想を話したがる人が多くて、かつ多少下手でも写真を撮っていればわかるような事を「そうかあ?」と思うような筋で話したりする。
なのに世間では結構写真を撮る人も、そういう人の言う事を読んだりして、あるいは写真家の書いた文章や言葉を参考にしたがるのが不思議なのだが、なんかそういう”思想”が自分の写真撮影に役立つと思っているのだろうか。
たぶん多くの写真家は撮る時にはそんな思想的な事など考えていないと思うんだよね。
そんな事は常日頃にしているはずだから。
そうやってすっかり身についた考えで、撮影に挑むと思うんだね。
だからむしろ身につけるのは写真の事ではなく、社会の事や文化芸術の事、学問の事だと思うんだよ。
で、そんなわけで今更ながら
「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ
長島有里枝 著 大福書林
を買ったのだが、単にポイントが貯まったから今という感じではある。
1990年代に輩出された女性写真家たちをひとまとめに「女の子写真」とくくられた事への当事者からの異議申し立て。
なんだけど、ところどころで「んんんそうかなぁ」と当時を思い出して感じる部分があった。
当時個人的には興味を惹かない写真群だったけど、そういう女性たちが次々に現れる事は認識していた。
そういうジョシたちを某評論家を先頭に「女の子写真」と呼んだんだけど、文中の意見とは自分はちょっと違っていて、これまでの文脈から(写真脈か)評論できない連中が現れてとまどった末の命名であると個人的に思うのだ。
当時なら「新人類」とかさ言われた連中がいたようにさ(新人類には男も女もいた)。
そう”分類”して”オトナたち”(そういう世界は男の世界だったから主に男が)は安心したんだよ。
なにしろ自分が判断できない未知のものは不安になるのが男だからさ。だから当時の写真評論はオッサン評論と呼んでいいんだと思う。
従来のお約束事だった写真脈とは異なる視線、距離感、表現方法が現れて、多くが若い女性であって(というか男でその写真脈に属する人なんて思い浮かばない)取り扱いに困ったんだと思う。
ここで不思議に思うのは、該当写真家が当時どのような環境で何を考えていたのか、どのような生活をしていたのかが取り上げられていない事なんだよね。
子供の時期をバブルが通り過ぎて世の中は大きく変化したんだけど、それを”少女期”にどのように過ごしたのかすごく関連があると思うんだけど。
そういう時代環境と表現の関連性は写真だけではなく、当時から見ていた大学美術でも明らかで、当時は男社会の関心事から女性は別の関心事へ意識が変わったのだと感じて、86年の男女雇用機会均等法施行も関係するかもなんて思ったりした。
つまり女は勝手に動き出したわけだよ、男の思惑から抜け出して。
それを男は不安と脅威で迎えたわけだ。
そんな男の事は放置して、女は自分で考え出して動き出したんだけど、当時の学生美術なんかを見ていて感じたのは、主題が漠然としだして何をしていいのかわからないのではと思える作品が増えてきたんだよね。
あと絵画というよりイラストと呼べるようなものが日本画、洋画でも増えてきた。
そういう状況で身の回りのことを絵にしてた作品も多かった。
そんな時代なんだぁと思いながら鑑賞していた事を思い出す。
で、ここで女の子写真は身の回りにしか興味を持っていないという評論に繋がるんだけど、作者はそんなわけないというのだが、では何を見ていたのか、フェミニズムを意識していたのか、それともそれは後づけの考えなのか。
バブルが始まる時期に援交などで少女の性的価値を売買する社会が広がったのだが、そういう時代にどのように生きていたのかは書かれていない。
でもオッサン達が決めつけた”評価”には違和感があった。そこのつながりがわからない。
あと著者は巷の自撮り写真の少女達と自らの写真撮影とは明確に分類していて、つまり相互の影響はないという立場なのか、それがそうかぁ?と思うところである。
現在でもsns等で主に女性を中心に世界中で自撮りがアップロードされているが、この現象をどのようにとらえるのか知りたい気もする。
女性的という事にも意義を申し立てるけど、これまでの手法と違うものを女性が中心になって発して来たのは事実で、(もう何十年も男の写真は変わりばえしなくてつまらんと言い続けて来たぞ)、女性が置かれた時代背景、環境の変化と共に表現が変わっていったというのを女性的と現していいのではないかと思えるほどあの時代は変化したと思うんだけど。でないとなんか時代とシンクロしていないような表現だと言ってるようだ。
書き疲れたのでこの話題はまたいつか続きを
ちなみにこの日記の口絵画像(というか私の写真は)考えに考えた末に何も考えずに撮影してピックアップしたもので、わざと時代性もないものになっているのだ。(疲れたんだよ)