Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「人としては嫌いだけど、言っていることには納得する」を目指す教育論

kei先生は好きじゃない

何度、僕はこの言葉を聴いてきただろう。

先日も、とある講義の中で「kei先生の授業が嫌だ」と言われた(書かれた)。

コメントカードにも、その嫌な内容をいっぱい書いてくれた。

毎度のことながら、わりとけっこう傷ついていたりもする💦

けど、「今年もだ。よかった…」とも思っている。

ふと自問する。

「どうして、僕はこんなに嫌われるような授業や講義をしているんだろう?」、と。

この20年間、僕は、「みんなから好かれること」を拒絶して、あえて「嫌われるようなこと」を言うようにしてきた。言葉遣いも悪い、しゃべってたら怒る、寝てたらしつこく注意する、後ろの席に座ると、グダグダ言い出す。手は挙げさせるし、意見も(かなり強引に)言わす。

どうして、わざわざ、若い学生たちからあえて嫌われたり憎まれたりするようなことを言うのだろう。他の場所では、やさしく楽しく毒なくやれるのに、教壇の上だとそうならなくなる。

考えても、実際のところ、よく分からない。(やろうと思えば、みんなを不快にせず、楽しい講義をすることはできる。でも、あえて、それをしたくないって思う)

それどころか、なんとなく「俺のことを嫌え!」って煽っているところはある。

いったいどうして、そんな面倒くさいことをするのだろうか。

これを一度真面目に考えたくなった。

①反無関心

その理由の一つに、「嫌ってほしい」というのがある。

その裏には、「無関心になってもらいたくない」というのがある。

恋愛論の一般論として、こういうのがある。

好きの反対は憎しみではなく、無関心(冷淡さ)だ
(The opposite of love is not hate, it's indifference. by Elie Wiesel)

詳しくはこちら

僕が一番恐れているのは、「無関心層」だ。

今の時代、「先生」という存在は、もうドラマの主人公にはならず(なれず)、ただの風景に成り下がっている気がする。「すごく好き」でも「すごく嫌い」でもなく、「どうでもいい存在」になってしまっていないか、と。

一つ一つの授業や講義も、受けている学生たちにとっては「どうでもいいもの」「つまらないもの」「たいくつなもの」になっているようにも思う。先生たちもそれをよく分かっているので、「たんたんと」「しゅくしゅくと」行う。

僕は、なんとかそれを阻止したいと思っている。かといって、みんなから好かれることも(この20年の経験で)無理だ、と分かっている。僕みたいな「毒舌系」の先生は、万人には好かれない。ならば、「嫌われる」という形で、無関心層を一人でもなくしたい、と思うに至ったのだろう、と思う。

無関心になられるくらいなら、嫌われなきゃ、と。

無関心が生み出すのは、「いじめ」であったり、「迫害」であったり、「ジェノサイド(集団虐殺)」であったりする、という研究はいくらでもある。「無関心層」がいなければ、いじめは起こらないし、迫害も起こらない。「無関心」こそ、最も唾棄すべき「精神性」なんだと思う。貧困問題・生活保護問題も、結局はこの無関心ゆえの問題だとも言っておきたい。

②反いい子

敢えて嫌われようとする二つ目の理由は、「いい子を演じるのはやめてくれ」というのがある。

いい子を演じる人に、嫌われたい、という変な動機がある。

学生たちを見ていると、少なからず「いい子」たちがいる。

いわゆる「いい子」っていうのは、「先生から好かれる術をもっている」。

そういういい子たちは、「先生がどうしたら喜ぶか」を知っているし、その奥には、「先生なんてこんなもんだろう」というシニシズム(冷笑主義)がある。(だから、典型的な教師や保育士ほど、そういういい子たちを優遇したり贔屓したり懇意にしたりする。その結果、ますますいい子はいい子になっていく(虐待のパターンとも類似)。

いい子たちは、「いい子」の仮面をつけて生きてきた(生きざるを得なかった)。いい子を演じることで、自分の身を守ってきたともいえる。そういういい子は、そういう仮面をつけているので、その仮面の裏には、別の顔がある。その顔は、当然ながら「いい子の顔」ではない。

(*数日前に、著名人が自殺した。その背景に「匿名での誹謗中傷」がある。これもまた、「いい子」を量産してきた日本人の「別の顔」ゆえの現象ではないか。表向き「いい子」「いい人」が、他方で、匿名のSNSで「別の顔」をのぞかせている、と。こちらのホリエモンの動画も是非

そういういい子がやがて、教育者や保育者になるのは、なんとしても阻止したいと思う。「いい子」を演じてきた人が大人になり、親になれば、その「いい子」の仮面を子どもにも強要する。なぜなら、自分もそうやって生きてきたからだ。

そういういい子たちにとって、「異物」「異星人」「不気味な存在」でありたい、と思う。だから、敢えて嫌われる方向で色々とやっているんだろうな、と思う。いい子たちが、いい子でいられなくなってしまうために。

ここで教えたいことはただ一つ。

正義の反対は、悪ではなく、もう一つの正義だ

ということだ。

いい子たちは、いい子故に、自分が正しいと思い込んでいる。それを「正義」と言う。

いい子であればあるほど、自分の正義を押し付けてくる。(僕を嫌ってきた学生は、その本人の「理想的な教師像」を押し付けてくる)

その正義の押しつけこそ、福祉の世界で最も警戒すべき「不寛容さ」「無慈悲さ」となる。

どういうことか。

教育の世界には「いい子」が多数いるが、福祉の世界には「わるい子」が多数いる。わるい子は、本当に悪い子ではない。社会一般から見ると「悪い」と思われてしまうような子たちだ。「いい子」が大人たちによって作られたように、「わるい子」も大人たちによって、そう作られただけなのだが、なかなかそう見ることは難しい。

福祉の世界の人間は、「いい子のわるいところ(正義の中の悪)」と「わるい子のいいところ(悪の中の正義)」が見える人であってほしい。そのためには、まず、「いい子」でいることに、自分自身が「変だな」「おかしいな」と思ってほしい、と思って、あえて嫌われる先生になろうと、ずっと立ち振る舞ってきたのかもしれない。

「僕を嫌っていい。でも、その嫌っている自分自身をも疑ってくれ」、と。

でも、もっと根本的な理由がある。

③好き嫌いからの自由

それが、好き嫌いからの自由、である。

学生たちは、「あの先生好き~」とか「あの先生嫌い~」とかとよく口にする。

もちろん、「そんな先生、いたっけ?」っていうのもなくはないが、、、💦

好き嫌いの次元で先生を語ることが「ノーマル」「当たり前」になっている。

でも、教育者はタレントではないし、芸能人でもない。

高等教育においては、いつの時代でも「真理らしきものを伝達すること」がその使命だ。

先生が好きかどうか、ではなく、その話が真実かどうか、を大事にしてほしい。

僕で言えば、僕が好きかどうかではなく、僕の話が真実かどうかを疑ってほしい

好きか嫌いかではなく、正しいか否か。

多分、これが、「あえて嫌われようとする本当の理由」のような気がする。

正しく嫌われた状態で、僕が講義で話をして、そして僕の話の真偽を問う、と。

その状態で、「あいつのことは好きじゃないけど、言っていること(やっていること・書いていること)は間違ってない」と言われたい/言わせたい、と思うんだと(今考えると)思う。

(*好きだから言うことを聞く、嫌いだから言うことを聞かない、という人間が教育者や保育者をやったらどうなるか。そのことを考えると、これはとても大事なことになってくるのではないか)

これもまた、福祉の世界での基本だと思う。福祉の支援を必要とする人は、基本的に「人間嫌い」「人間不信」「対人関係不安」「愛され嫌悪」を強くもっている。そう簡単に、人を信じたり、好きになったりするような人たちではない。支援者のことを嫌悪したり、拒絶したりするのは、当たり前のことだ。だからこそ、支援者の側は、「好き嫌い」で振り回されるのではなく、「何が正しいか(=真実か)」で自分の行動を決めなければいけなくなるし、相手に嫌われても、その「正しさ(=真正さ)」のレベルで、根気強くかかわり続けなければいけない。

好かれようと思っても決して自分を好いてくれない人をどう支援するか(支えるか、愛するか)。

これは、僕がずっと立たされてきた(立とうとしてきた)ポジションだとも思う。自ら嫌われ、そしてその嫌われた状況の中で、どう「正しさ」のレベルに導いていけるか。

だから、ずっと心の中で、「kei先生は、人としては嫌いだけど、言っていることには納得する」、と言われたいと思ってきたんだろうな、と思う。

10年くらい前かな。ある学生に、こう言われたことがある。

kei先生は、先生としては最低点だけど、人間としては100点!

って。(偉そうだなぁ、、、苦笑)

多分、その子はなんてことなしに書いたと思うんだけど、これが僕の目指す「教育」なんだろうな、と。

***

できることなら、嫌われなくない。

でも、嫌われることは、悪いことではない。

なぜなら、僕を嫌う学生たちは、よく僕を見ている。よく見ているということは、「無関心ではない」。

本当に細かいところまで見ているし、聴いているし、何かを感じてくれている。

だから、僕は、僕を嫌う学生に感謝しているし、僕をより高いレベルに押し上げてくれる存在だとも思っている。

変な言い方だけど、、、

僕は、僕を嫌ってくれる人を愛している

ただし、、、、

ただ僕を嫌うのではなく、次は、僕の言っていることを批判してほしいとも思う。「言い方」ではない。僕が語っている「事柄」について、批判的に別の意見を出してほしいと願っている。「keiのいう"エンパワーメント"は、違うと思う。エンパワーメントというのは、XXXXXという意味じゃないのか」、というふうに。

人物批判ではなく、事柄批判を是非習得してほしい。「罪を憎んで人を憎まず」を借りれば、「事柄を批判して、人を批判せず」、だ。

PS

これを書いていて、ふと「大祐」の『嫌』という曲を思い出した。

こういう「僕」と関わっていくのが、福祉の基本の基本だとホンキで思っている。

あの日見た空の下 君と手を繋いで 歩けたらもう少し 自分のこと 愛せたのかもしれない

この言葉を僕は、きっと死ぬまで忘れることはないだろうな、と思う。

絶望した人に、手を差し伸べることほど、難しいことは本当にない。

でも、それこそが、本当の意味での福祉=Well-beingだと思う。

そして、これこそが、「keiの福祉論」のゴールだとも思う。

かつて、絶望して、明日が見えなくなって、未来が断たれて、どうすることもできなかった「自分自身」に向けて、そう言いたい。

コメント一覧

sehensucht
講義や講習に、「面白さ」を求める空気こそ、人間の思考力を貶めていると思いますね。

対人援助がらみなら、なおさら、「面白くない話でも、理解する努力をしてくれよ」って思います。本当に。。。

頑張りましょう!
成田の猫好きオヤジ
かつて都内の専門学校で単発のバイト講義をしてました。
30年近く前には、県主催の研修で、2年連続で講義を。アンケートには「面白くなかった」とのコメントあり。芸人じゃないし、対人援助がらみの講義に「面白く」する要素を入れる発想は無かったけど… 今の時期、実習の学生が来ますが、淡々と解説しています。面白くないな、このオヤジ、と思われようが。
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