Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

第12回 第三日曜日の会 +雑記

今日は第三日曜日=第三日曜日の会。

昨年4月から始めて、ついに(ようやく?)12回目をむかえた。あんまり長続きのしないkeiだけど、休みなく、なんとか12回をやり遂げることができた。参加するメンバーも、常連メンバー、時折メンバー、たま~にメンバー、一見さんがほどよく集まっていて、毎回面白い。メンバーが固定されてもつまらないし、流動的過ぎてもつまらない。本当にいい感じでやれているかな、と思う。是非、関係する人たちには来てもらいたいな。月に一度くらい、自分のやっている仕事(実践)を深く反省するのも悪くないと思うし、他の実践者の話に耳を傾けることで、自分の別の一面が見えたりもする(はず)。

今回の参加者は計12名、以下の内容に関して議論を交わした。

①家庭支援センターとはどのような場所でどのような役割を担っているのか。キーワードは「相互保育」。(Hさん)

家庭と地域をつなぐ役割を担う家庭支援センター。保育園や幼稚園との違いは、母子の日中の居場所となっている点だ。家庭支援センターは、子どもというよりは、母親へのアプローチという役割をもっており、地域の中で、社会の中で安心して子育てができるようにと設置された公的機関である、ということが分かった。そこでは、「相互保育」という言葉が重要であり、互いに(親も子も)育ち合う関係作りが目指されている。他の子どもが母親を育てたり、他の母親が自分の子どもを育てたり、と、かつての地域社会の機能がここで果たされている。そんな発表がなされた。

②なわとび@幼稚園の飛び方/飛ばせ方の指導について(Sさん)

なわとびは健全な子どもの心身の発達において重視されている。幼稚園でのなわとびの取り組みについての報告だった。なかなかうまくなわとびをすることのできない子どもとSさんのやり取りが克明に語られた。なかなか上手に飛ぶことのできないR君に対して、悩むSさん。手の動きと飛ぶタイミングがうまく合わないために、すぐに足に紐が引っかかってしまう。そのタイミングをR君になかなか伝えることができずに悶々とするSさん。そこで、まずは最初の一回だけに焦点を合わせて、手と足の動きのハーモニー(調和)を経験させようと、「ゆっくり一回せ~の~」という声かけをする。その「せ~の~」という言葉がR君に届き、手と足のバランスを獲得するに至った。さらに「ゆっくり二回せ~の~」と声をかけ、徐々にタイミングを体得していった。

③子どもの全能感(kei)

別記事参照。

④施設実習での疑問と先輩先生への質問(現役学生)

現役学生から現職保育士・教師・職員への質問コーナー。学生の質問はなかなか侮れない。するどい質問に対して、返答に困る現役先生の姿がなかなか面白かった。興味深かったのは、学生たちが「どうしたら~できるようにさせることができるんですか?」という方法的な質問に対して、先生たちが「悩みながら、考えながらやっていくしかない」という返答をしたことだ。また、現施設職員のJさんが「みきお(見る、聴く、行う)」という方法(?!)を伝えてくれた。実践者は、このように見て、聴いて、感じて、あれやこれやと悩みながら、行っていくしかないのだ。逆に見ないで、聴かないで、経験という強烈な先入観で行ってしまうことこそ、やはり恐ろしいことなのだと思う。僕らの基本はやはり見ることや聴くことや悩むことなんだと改めて思った。

今回は四つの発表/報告で、4時間半くらいだった。毎回、3時間くらいでばしっとやって終わりにしたいんだけど、それでも4時間くらいになってしまう。発表者の発表だけだったら、すぐに終わるんだろうけど、みんなでの討論が盛り上がると、すぐに1,2時間が過ぎてしまう。でも、その討論がこの会では欠かせない重要な役割りを果たしている。僕らは議論を通して、新たなパースペクティブを獲得していく。いい議論ができれば、得るものは確実に多くあるはず。発表も欠かせないが、それ以上に議論や討論が欠かせない。ただ日々の仕事に追われるだけでなく、その日々の仕事を反省して、疑問点を見つけ、課題を探し、問題点を明らかにして、次の実践につなげていく。

そうした地味な作業が、生の人間にかかわる僕らのスキルアップにつながるのだ。実践をしていれば誰もがいい実践者になるっていうわけじゃない。もし実践をしているだけでいい教師や保育士になれるのであれば、今の教育や保育はもっとすごいことになっているだろう。やはり日々の実践をふりかえり、反省し、考え抜いて、具体的な改善策を見つけ出す努力が必要なのだ。また、会の参加者をただ賞賛するだけではなく、厳しく、するどくつっこんでいって、批判することも欠かせない。相互批判し、相互補完し合うことで、次の第一歩が踏み出せるのだから。

僕らは素直に子どもたちや障害をもった人たち、困難な人たちの幸福を願っている。キレイゴトに聞こえるかもしれないが、それが僕らの仕事のモチベーションなのだ。自分たちの満足や欲求を満たすためにやっているんじゃない。もちろん生きる糧ではあるが、お金のためにやっているだけじゃない。それが教育や福祉の世界に固有な事態なのだ。最近、よく「サービス残業」っていう話が話題になるが、この世界ではどれだけ時間外労働をしたか(あるいはしなくてもいい仕事をしたか)が、実践の質の向上につながっている。優れた実践者は人の見えないところで人の倍以上の労力を行使しているのだ。しかも、それは自分が認められたいからなのではなく、実践そのものをもっとよくしたいからだ。

昨日の日記で、僕は卒業式での虚無感/不満感について述べたが、それもやっぱり「まだまだこんなもんじゃないよなぁ」という気持ちから来ているのだと思う。どれだけやっても、全然こんなもんじゃね~よなぁ~、と結局は思ってしまう。けれど、それでいいのだ。満足できなくとも、より良くなればいいのだ。今はダメでも、いつかはもっと心の奥底から感動できる日がくるのだ(来るかもしれないのだ)と思って、今具体的にやれることをしっかりすればいいのだ。

だから、僕は3月に落ち込むのだと思う。っていうか、3月だけは落ち込みたいし、愕然としたいのだ。「終わりよければすべてよし」じゃなくて、「終わりダメでもやってよし」って感じかな。やることはやる。でも、それに心底満足しない。「自己不満足」のために全力でやる、っていうか。

参加卒業生が次のように書いてくれた。

毎回第三日曜日の会で思うことは“育ち合い”だなぁということです。地域の保護者同士の育て合い(育ち合い)、子ども同士の育ち合い、そして、この場での参加者同士の意見の言い合い・・・ いろいろな形で子育て支援が行われているな、と思いつつ、ここまでの子育て支援が必要なんだとも思い・・・

このコメントを読んで改めて、第三日曜日の会スルメイカの目指す先は、「育ち合い」かなぁ、と思った。

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