「新学力観」という言葉を知っているだろうか。あるいは、覚えておられる人はいるだろうか。一昔前の概念となってしまった感があるが、僕の中ではまだまだ色あせない大切な概念である。
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新学力観は、1989年に登場した教育学の概念であった。この言葉は、この年の学習指導要領改訂後、一般に使われるようになった。当然「新」と付くのであるから、「旧」というのが対置されていることになる。古い教育観に変わる新たな教育観・学力観ということで、当時の教育界において一際輝いた言葉であった。
旧学力観は、教育学内部での「旧教育」の考え方とほぼ同義である。知識の詰め込み、知識の暗記、知識の理解、知識のストック、そういったものを重視し、子ども一人ひとりの興味や関心や意欲や態度、そういったものを軽視するような学力観である。19世紀の新教育運動が反対した旧教育に限りなく近い。
この旧学力観を乗り越えようと、新たに作られたのが新学力観であった。
新学力観の根底にあるのは、子どもの興味や関心から出発しようとする19世紀の新教育運動と通ずるものがある。また、当然、戦後の民主主義教育化の時代にも、子どもの興味こそがカリキュラムの根底だと考えられ、子どもの興味から出発する教育観があった(アメリカ教育使節団)。民主主義の原則が世間に浸透し、奇跡的な経済復興を遂げ、その経済発展のとりあえずの終焉(バブル崩壊時期)と共に、新学力観が生まれたのは、学校教育の皮肉なサガであろうか。
学習指導要領(平成元年)において、小中高いずれにおいても、「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」が記載されることになった。だが、この微妙な言い回しが、新学力観の支えとなり、またその脅威ともなったのである。
最初の「自ら学ぶ意欲」、つまり、ただ単に興味や関心を抱くだけではなく、その抱いた対象について自ら積極的にかかわり、学ぼうとする意欲、これがまずもって目指されたわけであった。これは、興味・関心・意欲・態度を重視する新学力観と見事に対応している。
そして、「社会の変化に主体的に対応できる能力」というのが、ダブルバインドになっていて、問題を難しくさせた。「主体的に」とあるので、主体性が重視されている一方で、その他方、社会の変化に自ら従う能力を目指すという意図も含まれているのである。解釈の仕方としても、①社会に対してyesmanとして、その流れに自ら乗れるようにせよ、とも、②社会に対してある程度距離をとり、批判的思考をもって、その社会変革に対して積極的にアプローチせよ、ともとれるような曖昧さがこの一文にはあるのである。喩えて言うなれば、第二次産業の象徴である工場で働いていた人は、脱工業化社会になった今、社会の変化に応じて、高齢化する社会の中で、福祉施設で働く能力のことを言うのか、それとも、工場の変革をうったえ、新たな労働環境を産み出す能力を言うのか、あるいは別の能力なのか。
学校内部の問題で言えば、新たに登場した新学力観を実際に実現させようとしたときに、おかしなことになってしまったと言えそうだ。マリア・モンテッソーリの本を読めば、意欲や関心や態度を大切にする教育方法などいくらでも分かるはずなのに、日本の現場では、新学力観という理念を実現させるために、「ボランティア学習」、「奉仕活動」、「体験学習」、「職業訓練的学習」へと向かってしまった。これらの言葉が合わさることで、現場では、「授業の代わりに、子どもに何かやらせておけばいいのか」という「楽な道」が想定されることになってしまったのだ。
「子どもがしたいことをただやらせるだけ」というイメージが新学力観に入り込んでしまうと、それは理念の崩壊へと向かっていく。単なる消極教育(何もしない教育)=新学力観ではないはずなのだが、新学力観において、実際に何をどうしたらよいのかの具体的な提示もなく、またそういう教師教育も徹底されなかったので、不安定であいまいな概念として、船出をしてしまったのだ。
さらに難しいのは、新学力観での学校教育に対するその評価である。学校教育のとりあえずの目標は「入試」である。入試の試験問題は、その基準が誰にとっても明白で透明で妥当なものでなければならない。だから、誰にでも理解可能で実証可能な客観的な知識のストックの量が評価の対象となってしまう。
例えば、1+1は2であって、田でもなければ、41でもない。2という答えさえ合っていればよいのであって、そのプロセスは問わないし、子どもの1への関心も問題にならない。ある幼稚園で、粘土で遊ぶ幼稚園児Cちゃんに、「1+1は何かな?」と尋ねたとき、Cちゃんは、少し考えて、「大きな1」と答えた、という出来事があった。その時、「どうして?」と尋ねると、粘土で丸い団子を二つ作り、「見ててね」と言って、その団子を一緒に混ぜて、大きな団子を作り始めたのだ。そうして、にこりと笑って、「ね。一つのお団子さんがもう一つのお団子さんと一緒になって、大きくなったでしょ」、と言ってくれた。
このCちゃんの発想は、自ら考え、自ら見つけ出し、自ら求めたものだった。他の幼稚園児に聞いても、「分からない」、か、「2」しかなかった。つまり、知っているか、知っていないか、のどちらかである。だが、彼女は「大きな1」という答えを、実証しながら、見つけ出していた。きっと彼女も小学生になり、学校で算数を習えば、何も考えずに「2」と答えるようになるだろう。「2」以外の答えは、ナンセンスなのだ。
新学力観の立場に立てば、もう少しこのCちゃんとのやり取りを発展させることができるだろう。(どう発展させていけばよいかは、各人で考えてみてください☆)
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