(この上の画像、不思議なところが幾つもあります。分かるかな!?)
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突然ですが、みなさんって、「変わり者」ですか!?
周囲の人に「変わり者扱い」されていますか??
変わり者と言われて、嬉しいですか?それとも悲しいですか?
変わり者にも、色んなタイプがいると思いますが、、、
逆に、「普通の人」と言われている人はいますか?
「普通だね」と言われるのと「変わり者だね」と言われるなら、どっちがよいですか?
変わり者と普通の人という点から、黒川さんのことを少し述べたいと思います。
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まずは、変わり者の話からいきます。
「変わり者」を類語辞典等で調べると、、、
飛上り者 ・ 偏物 ・ 変人 ・ 変物 ・ 個性的な人 ・ 酔狂人 ・ 飛び上がり者 ・ 飛び上り者 ・ とび上がり者 ・ 奇傑 ・ 畸人 ・ 奇人 ・ 偏人 ・ 奇士 ・ 変り者 ・ 変わり種
といった言葉が出てきます。(参考元)
こうやって見ると、あんまりいい言葉じゃないですね(苦笑)
「あなたって、少し変わっているね」という言い回しは、褒め言葉にも聞こえるし、非難している言葉にも取れますが、「あなたって、奇人だね」って言われると、ちょっと凹みませんか!?
ブログとかネット上だと、僕はわりと「普通の人」っていうイメージだと思いますが(どうだかなぁ…汗)、リアルな現実では、ホントによく「変わり者」と言われます。
3年前に一度ほんの少し会っただけの人にまで覚えられるくらいで…(;´・ω・)
で、それで、自分も「変わり者だ」って思えていればよいのですが、自分では、「え? どこが変わっているの?」って思うんです。心の底から、そう思うんです。
自己認識としては逆なんです。別にたいした特技があるわけではないし、飛び抜けた才能をもっているわけでもないし、昨今のYouTuberみたいに凡人をはるかに超えたパワーや野心があるわけでもないし、特異な能力をもっているわけでもないし、人と違ったことも意見もそうそう言えないし…、、、
だから、「変わり者だね」と言われると、心の底から「どこがじゃ!?」って思うわけです。こんなに、平和と平等と平凡を愛する庶民はそうそういないぞ、と思うんです。
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ただ、40代になった頃から、自分は「組織の中でうまくやる人間」ではないなって自覚するようにはなりました。組織の中でうまくやって、そのトップに立つ器じゃない、というか。
多分、どの組織に属しても、「管理職」とか「理事」とか「~長」とかにはなれない人間だなって、心の底から思うようになりました。多分、誰の目から見ても、そういう器じゃない、というか、そういう人間じゃないって思われることでしょう。僕の年齢くらいになると、「~長」とかいう肩書を持つ人も結構増えてきますが、僕には多分縁のない話だなぁって思うし、事実そうです(苦笑)
…そういう意味では、多分、僕は「変わり者」なんじゃなくて、「普通の人になれない」ってだけのような気もします。「普通の人」とは、まさに組織(人間集団)の中で、己を犠牲にして、組織のために身を投じられる人、ということなのでしょう。自分のしたいことややりたいことや実現したいことを押し通すのではなく、その全てを押し殺して、組織のために、忠実に、組織の意思を自分の意思にしてその全てを捧げる、そういう人間が組織では求められるわけです。
そう考えると、「変わり者」というのは、「自分を捨てられない人」と言えるかもしれません。そういう意味では、僕はやっぱり「変わり者」かもしれません。己を犠牲にして、組織のために身を投じるなんて…、無理です無理です💦
で、変わり者の視点で「普通の人」を見ていると、率直に、「大変そうだなぁ」と思うんです(苦笑)。自分のしたいことややりたいことをぐっと抑えて(又は、本当にしたいことややりたいことを持たないまま)、組織のために自分をうまく犠牲にできる。組織の意思(その中でもトップの意思)をうまく汲んで、それを効率よく、合理的に処理できる人。そういう人を見るたびに、凄いなぁって思います(そう思うようになりました)。
普通の人には、いわゆる「常識」があります。常識に忠実です。常識的な判断を常に下すことができます。常識とは、多くの人がそうだと思う「共通理解」「共通感覚」のことだと思います。多くの人がそうだと思うことを、その通りに実行できる人、言葉遣いが(常識的に)きちっとしている人、約束事をきちっと守り続ける人、服装の乱れのない人…、そういう人は、絶対に「変わり者」とは言われません。
そんな常識から外れた人を変わり者と言うのであれば、やはり僕は変わり者なのかもしれません。言葉遣いは酷い(苦笑)、約束のすっぽかしは常習犯、服装も酷いもので、、、。けれど、自分からすれば、そういう表面的なものではない常識をもった凡人だとも思っているのですが、、、(誰もそれを常識とは呼ばないかな…)
さて、本題です。
この数日間、日本中で話題になっている黒川弘務・東京高検検事長もまた、とても優秀な「普通の人」だったと思います。彼の話を聞く度に、アドルフ・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann)を思い出してしまいます。どちらの人物もとても優秀で真面目で実直な人と見られています。
普通の人は、とても日々強いストレスを抱えているように思います。アイヒマンはともかく、黒川さんはきっと常に極度のストレスを感じていたのだろうと推測します。僕の周りにいる「普通の人たち」もまた、僕から見ると、「ストレスを溜めているんだろうなぁ」って思うような人たちです。お顔を見ても、これまでの彼の話を聞いても、とても優秀で真面目で能力の高い人だと分かります。
そういう普通の人からすれば、僕や僕に近い人間は、「自由人」に見えることでしょう。「自由人」という言葉もまた、「変わり者」とかなりニュアンスの近い言葉かと思います。組織の意思を汲まず、自分の意見や意志を自由に表出する、己を犠牲にせず、言いたい事を言いたいように言う。そういう人は、彼らからすれば、「痛い人」なのしょう。「空気を読まない奴」「痛い奴」「他人のことを考えない奴」「周りの人間が望むように動けない奴」等々。
けれど、これを逆に「自由人」から見れば、普通の人々は、「空気ばかり読む奴」「痛さや共感に欠けた奴」「他人に支配された奴」「周りの人間(特に自分より上の人間)のモルモットのような奴」となります。が、そういう人は決して「自由人」「変わり者」とは言われません。逆に、「不自由」な「普通の人」と言われることになります。
恐らく、多くの人は、「自由」と「不自由」の間くらいにいると思います。自由の方に偏った人間は「変わり者」と言われ、不自由に偏った人間は、「普通の人」と呼ばれるのかもしれません。
黒川さんの素性は知りませんが、彼が(自身の立場を知りつつ)「賭けマージャン」をやっていたという点に、彼の「人間らしさ」を少し垣間見た気がしました。きっと組織の中では優秀な「普通の人」だったのでしょう。けれど、人間というのは、そう単純なものではありません。
「普通の人」と言われる狂気の人(僕とは別次元の変わり者=weirdo)は、組織の中で「普通の人」を演じるわけですから、その外では、狂気の人に変貌します(それが自然かも…)。マージャンをしている時の黒川さんの顔は、きっと、僕ら「自由人=変わり者」とは比べ物にならないくらいに「狂気の表情」をしていたと邪推します。マージャンをしている時の黒川さんがどんなだったか、とても知りたいなぁと思います。
このように考えると、僕(あるいは他の自由人的な人、例えばホリエモンや宮台先生や百田さん?)みたいな自由人的な変わり者なんて、かわいいものだと思いませんか? 損得を捨てて、自由に無邪気に己の信念で生きているだけですから。恐らく組織的な出世もしないでしょうし、組織のトップとしてその組織を動かす器でもないのですから…。(橋下徹さんも実はこの種の人間かも…。彼自身、そう言っていますし…)
むしろ、本当に(恐ろしい意味での)真の変わり者は、極端に不自由な「普通の人」ということになります。黒川さんに代表される「有能な役人的な人」の闇は、どこまでも深そうに感じます。だからこそ、その闇を肯うべく、賭けマージャンに手を伸ばした、とも言えなくもなさそうです。
安倍首相も、もしかしたそういう「普通の人」なのかもしれません。彼の数々の疑惑もまた、彼の普通の人故の闇の表れとも言えなくもなさそうです。Twitterとかでは安倍さんの批判をわりと強くしていますが、「変わり者」の視点で彼を見ると、「大変そうだな」「ストレスを溜めているんだろうな」「生きづらいだろうな」と思えて仕方ありません。本人はそう思っていないかもしれませんが、彼をテレビ画面で見るたびに、「普通の人を極めた日本人」にしか見えません。安倍さんは「ゴルフ」できっと息抜き(ガス抜き)をして、再び国会等で「普通の人」を見事に演じるのだと思います。(そういう意味では、黒川さん同様に、賢い人なのだと思います)
むしろ、ここで開き直って、「僕は憲法改正がしたいんだ! 祖父の夢だったんだ! 誰がなんと言おうとするぞ! 時間もないんだ。ダメでもOK! とりあえず国民投票するんだ! 国民のみなさま、お願いします!」と請願し始めたら、安倍さんもこっち側の人間(自由人)になるんだと思います(もし安倍さんがそう言ったら、ちょっと応援するかも…)。また、彼が、「桜を見る会? あれだって、しょうがないんだよ。山口から後援会の人をいっぱい呼んだよ。お金も出したよ。だって、選挙で圧倒的に勝ちたいんだもの!」って叫んだら、その時こそ、(いい意味で)「変わり者」と言われることでしょう。そう考えると、鳩山さんは、紛れもなく「変わり者」だったのかもしれません…(言いたい事を言い過ぎたという意味で)。変わり者は組織のトップはやはり立てないんですね(苦笑)
自由人か、不自由人か。
どう生きるかは、きっと人それぞれでしょうし、それでいいと思います。他人がそれをとやかくいう権限などありませんからね。ただ、不自由に生きる普通の人ほど、怖いものはありません。組織では上に登りつめるでしょうけれど、その人が上に立ったところで、「夢も理想も理念もない」のだから、その先はありません。せいぜいのところ、その立場の持続くらいでしょうかね。
かといって、自由人が組織のトップに立つということも、きっとこれからもないでしょう。日本人の多くが「不自由」に生きているわけですし、自由人を見た時、多くの日本人は、その人を「ウザい」と思うことでしょうから。
黒川さんのことを考えると、怒りというよりは、哀しみを覚えて仕方ありません。「優秀な検事」の頂点を極めたような人ですが、「君子」ではありませんでした。その裏の姿は、(緊急事態宣言の中でも)「賭けマージャン」に打ち込む人間でした。
最後に宮台先生のお言葉、「右か左かではなくて、まともかクズかなんですよ。今、それがあぶり出されているんです。右か左かと言っている人は、その時点でクズです」をここに残しておきたいと思います。
Fin.