Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【新春】2025年、教育学に何が語れるか?!-格差、AI、民主主義、少子化、エリート、グロナカル

2025年になりました。

今年はいったいどんな1年になるんでしょうか?!

国内の問題も山積していますが、世界ももう本当に荒れまくっています。

教育の問題だけでも、もうどこからどう手をつければいいのか、と途方に暮れます。

でも、途方に暮れているだけでは、どうにもなりません。

2025年の今、教育の今日的問題と根本問題をいくつか考えてみたいと思います。

【今日的問題】

➀ますます激しくなる「格差社会」をどう是正するか?

2025年の今、まず考えなければいけないのは、途方もない「格差」の問題でしょう。

それも、国内というより、世界規模での格差が最重要となります。

日本は、バブル時代以後、ほとんど成長していないことが分かっています。

政治的にも、経済的にも、まったくと言っていいほど、成長していません。

教育は、2006年12月の教育基本法の改正以後、保守化+新自由主義化の路線を歩んでいて、「できる子」と「できない子」のすみ分けがどんどん加速していきました。

また、1999年頃から「中高一貫校」ができ始め、今や700近い中高一貫校が全国にあります。そのため、小学校の時点で、かなりの勉強をする子どもたちが増えてきていて、そのための教育費も増加しています。

本来、教育は、「生まれによる格差」を是正するために生まれたものでした。「生まれ」ではなく、その後の「努力」によって、人生はいくらでも変えられる、というのが、近代の教育の理念でもありました。

が、今や、そんな理念は空理の空論となり、教育学もあまりそのことを語らなくなっているように思います。

格差を是正する努力は放棄してよいのでしょうか?

ポストヒューマンの時代に、人はもう要らないのか?!

教育の任務は、「知性」を子どもたちに与えることです。これまでのあらゆる知的な財産を体系的に子どもたちに伝授することです。

教師は、その知的なものと子どもたちの「あいだ」に立ち、それを様々な方法で伝達していきます。

それゆえに、教師は知的な人間として、様々な知識や経験をもつ、大切な存在となってきました。

が、2025年の今、その教師の知性は、いわゆる「AI(人工知能)」に取って変わられようとしています。

人間が培ってきた膨大な知識は、「データベース」となり、それをAIが瞬時に集め、それを誰もが分かるように「言語化」するツールが僕らの目の前に、現にあるんです。

知的な財産は、人間(教師)の手によってではなく、インターフェイス(マウス等)を通じて、画面越しに伝達されるようになってきました。今や、スマホがあれば、なんでも知れて、なんでも分かる時代です。

そんな時代に、教師には、あるいは人には、いったい意味や価値があるのでしょうか。

「もう人間(近代的理性)の時代は終わった」と考えるのが、「ポストヒューマン(人間以後)」という思想です。人間が知性を生み出す主体ではなく、AIが知性を生み出す主体となっていっているのです。人間の手を離れて、AIが自ら学習を続けるんです。

今や、ホリエモンのような人たちも、「大学に行かなくても、スマホで十分に高等な学びは可能だ」、というようになっています。「教師」の言葉よりも、「スマホ」に表示される言葉の方がよっぽど子どもたちの心に響くのです。

イヴァン・イリイチの代表的な言葉である「脱学校の社会(化)」という現象が、2025年の今、日本のみならず、世界中で巻き起こっているんです。

③リベラルの失速と、民主主義の危機

日本国内で見ると、この15年くらいで、日本の人たちはずいぶんと権威主義的になりました。

何を権威とするかは別にして、「権威」に依存し、もたれかかるようになりました。

自分たちで自分たちの社会を創る!という気概はなくなり、権威的な人物に陶酔し、その権威的な性格をどんどん強めていきました。

世界的にも、「民主主義国」は、明らかに数的に減っています。

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊以後、2012年には、自由で民主主義の国は、全世界で42か国となり、一気に増えていきました。

が、その後、どんどんその数は減っていき、2021年には、34か国まで減っていきました。人口で言えば、地球全ての人口のうちのたった13%しか、自由民主主義を体験していないんです。(参考元はこちら!)

それに代わって、「閉鎖的な独裁国」と「選挙制度のある独裁国」が増えてきていると言われています。2021年の時点で、前者は30カ国、後者は60カ国となっていて、この90カ国を合わせると、なんとなんと、世界人口の70%になるんです。つまりこの国に生きる人のほとんどが、非民主的な独裁国に住んでいる、ということになります。

どのような国をよい国と見なすかについても、やはり教育の影響を強く受けています。権威主義的なクラスで学ぶか、民主的なクラスで学ぶかによっても、ずいぶんと判断は変わってくることでしょう。

戦後民主主義教育に取り組んだ先人たちについて、改めて学び直すのも悪くないかもしれません。

民主主義は、戦後日本の大きな夢であり、希望でした。2025年の今、日本は民主主義を守ることができるでしょうか。できるとすれば、どうやって?!

【根本問題】

①加速する少子化と学校の危機

明治期の「学制」以降、「学校」はどこまでも増殖し続けてきました。

ですが、今、日本の学校は、どこも危機的状況を迎えています。幼稚園も、小学校も、中学校も、高校も、大学もすべて「供給過多」となっており、今後、どんどん消えていく運命にあります。これは、歴史的にもはじめてのことであり、今後どうなっていくのか、全く見通せません。

2022年に出生数80万人を切った日本ですが、2024年には推定値で68万7000人となっています。これから20年で30万人以上の子どもが減るんです。(逆に、平均寿命はますます延びていて、男性81.09歳、女性87.14歳となっています!)

今は「教師不足」が叫ばれていますが、あと少しすれば、「学校の閉鎖」が次々に起こってくることが予想されます。

日本は、高度な成熟社会となりつつ、経済的には30年停滞し続けており、「高度化する子育て(子育て自体の複雑化)」と「経済的な困窮(貧困化)」の二重苦に苦しんでいます。子育ての質的な向上により、親の負担が増大していて、且つ、経済的な困窮により、多子を望まなくなっています。

この問題の解決策はいまだに何も見つかっていません。

不登校の数も、過去最高の34万人越えをしていて、「学校の意義」もまたぐらぐらと揺らいでいます。

②真のエリートをどう育てていくか?

1月19日からスタートしたドラマ『御上先生』、見ましたか?!

文部科学省から出向した教師の御上先生が、隣徳学院という超進学校(高等学校)の担任になり、いろんなことが起こっていく学園ドラマですが、そのドラマの第一回で、「エリートとは何か?」と問われていました。

エリートの語源であるアレテーは、この高校の名前にもあるように「徳」を意味するもので、その徳とは、①知識、②勇気、③節制、④正義を綜合したものであり、これを有する人間を育てることが、根本的な教育の理念(イデア)となります。(隣人愛=アガペー=フィリアの「隣」と「徳」を合わせているところに、ちょっとした深みを感じます)。

教育を受けた人間は、受けていない人間よりも「幸せ」になっているのか。公教育は、いったい誰のために、何のためにあるのか。今、まさにそれが問われているように思います。教育を受けた人間がもし「幸せ」になれないのであれば、その教育はきっと遠くない未来、自滅することでしょう(もう自滅しかかっている?!)。

教育を受けることで、アレテー(徳)が得られるようでなければ、そこにもう何の意味も価値もないんです。いわゆる「いい大学」に行くことが「就職に有利だから」という理由でしかないなら、もうそこに「スコレー(閑暇)」という本来の意義はありません。本来、「労働」から離れ、「知」と戯れる(遊戯する)ことが、学ぶことの意味でした。

そういう意味で、今、まさに「教育の歴史・思想史」を皆が学んでほしいと強く願うのです。

③グロナカルな視点で教育を考える

教育を考える際、常に、①地域規模で、②国家規模で、③世界規模で考える必要があります。

教育はいつでも、いつの時代でも、地域に埋め込まれた営みです。自分たちの住む地域のことを知ることは、学びの基本の基本であります。

また、教育は、(近代以降)いつでも、いつの時代でも、国レベルでの営みであります。「国民」のための公教育であり、また、公教育は「国民」を育成するための営みです。

教育基本法でも、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」が期待されており、国民の育成が目指されています。

同時に、僕らは過去にない「グローバル時代」を生きています。わずか50年前までは、海外に行ける人自体がごくわずかでした。今や、成田空港も羽田空港も過密の度を越えており、人々が世界中を往来していますし、また、あらゆるメディアを通じて、世界で起こっていることをリアルタイムで知ることができます(そのためにも英語が必要不可欠ですが…)。

教育も、今や「英語」と「コミュニケーション力」(あと「創造性」とか「クリティカルシンキング」かな?)が強く求められており、グローバル社会を生き抜くスキルを育成しようと必死になっています。「GIGAスクール構想」などというものは、まさに21世紀型の教育であり、「21世紀型スキル」を調べると、その内容がいかにグローバル(アメリカ的)なものかが分かると思います。

グローバル+ナショナル+ローカル=グロナカル。

この三つの視点を、全ての子どもたちに与えること。それを目指してこそ、ホンモノの教育と言えると僕は思います。

何であっても、この三つの視点で考えることができます。どれかの視点だけしかもてないよりも、どの視点からも語れてことそ、真のエリートであり、また真の「教育を受けた人間」だと思います。

それは、自分の狭い視野を壊し、あらゆるスケールでこの「世界」を見つめることにつながります。グロナカルな視野を与えることこそ、これから日本が目指す教育となるとホンキで思っています。

(ちなみに、僕のラーメンの食べ歩きも、このグロナカルな視点を常に忘れないで、行っていますし、また、研究も同じようにグロナカルな視点を交差させながら続けています)

ラーメンと教育とグロナカル、拙書ですが、このテーマで書きました。

というわけで、、、

2025年、教育学的な今日的問題3つと根本問題を3つ、出してみました。

引き続き、考えていきたいテーマです。

教育は、それでも、希望を語れるのか否か…。

地方を見つめ、国・中央を見つめ、そして世界を見つめ、、、

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