神主神気浴記

月待講、御神水による服気、除災招福の霊法、占などについて不定期でお話します。
神山の不思議な物語の伝えは継続します。

Ⅳ天門線の秘法 「開運・竜鯉(りゅうり)の施法

2018年03月25日 | 神気浴記

 案外早く、この施法神事を再び見る機会を得たのでまとめ編としておこう。
 これらは古来よりさまざまに試されてきた方法であり、私自身の体験もあるが、ここではたまさか出会ったことでもあるので、その方達の事例を挙げておく。なお、呼称については勝手ながら私が付けたものを使用している。しかし、それぞれの人たちがそれぞれに自らの型を持ち行っていることを付け加えておく。
ここでは、五行川を中心の天門線とし南(南里)の金鯉と北(北辰)の飛竜を結び、南から北へと心願成就の祈願施法を行うという形だ。
施法の手順
 ①そこでまず、南の金鯉(大前恵比寿神社)を参拝し開運招福のお水取りをする。
 ②その際に授与されるお水とお姿の絵札を持って恵比寿神社の参道の二宮神社に詣で、事の由をお願いする。
 ③そして、そこから見える川の飛越の堰に向かって一礼。
そこから北に向かうというあんばい。
 ④北の社(祖母井神社)の社頭を参拝。
 ⑤絵馬を求めて、それに持参したお姿を貼る。絵馬には祈願と名前を記入。お姿には祖母井神社へのお礼の言葉を書くのを忘れずに。なお、持参し  たお水取りの水をボトルのキャップいっぱい程度を拝所に撒くか裏手の神苑の水場にそそぐ。
 ⑥絵馬を拝殿前の拝所の「飛竜御柱」の周囲のどこかに下げる。本殿わきに絵馬を下げる場合は、本殿脇側のひさしの飛竜に参拝でもよいそうだと  のこと。
 ⑦祈願は、心の中で自分の住所、氏名、開運祈願を具体的に述べて、最後に「飛竜大明神万事宜しくお願いします」と丁寧に挨拶し、終わりに「あ  りがとうございます」と感謝を述べるがよい。この参拝の仕方は、およそみな同じようだ。
私の場合は、「何かとお願い致しまして誠に申し訳ございません。お救い上げ頂ければ真にうれしゅうございます。ありがとうございます」と、付け加えることを勧めている。
 ⑧そして最後に、二礼、二拍、一礼。 いずれの参拝でも最後にこの拝礼を忘れずに。
ここでは願うという言葉を使ってはいるが、参拝の精神は願うでも頼むでもない。そこの神さんの不思議な霊力に対する崇敬の念を、拝むという形で表すことだ。いずれでも、これが社頭参拝の形である。
この心がけを持っていれば、おのずから自らにも開運招福の力が湧いてくるに違いない。

開運招福の祈願については、お姿が貼られた絵馬を見てみると、
 縁結び
 金運
 事業・仕事運
この三つが多い。本殿には子安の神、境内の末社には月読の神が鎮まっておられるので女性の祈願が多いのはわかる。
今日、我々をはじめ皆さんも多忙を極める。ありがたいことに北は北、南は南と別々に他日に分けて行ってもそれほど後利益を損ねることはないようだ。しかし、いつかは通しで行った方が良いことは言うまでもない。また、個々に幾度となく重ねることが大切なことは祈願については大切なことも言わずもがなである。

この天門線、神門線を手本にしてみると、他にもいろいろな形の神事に出会えるのではないだろうか。皆さんの地元の伝え、出かけた先で見聞きしたものがあったら教えていただきたい。

さて、この度の施法に関する直接の神事は見つけられなかったが、本になっている神事がいくつかある。ただ、神社では非公開の事が多いようだ。
 みあれ迎え みあれ木を立てて神籬(ヒモロギ)とし神の降臨を迎える
 若水迎え  境内の泉から若水を汲む
 モヒ取り神事 神水を奉る神事
 神水取り神事 お神酒を泉に移し、代わりに水を汲み神前に供える
いずれも効験は開運、昇運が多い。

*神門線とは、方位線では無く、御祭神と御祭神をつなぐ𠮷線で表されたものをここではそう呼称する。この場合、方位にはこだわらないが、吉祥線で結ばれた方が良いものは言うまでもない。


 なお、取材中近辺の崇敬者の方から、いまでは無くなった昔の神事(講)の話を聞いた。もとはと言えば農村らしい物事の流れのリズムはさもありなんというものであった。このことは農村部だけの事ではない。このリズムが日本人の暮らしのリズムであった。農村部には最後まで残ったのであろう。境内にある月読神社がその証かもしれない。今ではこのリズムを考える人は少ない。都会の喧騒の中では到底見つけられない忘れ物、市街に比べ昔の宝庫である。いつかまた皆さんにご報告する。
 
 つづく



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Ⅲスタート地点、南の社探訪記

2018年03月16日 | 神気浴記

 前編では、ネットで検索したにすぎないし疑問がわいたこともあったが、ゴールに対応させる意味でこのようなタイトルを早々と付けた。早まったかもしれない。あの修験の人をリーダとする人達がスタートとして神業施法を実行している場所をこの目で見るために出かけることにした。
 それは江戸時代の偉人がこの地域から名を馳せたというネット上の一文であった。本当であろうか。今回の具体的な探訪でお話ししよう。

 地図とネットで検索してまとめておいたノートを持参し、某日に出かけた。ここに記すは当日の日誌から抜粋したものを前編の続きとしてお知らせする。続きと言っても私の見た目のリポートであり、ルートは前編で調べたままであるから後日修正が出た時はご容赦願いたい。
ゴール地点であると言っていた北の社から見て、スタート地の社にふさわしいのは時間・距離的に見てネット上で見つけたあの社で間違いはないだろうと思ってはいたが、実際に車を走らせてみて確信に変わった。
 
 ナビの上で路は進行方向へ南下しており、右手に川が流れている。左右の風景はかつての田畑をほうふつとさせる田園風景の名残がある。さぞや往時は豊かな豊穣の土地であっただろう。しばらく道なりに車を走らせた。途中は割愛するが、30分弱で、目印の単線鉄道の小さな踏切を渡った。
次の信号を右に折れて進むと、やがて車は赤い橋の上に出た。なるほど、こういう景色なのかと思った。
目の前の駐車場で車を降り、左に参道が見えたが橋の袂へ戻って川端の道から川を眺めた。先ほど橋の上から見た川筋の景色が素晴らしかったからである。しばし川の風景に見とれた。 

 川の左に沿って鎮守の杜が広がっている。杜の入り口には鳥居が見える。一の鳥居であろうか。川の先の方に目を移すと満々と水を湛える堰がある。さらに上流には先程踏切を渡ってきた単線鉄道の小ぶりな鉄橋が見える。とても絵になる風景であった。鉄道ファンなら一枚写真をほしいところだろうか。
 一の鳥居へ戻り参道を進むか、このまま川端を進むか迷ったが、今の景色を見て閃いたこともあって、川端を進むことにした。川端の道は参道と並行していて、ところどころで参道へ降りられるようだった。
川端の道を進むにつれ水の音が大きくなり目の前の堰に着いた。満々とたたえられた水の落ちる音だ。と同時に堰の上、前方に下手への取水口があった。これだけ大きな取水口なら、川下の田畑は豊かな実りをもたらすだろうと思った。
堰を右に見てほんの少し先の左に赤い鳥居が見えた。そこから境内へ降りられるようなのでその鳥居をくぐり、下の本参道へ降りることにした。鳥居の中へ一歩足を踏み入れてハッとした。

 正面と参道右の摂社を見て「あっ」と声を上げた。直感的にここだと思えるものが同時に二手から目に入ったのである。
「ここだったのか!」それにしても知らなかった。これならわかる。修験の方たちでなくてもそうしただろう。この摂社の由緒書きを見て手を合わせたくなる!
ここが江戸時代の偉業の地だったのである。疑問が消えた。川端の道を来てよかった。子供のころ話に聞いたことがある逸話の後々の話が、まさかここでいきなり出会うとは。
 川に向かって建てられている鳥居を背にして前を見る。再び驚いた。大きな御神像がその腕の中に抱きかかえているものがネット上に有った金の鯉だった。
 脇参道の入り口にあった摂社の御神名を見れば年配の方ならさもありなんと思われるだろう。さらに脇参道正面のこの鯉を見れば、なぜここがスタート地点と言えるのかお分かりいただけると思う。
 修験の方々やお水取りのグループの方達が何を見てこの神業に結びつけていったのか、その所以に納得できるというものだ。いまさら、私が説明することもあるまい。なるほどそうだったのか。

 この度の訪問は平日の事もあってか、残念ながらこの神業を行っている人に出会うことはなく、帰路につく時間になってしまった。近いうちに再びここを訪れ、もう少し深く触れたいと思っている。
 とりあえず、この地の社をスタート地点として、先のゴールの社と一体をなして神業神事が人知れず行われていることが分かった。
今いるこの場所は境内の一部に過ぎないので、機会があればここの御本社の事も触れてみたい。
神業施法については判った時点で報告したい。

 訪問地 下野芳賀 祖母井神社
      下野真岡 大前神社
つづく


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