みそ汁の話を書いたので、母のことも少し・・・
父は、昭和16年の太平洋戦争勃発と同時に赤紙が来て召集され中国満州へ
行ったようです。 私は2歳、 弟は母のお腹の中でした。
男なら満男、女の子なら満子と名づけるようにと。
満州の一字をとったようです。 父は満州から戦後シベリアへ抑留され、要領が
悪かったのか帰って来たのは最後の方だったようです。 その間11年、
母は女手一つで子供を育てたことになります。
(母方の祖母が家のことはやってくれたようですが・・・)
父の仕事は鋳物工で、北九州の製鉄所で働いていたようで、 その頃は生活も
中の上位だったようです。私も三歳まで 誕生日の写真を写真館で撮ったものが
有ります。 それ以降の写真は学校で写したものしかありません。 母は田舎に
帰りましたが、仕事は無く、着物を縫わせてもらったたり、直しをしたり、近所の
お肉屋さんの品物を行商で売らせてもらった事もあるらしい。ヤミ商売の疑いで
警察のやっかいになった事も・・・・ ヤミと 一口に言うが、当時の田舎では、
米が現金の代わりになっていたころで、物々交換が普通だったとか。 その米を
近所の人に販売したというのが引かっかったらしい。米は当時配給制で違反に
なったのだろう。 とはいえ、
子供を育てるには その米を売らなければ商売にならなかった訳でその後も、
警察の人らしい者が家の周りをうろうろしていたのを見かけた事があるとか・・・
子供たちは、さつまいもに団子汁の毎日だったのですが、それも今思えば良か
ったのだ。 と 思っています。
大変な時代を小さな身体でよく乗り切れたものだと 今更ながら頭が下がる。
103「働いて 働きとうして 母となる」
「母は強し」というが その気力たるや並みのものではない と、今 感じている。
草創 マネのできることではない。 だから
戦争は二度としてはならない。
現代の化学兵器の時代だから尚更である。
戦争は二度とさせてはならない。