背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その3)~「鰕蔵の竹村定之進」の鑑賞

2014年04月21日 18時26分13秒 | 写楽論
 竹村定之進は、「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたずな)に登場する人物です。通称「重の井 子別れ」(しげのい こわかれ)といい、丹波の国・由留木家の姫君に仕える乳母の重の井が、腰元時代に伊達与作という家臣との間にもうけた男の子と、離れ離れになっていた末に対面するのですが、今は奉公の身の上がゆえに、また別れなければならないという話。重の井は女形の名優が演じ、馬子になって母と再会する三吉は子役の大役です。
 「恋女房染分手綱」という芝居は、宝暦元年(1751年)、大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃(近松門左衛門の原作をお家騒動物に改作)を同じ年に歌舞伎化し、江戸の中村座で上演して大ヒットしたものだそうです。この浄瑠璃は全十三段ある長編ですが、人形を生身の役者に代えて演じるいわゆる丸本歌舞伎(義太夫狂言)も、江戸時代は長編のまま忠実に再現していたようです。江戸時代の歌舞伎は朝から夕方まで一日中、通し狂言をやっていたからですが、明治以降は簡略化されて、現代では十段目の「道中双六」と「重の井 子別れ」のニ場だけをを昼の部か夜の部に上演するようになっています。
 「重の井 子別れ」は昔私も見たことがあり(しかし、まったく忘却している)、ストーリーも登場人物もなんとなく知っているのですが、ここに至る前段については何にも知りません。手持ちの歌舞伎と浄瑠璃関係の本を引っ張り出して読んだり、インターネットの文章を読んだりして、あらすじを知り、場面を想像するだけです。それと、この芝居に登場する人物の絵を写楽は9枚描いているので、それも参照しながら、頭の中で人物を動かし、芝居を組み立ててみるわけです。まあ、これも写楽の絵を見る楽しみだと思います。


 市川鰕蔵の竹村定之進(ハーバード大学所蔵)
 *着物の色が柿色ではなく、黄色になっているのは、異版(初版ではなく、違う時期に摺った再版)だと言われています。


 さて、鰕蔵の竹村定之進が登場するのは前半の二段目か三段目で、通称「鐘入り」(かねいり)と言われている五段目が見せ場だったようです。この役は一座の座頭が演じる重要な役だそうで、鰕蔵(五代目団十郎)は立役(たちやく=男の主役)なので、もってこいの役どころだったと思われます。この時、五代目団十郎は鰕蔵と改名して3年後、54歳(数え年)の円熟期にさしかかっていました。
 竹村定之進は、由留木家のお抱え能役者で、娘の重の井は腰元なのですが、伊達与作と不義密通し、一子をもうけたことが明るみに出て、定之進は辞職し、最後の願いとして殿様に能の「道成寺」の伝授をしたいと申し出ます。定之進扮する白拍子(しらびょうし=歌い踊る遊女のこと)は、大きな鐘の中に姿を消します。鐘が引き上げられて、鬼女が現れるはずのところ、切腹した定之進が現れます。不義を犯した娘の仕置きの身替りとして切腹し、娘の命を助けて欲しいと懇願します。殿様は、親心に免じて、重の井を姫君の乳母とすると約束します。望みを達した定之進は、祝儀の場を汚すまいと、瀕死の状態のまま、重の井に別れをつげ、籠で送られて去っていくという幕切れです。
 写楽が描いた鰕蔵の定之進は、娘の過失を知り、殿様の前で能を演じ、鐘の中で切腹する決意を固めた時の表情だと言われています。評論家たちは、鐘の中に入る前の、「切腹を覚悟した悲壮な表情」と解釈していますが、これはあくまでも戦前の写楽研究者(歌舞伎の「鐘入り」を実際に見たことがあったのかどうかは不明)の解釈を現代の評論家が信用して、言葉を変えて解説したものにすぎないので、真に受けないほうがを良いと私は思っています。絵を見る時にいちばん大切なのは、見ている自分がどう感じるかということなので、評論家の解説などはかえって読まないほうがいい。考証的で客観的な解説ならば鑑賞の役に立ちますが、主観的な印象を書いた解説は先入観を押し付けられるので、鑑賞の妨げになります。写楽のこの絵について、「切腹を覚悟した悲壮な表情」という主観的な解説をすでに紹介してしまいましたが、そう聞けばそんな気もしてくるから、頼りないものです。
 この絵を見て、私が感じることは、悔しさ、腹立たしさです。嫁入り前の可愛い娘が若い男と出来てしまって、子どもまで身ごもってしまったことを知った父親の、はらわたが煮えくり返るような気持ちです。結んだ口から、「おまえ、なんてことをしてくれたんだ!」という言葉が聞こえてきそうです。両手を上下に合わせ、もみ手のようにしているのは、焦りと戸惑いを表しているように見えます。これは私の主観的な印象なので、別に無視ししていただいて結構ですが、「切腹を覚悟した悲壮な表情」には、どうしても私は見えません。今までほとんどの評論家が書いているように「鐘入り」前の竹村定之進ではなく、娘の過失を知った時の竹村定之進なのではないのかなあ、と私は思っています。


写楽論(その2)~記念切手と「鰕蔵の竹村定之進」

2014年04月21日 18時11分01秒 | 写楽論


 東洲斎写楽 市川鰕蔵の竹村定之進(シカゴ美術館所蔵)

 もう55年も前ですが、小学生の頃、私も多くの子供たちと同じく、夢中で切手収集をしていました。今の天皇陛下が皇太子時代、美智子妃殿下と結婚した時に発行された記念切手を郵便局で買ったのが私の切手収集の始まりでした。昭和34年のことです。
 その頃の切手に浮世絵シリーズというのがあって、なかでも写楽の切手は人気があり、以前発行された高価なものでしたが、自分のお金でデパートの切手ショップで買いました。10円切手なのに、当時200円か300円したと思います。その頃の私の小遣いは月100円でしたから、なんと2、3ヶ月分の小遣いをはたいて手に入れた宝物だったのです。毎日、切手帳を出しては、この切手をためつすがめつ眺めていたことを今でも憶えています。絵に描かれた人物が誰なのかはまったく知らず、知ったのは中学か高校になってからだと思います。
 先日、古い切手帳を机の引き出しの奥から出してみたら、ちゃんとこの切手がパラフィン紙にくるんで、はさまっていました。1956年(昭和31年)に発行されたものでした。古い切手帳には、大切にしていた春信や歌麿の切手もありました。
 この切手の絵は、私がいちばん最初に接した写楽の絵ですが、写楽の役者絵の中では最も有名なものの一つです。



 そんな訳で、馴染み深いこの絵について私なりに勉強したことを書いてみましょう。

 まず、これは役者絵でも大判の大首絵と言って、歌舞伎役者の顔が目立つように上半身だけを描き、比較的大きな紙に版画したものです。紙のサイズは、横26.5センチ、縦39.4センチ。B4(25.7×36.4)を少し縦長にした大きさですから、それほど大きくはありません。「大判の大首絵」というのは現代の呼び方で、当時は「大錦」(大きな錦絵のこと)、「大顔絵」と呼んでいたようです。写楽の大首絵は、それほど顔が大きく描かれているわけではなく、写真でいうところのバストサイズです。ほかの絵師の役者絵には、もっと顔をアップにして、いかにも大首絵と呼ぶにふさわしいものがありますが、写楽の絵は、大首絵と言うほどではありません。厳密には半身像です。
 次に、絵の中にこの絵を描いた絵師(画工)の名前と極印(きわめいん)と版元(板元とも書く)の商標があります。「東洲斎寫樂」、○の中に「極」の印字、富士山の下に蔦の葉をあしらったマークです。
 極印というのは、寛永2年(1790年)に時の幕府(松平定信が老中首座にあり、いわゆる寛政の改革を推進中)が政令を定め、出版する浮世絵に押すことを義務付けた検閲印のことで、寛政3年から施行されるようになったそうです。検閲にあたったのは、版元である地本問屋(じほんといや=草双紙、絵本、浮世絵などの出版販売店)の仲間(組合のこと)から当番制で選ばれた「行事」(検閲官)で、印刷出版する前に版下を見て、許可を出し、極印を押すようになったといいます。寛政年間に入り出版物に対する幕府の取締りが厳しくなったとはいえ、この頃はまだ版元の自主規制だったわけで、天保13年(1842年)まではこの制度が続き、その後さらに取締りが厳しくなるのですが、それはさておき、浮世絵にこの極印があると、その絵が寛政3年(1791年)以降に出版されたものだということが分かるそうです。現在、浮世絵の制作年代を鑑定する手がかりになっています。
 次に富士山に蔦の葉のマークですが、これは版元の蔦屋重三郎(略称を蔦重、商号は耕書堂)の商標です。蔦屋重三郎は、安永期半ば(1775年ごろ)から天明期(1781年~88年)にかけて急成長した新興の地本問屋の店主で、寛政期前半(1789年~95年)に浮世絵では歌麿を売り出し、続いて写楽を世に出した名うての版元ですが、この偉大なプロデューサーについては、いずれまた詳しく書くことにします。

 戻って、写楽のこの役者絵ですが、画題も役者の屋号も役名も書いてありませんが、専門家の研究によって「市川鰕蔵の竹村定之進」、寛政6年(1794年)5月に河原崎座で上演された時の姿を描いた絵と確定しています。
 絵を見ると、柿色の着物に紋がありますが、これは「三升(みます)」といって、大中小の三つの枡を重ねた形で、市川団十郎一門の定紋です。年代から言って、五代目市川団十郎だということが分かります。安永・天明期の江戸歌舞伎の偉大な名優で、寛政3年11月(顔見世興行)に市川鰕蔵を名乗り、六代目団十郎は息子に襲名させます。海老蔵ではなく鰕蔵としたのは、狂歌も好んで詠んだ洒脱な五代目(狂名は「花道のつらね」)が、自分は雑魚(ざこ)えびなので鰕(「蝦」ではなく正式には魚へん)の字を使うと言って決めたそうです。(つづく)


写楽論(その1)~石森史郎著「東洲斎写楽」

2014年04月21日 03時59分17秒 | 写楽論
 これから写楽論を書いていきたいと思います。
 写楽に関して、というより浮世絵に関しては、以前からずっと興味があり、絵を見たり、断続的に本を読んだりしてきたのですが、なぜかこの数年の間に写楽に関する本を書いたお二人の方と親しくなり、その影響が導火線ように伝わってきて、最近私の好奇心にパッと点火し、燃え出しました。
 お一人は、シナリオ作家の石森史郎(ふみお)さんです。石森さんとは、私が上映会を催している映画スター中村錦之助との関わりで知り合うようになったので、実はご本人と写楽の話はほとんどしたことがありません。とはいうものの、石森さんが出された本はだいたい読んでいるので、その奇想天外な写楽論も知っているわけです。
 石森史郎さんの本は、「東洲斎写楽 SHARAKU WHO?」(1996年 五月書房)という小説で、「写楽=イギリス人画家シャーロック」説を壮大なスケールで展開したものです。この本は石森さんからいただいて、すぐに読みました。いかにも石森さんらしいエンターテイメント性豊かな奇想天外な時代小説です。五年ほど前に一度読んだきりで、内容はもうはっきり憶えていませんが、シナリオ作家だけあって映画のような構成でした。



 ファーストシーンは、フランス革命後のパリ。1793年11月、コンコルド広場で処刑されるマリー・アントワネットを、ギロチン台の近くで凝視しながらスケッチしている高貴なイギリス人青年が登場します。1793年は日本の寛政5年にあたり、写楽が役者絵を描いてデビューする前年です。この青年がほかならぬ、後の写楽なのですが、場面変わり、今度は日本の南房総。幕府の禁制に触れ、江戸払いになった版元の蔦屋重三郎が、ある寺を訪ねます。住職から重三郎は寺で絵ばかり描いている風変わりな男を紹介されます。その絵に感動した重三郎は、驚くべき秘密を知るのでした。この男は紅毛碧眼の外国の貴人で、近海で自分の船が難破し、ここに漂着したのを漁師に助けられ、村の寺にかくまわれていたのです。彼を世話する漁師の美しい娘との間に愛も芽生えていました。重三郎はこの男に覆面をさせて江戸へ連れて行き、極秘裏に役者絵を描かせます。そして、男の名のシャーロックにちなみ「写楽」と名づけ、大々的に絵を売り出します。
 それからいろいろあって、ラストは、写楽ことシャーロックが、愛する日本の娘とともに母国イギリスへ向けて、密航船で旅立っていく。そんな終り方だったと思います。
 
 ところでシャーロックという名前ですが、コナン・ドイルが生んだ名探偵はシャーロック(Sherlock)・ホームズです。石森さんは、この名前からヒントを得て、写楽→しゃらく→シャーロックという連想で、写楽をイギリス人という設定にしたのだと思います。ただ、シャーロックという名前は、イギリスではめったに聞かず、コナン・ドイルが創り出した名前のようなので、石森さんのこの本を読んだ時に、どうなのかなあ、と思ったことを憶えています。
 「東洲斎写楽 SHARAKU WHO?」は、石森さんから面白いからぜひ読んでみなさいと言われて贈呈された本なのですが、しばらく経って、石森さんから電話があり、
「ぼくの写楽、読んだ?」
「はい、奇抜な発想でとても面白かったです」
「そうだろ。ところでさあ、その本、あなたに上げたら、ぼくのところに本が一冊もなくなっちゃってね。悪いけど、それ返してくれない?」
私は、笹塚の古本屋でこの本を見かけたことがあったので、まだ売れていないと思い、
「いいですよ、もう読んじゃったし。この間、古本屋で見かけたんで、今度それ買っておきますよ」
と言って、本を送り返したのでした。結局、古本屋で石森さんの「写楽」を買い、今もその本は書棚に置いてあります。今度また暇をみて、読み返してみようと思っています。
 
 石森史郎さんは、昭和6年生まれで、現在82歳。今も現役で、シナリオ、小説、評伝と書きまくっておられます。高田馬場でずっとシナリオ青春塾を続け、石森先生を慕うお弟子さんに囲まれています。
 「東洲斎写楽 SHARAKU WHO?」は、石森さんが遊び心で書いた空想娯楽小説です。「写楽=××」説をテーマにこれまで数多くの評論、小説が発行されてきました。新しく発行されたものもあるようです。しかし、どれもフィクションで、小説と銘打った読み物ならいいのですが、なかには学術書を気取り、自説を独善的に押し通そうとする著書もあります。写楽に取り憑かれた美術評論家もいましたし、今もいることでしょう。在野の浮世絵愛好者で、写楽の謎解きに夢中になっている人もたくさんいるようです。
 私は、できる限り醒めた頭で、冷静に写楽論を書いていこうと思っていますが、どうなることやら……。