背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その9)~役者絵の変遷

2014年04月26日 23時55分07秒 | 写楽論
 ここで、少し写楽から離れて、寛永期以前(一世紀遡ります)の役者絵の変遷と、写楽が登場する少し前(寛永期初め)の役者絵の制作状況について触れておきましょう。

 役者絵は、古くは鳥居派の絵師たちの専売特許のようなものでした。
 鳥居派の祖は鳥居清信(1664~1729)です。彼は父親(元信)とともに大坂から江戸に上り、市村座を拠点に江戸の各座で看板絵や絵番付を描くことから始めます。そして、元禄期に人気役者の、現代で言うポスターやブロマイドといった役者絵を描き、普及させていきます。これは、江戸歌舞伎に初代市川団十郎(1660~1704)が現れ、立役の荒事芸で江戸庶民に大人気を博し、歌舞伎が興隆した時期と重なっています。歌舞伎ファンが増え、人気役者が次々に現れるにしたがい、役者絵が美人画と並ぶ浮世絵の一大ジャンルになっていくわけです。


 清信 二代目団十郎 18世紀初め

 鳥居派は清倍(きよます)、二代目清倍、清満(きよみつ)と続き、多くの弟子たちを集め、数十年間、歌舞伎関係の絵を独占していきます。鳥居清満(1735~85)の時代に、多色摺りの錦絵が開発され、清満も錦絵の役者絵を描き始めますが、それまではシンプルな紅擦絵(べにずりえ 墨摺りに紅色、黄色、緑色の単色を摺り加えた版画)でした。そのまた前はずっと、墨摺りの上に手で漆(うるし)や色を手で描き加えるといった漆絵や丹絵(たんえ)でした。

 しかし、鳥居派の役者絵はマンネリ化します。「瓢箪足・蚯蚓描」(ひょうたんあし・みみずがき)と呼ばれるものがその典型です。瓢箪足は、筋肉を表すために手足にくびれを入れ、ひょうたんのように描いた画法で、蚯蚓描は、くねるような太い描線のことです。どちらも、江戸歌舞伎の荒事芸を描くために、仁王像などの仏像や仏画を参照して工夫したダイナミックな画法だったのですが、役者の顔に個性がなく、類型的な描き方になっていました。

 明和期半ばに勝川春章(1726~93)が現れ、役者の特徴をつかんだ写実的な役者絵を描き始め、革新的な画風で一世を風靡します。明和7年(1770年)、一筆斎文調(生没年不明)と共作で役者たちの似顔絵本「絵本舞台扇」を出して人気を呼び、続いて「東扇」(あずまおおぎ)というシリーズで大判の役者絵を出していきます。


 春章 「東扇」中村仲蔵の斧定九郎 

 一筆斎文調が断筆して消えた後も春章は、安永期(1772年~80年)から天明期(1781年~88年)前半にかけ、数多くの写実的な役者絵を描き、一家を成して門弟を育てます。鳥居派に対抗して勝川派が勢力を拡大します。その中から、勝川春好、春英、春朗(のちの北斎)、春潮らが頭角を現し、師匠の春章は版下絵の制作を弟子達たちに譲って、自らは肉筆の美人画に専念していきます。役者の大首絵も春章が「東扇」シリーズで先鞭をつけ、春好、春英がそれを引き継ぎます。春朗(北斎)は、全身像が多く、大首絵はあまり描かなかったようです
 勝川春好(1743~1812)は、半身像の大首絵から、顔をクローズアップした大顔絵を描いて、役者絵に新な境地を開きますが、40代半ばの働き盛りに中風で右手が利かなくなり、左手一本で描き続けます。そのため、寛永期には寡作になり、本の挿絵だけを描いて、浮世絵の版下絵は描かなくなります。


 春好 坂田半五郎(初代)

 勝川春英(1762~1819)は、前回も触れたように春章門下の逸材で、若くして才能を開花させ、師の春章と兄弟子の春好に代わって、役者絵のエキスパートになっていきます。


 春英 中村仲蔵と団十郎(五代目)

 勝川春朗(1760?~1849)は、のちの北斎ですが、寛永6年に勝川派を破門されるまでは、精力的に役者絵や黄表紙の挿絵などを描いていました。

 一方、鳥居派からは鳥居清長(1752~1815)が現れ、安永期から天明期中心に活躍し、実力人気ともに浮世絵界のトップに立ちます。清長は、若い頃は役者絵をかなり描いていたのですが、次第に美人画が多くなり、天明期に入ると独自の画風を確立して、美人画の名手としての評価を不動にします。清長の描いた役者絵では、いわゆる「出語り図」(演じられた舞台の一瞬間を再現した絵で、複数の役者のほかに囃し方の人たちも描いている)が有名ですが、鳥居派のお家芸であった典型的な役者絵はほとんど描かなくなってしまいます。清長が活躍を始めた頃にはすでに春章の役者絵が定評を得ていたので、それを意識して、あえて美人画の道を歩んだのではないかと言われています。


 清長 岩井半四郎と澤村源之助
 
 寛政期に入り、役者絵を描いていたのは、勝川派の春英、春童、春泉たちだったようです。春童(しゅんどう)は春章の古参弟子、春泉(しゅんせん)は春章の末弟で、二人とも師に倣った細判の役者絵を描き、とくに春泉(しゅんせん)の役者絵は、手の描き方などは後の写楽の通じるものが見られるそうです。勝川派にもう一人、春艶(しゅんえん 生没年不明)という絵師がいて、寛政期の半ば、写楽とほぼ同時期に役者絵を描いていたそうですが、寛永8年以降の作品は見つからず、どうやら消えてしまったらしい。写楽と画風が似ているといわれる謎の絵師です。 
 美人画では、寛政2年頃から喜多川歌麿が大判の半身像を描いて、時代を画する目覚しい活躍を始めます。版元はずっと歌麿の面倒を見てきた蔦屋重三郎でした。歌麿は、白雲母摺の背景に美人像を描いて人気を博し、浮世絵界のトップに躍り出ます。しかし、売れっ子になると、蔦屋から離れ、さまざまな版元から絵を出し始めます。これは蔦屋にとっては大きな打撃でした。歌麿は美人画に専念し出してからは役者絵を描かなかったので、蔦屋はずっと役者絵の描ける絵師を探していたようです。しばらくは春朗(北斎)に役者絵を描かせていて、寛永5年頃には春英に依頼して役者の大首絵を描かせたのですが、蔦屋の意に添わなかったのか、春英との仕事は長続きしませんでした。
 寛永6年正月、歌川豊国が版元和泉屋からシリーズ「役者舞台姿絵」を出して華々しく登場します。蔦屋は指をくわえて見ているわけにいきません。その時、やっとこれぞと思う絵師を発見しました。それが写楽でした。蔦屋がどういう経緯で写楽と出会ったのかは、今のところまったく分かりません。


写楽論(その8)~敵役二人

2014年04月26日 05時14分26秒 | 写楽論
 歌舞伎で演じられる役には、老若男女、善悪、さまざまな役柄がありますが、写楽が描いた役者大首絵の中では男の悪役に個性的なものが多いと思います。
 悪役で最も重要な役は、実悪(じつあく)と呼ばれる敵役(かたきやく)で、とくに仇討物の敵役は大役です。たとえば、「仮名手本忠臣蔵」の高師直(こうのもろなお)、曽我物の工藤祐経(すけつね)がそうです。
 寛永6年5月の都座と桐座では同時に仇討物がかかりました。「花菖蒲文禄曽我」(はなしょうぶぶんろくそが)と「敵討乗合話」(かたきうちのりわいばなし)です。前者は男の兄弟二人が父と長兄の敵(かたき)を討つ話で、後者は女の姉妹二人が父の敵を討つ話でした。どちらも実際に起こった仇討事件を芝居化したもので、前者は曽我兄弟の仇討物語になぞって、脚色したようです。曽我兄弟が仇討を遂げたのは、5月28日(1193年)のことだったので、それため5月は曽我兄弟をしのぶ月間として、江戸歌舞伎でも曽我物を上演することが多かったそうです。
 さて、問題の敵役ですが、「文禄曽我」の敵役は藤川水右衛門、「敵討乗合話」の敵役は志賀大七。この二人を描いた写楽の絵を取り上げてみましょう。


 二代目半五郎の藤川水右衛門

 藤川水右衛門は、坂田半五郎(三代目)という役者が演じました。当時39歳、年俸350両。中堅の悪役メインの人気役者で、脂(あぶら)がのり始めた頃のようです。師匠の先代坂田半五郎(二代目)は「江戸実悪随一」とまで言われた名悪役で、藤川水右衛門というこの役も得意にしていたそうです。それを三代目半五郎がこの時演じたのですが、先代に負けじとがんばったはずです。この役者は、翌年(寛政7年)、惜しくも40歳で亡くなってしまいました。
 写楽の絵を見る限りでは、まだ少し若くて、悪役の貫禄が出てない感じも受けます。眉を上げ、より目で、への字形に曲げた口、突き出した首。そこに憎々しさが表されています。こめかみの左右にほつれ毛が一本ずつあり、下膨れの顎にうっすらと無精ひげが見えます。浪人なのでしょう。この絵は、黒のモノトーンで、よく見ると袖から少しだけ覗いている肌着(裏地かも)がうぐいす色で、色はこれだけ。黒襟と着物の柄も良く、左手のかいなにある黒い線は入れ墨なのでしょうか。
 ところで、歌川豊国が半五郎の全身像を描いた大判の役者絵があります。豊国の「役者舞台姿絵」シリーズの1点で、写楽の絵が出された同じ5月に同じ役の藤川水右衛門を描いたものだとされています。しかし、髪形も着物も写楽の絵とは全然違います。豊国は、舞台を見ずに、興行の前にこの絵を描いたのかもしれません。さもなけれが、違った場面なのでしょうか。タイトルの下に書いてある「正月屋」は坂田半五郎の屋号なので、半五郎を描いたことは間違いありません。
 

 豊国 二代目半五郎の藤川水右衛門

 この絵の版元は和泉屋市兵衛(通称「泉市」)。芝神明前(現・芝大門)を本拠に、蔦屋重三郎の後に続いて、のし上がってきた地本問屋です。地元出身の若き豊国(二十代前半)をスカウトし、写楽がデビューする4ヶ月前(寛永6年1月)から豊国に「役者舞台姿絵」シリーズ(翌々年の寛永8年まで続き、約40点が現存)を描かせて、売り出しています。豊国が一躍有名になるのは、この連作の役者絵を発表してからなのですが、和泉屋に一歩リードされた形の蔦屋が写楽の黒雲母摺大首絵を引っさげて、役者絵市場に参入したのが、この5月だったわけです。和泉屋VS蔦屋、豊国VS写楽、全身像の立ち姿VS半身像の似顔。熾烈な戦いが5月に繰り広げられます。軍配はどうやら、前者に上がったようです。若い頃の豊国の役者絵は、実にセンスがよく、役者の立ち姿も見事に決まっています。
 この絵も、赤鞘の長刀二本と体のひねり具合のバランスが非常に良く、背景も薄い色の無地ですっきりしています。左下にヘビがいますが、水右衛門はヘビを操るらしく、「蛇侍」という異名があるそうです。

 次に、また写楽の描いた敵役を挙げます。
 志賀大七は、市川高麗蔵(こまぞう 三代目)が演じました。エリートの人気役者で、立役の大物・松本幸四郎(四代目)の息子です。当時31歳、年俸550両。彼はこの7年後に五代目幸四郎を襲名し、30年以上の長きにわたって活躍します。外国人のように鼻が高いので、仇名が「鼻高幸四郎」。江戸後期の名優です。実悪専門で、当り役は、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、「忠臣蔵」の高師直、「義経千本桜」の権太、「先代萩」の仁木弾正など。彼が作り出した型は、後世まで伝承されているそうです。
 

 高麗蔵の志賀大七

 さて、写楽の絵ですが、高麗蔵の顔をやや誇張し、長顔で、鼻も長くて高く、顎も長めに描いています。この役者は、背も大変高かったのではないかと思います。この絵も黒のモノトーンに近い。着物は無地の黒。わずかに使った色は、目張りの赤、裏地の濃緑色(ちらっと赤い切れ端が見える)、刀の柄の黄土色。懐から出した右手が刀の柄の先を握っていますが、手が小さく、やや不自然な気がします。
 前に掲げた藤川水右衛門の姿のように体の動きはなく、のそっと突っ立ているだけですが、なかなか雰囲気があると思います。
 三代目高麗蔵(鼻高幸四郎)の役者絵はたくさんあります。写楽だけでなく、いろいろな絵師が描いていますが、同時代の天才絵師・勝川春英(しゅんえい)が描いた高麗蔵の大首絵を掲げておきます。春英は、役者絵の大家勝川春章(しゅんしょう)門下の逸材で、17歳でデビューし、写楽が登場する10年以上前から役者絵を描き始め、人気のあった絵師です。下に掲げる絵は、寛永2年7月に描かれた絵だと言われています。役名は「忠臣蔵」の斧定九郎です。
 写楽の絵と見比べてみるのも良いでしょう。


 勝川春英 高麗蔵の斧定九郎