背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その13)~異版と発売枚数

2014年04月29日 21時21分59秒 | 写楽論
 

 上に掲げた二枚の絵は、どちらも写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」ですが、左側は現在シカゴ美術館が所蔵している作品、右側は現在ハーバード大学が所蔵している作品です。二つを見比べてみるとすぐにお分かりになると思いますが、着物の色が違います。右の絵の着物は柿色ですが、左は黄色です。変色したわけではないそうです。
 これは異版と言って、摺る時期が違っていたため、使う染料を変えてしまった結果、起ったことだそうです。この時代の手作業の多色摺りの版画では、一日に多くて二百枚仕上げたと言われていますが、数日後か数週間後か数ヶ月後かは分かりませんが、時期を隔てて再版した時には、仕上がりが違ってしまうことがよくあったそうです。 
 それにしても、柿色と黄色の色違いはどうしたことなのでしょうか。
 摺り師が初版の時と違う人に変わって、サンプルがなくて分からないまま、色を変えてしまったのか。再版の時には写楽が立ち会わずに、色の指定をしなかったのか。写楽があえて違う色に変えたのか。柿色が初版で、黄色が再版なのか、あるいはその逆だったのか。
 なにもかも分からないのです。
 雑誌「太陽」(昭和50年2月号 平凡社)の「写楽」特集号の座談会で、美術評論家の瀬木慎一が、写楽の絵の140何枚のうち5分の1くらいに異版があって、その数の多さを指摘し、「鰕蔵の竹村定之進」は柿色の方が多く、役柄から言っても柿色でなければいけないと述べています。そして、演劇評論家の戸板康二は、柿色が団十郎の家の色だから当然だと言っていますが、歌舞伎の名門にはその家独特の色があることを私は初めて知りました。
 団十郎家にゆかりのある柿色が正しい版だとして、なぜ山吹色の版が摺られたのか、また、どちらが初版で、再版はいつごろ摺られたのか。
 これについては、はっきりしないままでした。もしかすると、初版は黄色で摺ってしまい、あとで団十郎家の色は柿色だと分かって、あるいはクレームがついて、再版で柿色のものに摺り直したのではないでしょうか。これは、あくまでも私の推測です。初版は柿色で摺って、再版で黄色に変えるというのは、どうも不自然な気がします。瀬木慎一は版木が残っていて、ずっとあとになって(天保期の終わりに写楽の絵が再評価?されたと言っていますが)、再版したのではないかと述べています。しかし、そんなことはあり得ないと思います。現代の出版社でもあるまいし、版木が残っているわけがない。版木というのは、削り直して、再利用するものだからです。どうも瀬木慎一という美術評論家は、思いつきをすぐ口にしたり、確証もないことを文章にするので、信用できないと私は思っています。それは、ともかく、分かることは、写楽の第1期(寛政6年5月)の大判の大首絵(28種)に異版が多く、第1期の絵はたくさん摺られたということだけのようです。
 とくに「鰕蔵の竹村定之進」は当代一の名優の絵でもあり、おそらくいちばん多く摺られ、また売れ行きも良かったのではないでしょうか。この絵は世界中に20数枚現存すると言われ、写楽の絵ではいちばん多く残っているそうです。持ち主がこの立派な名優の絵を大切に保管していたこともあるでしょうが、たくさん摺られたことは間違いないと思います。
 では、何枚くらいなのでしょうか。1000枚以上なのか、2、300枚なのか、それとももっと少ないのか。これもはっきりしません。
 第1期の写楽の大判の大首絵はどれも、背景が黒雲母摺(くろきらずり)と言って、雲母(うんも=光るので「きら」、「きらら」とも言い、六角板状の結晶をなす珪酸塩鉱物で、花崗岩などに含まれる)の粉に糊か膠(にかわ=当時の接着剤)を混ぜ、擦りつけた(あるいは塗りつけた)豪華版でした。今、絵を見ると、雲母が剥げて光沢が消えてしまっていますが、新品は、キラキラと黒光りして鏡のようだったそうです。
 写楽の大首絵は、人物の衣裳の色も模様もシンプルです。墨と肌の色を除くと、使っている色は2色ないし3色で、これは黒光りする背景に合わせて考えた配色だったと思います。その点、摺りやすかったのではないでしょうか。また、描線も少なく、模様も細かくないので、版木も彫りやすかったのではないかと思います。写楽の絵が出る三年ほど前に同じ版元の蔦屋から出された歌麿の美人の大首絵は、髪の毛や着物の柄もずっと細密で、手間がかかったと思います。写楽の大首絵は意外と制作工程がスムーズだったのではないでしょうか。そうでないと、同時期に約三十種類も一気に発行することなどできません。
 大判で黒雲母摺というのは、費用がかかったと思いますが、材料の雲母が、どれほど高いものなのか、また、一枚あたりの原価がどのくらいかかり、普通の大判の地潰し(背景を単色で塗りつぶすように摺ること)に比べて、どのくらい高くつくのか。これも私にはまったく分かりません。ただ、写楽の大首絵は背景が黒光りし、人物も引き立って見えるので、豪華に見えたことは確かだと思います。
「鰕蔵の竹村定之進」は、1枚いくらで売ったのでしょうか。1枚ずつのバラ売りだったのか、それとも他の絵とセットにして3枚とか5枚とかまとめて、箱入りにでもして売ったのでしょうか。版元は蔦屋ですが、第1期の写楽の大首絵(現存するの絵の種類は28点)は、かなり高い値段で売ったのではないかと思います。第1弾・約30枚の大首絵は十分採算が取れて、儲かったのだと思います。それでなければ、第2弾、第3弾と出すわけがないと思います。



写楽論(その12)~内田千鶴子さんとの出会い

2014年04月29日 06時22分55秒 | 写楽論
 内田千鶴子さんに初めてお会いしたのは、今から2年ほど前(平成24年1月29日)、ご主人の内田有作さんのお別れの会でのことでした。中野サンプラザの10何階かにある大きなホールで、夕方からの会だったと思います。内田有作さんは映画監督の内田吐夢のご次男で、平成23年12月7日、77歳で大腸ガンのため亡くなりました。お葬式は内輪だけの密葬だったので、翌年1月の最終日曜に、親しくしていた方たちを集めてお別れの会を開いたのです。喪主は千鶴子さんでした。
 私は、中村錦之助の映画ファンの会の代表をしながら、上映活動を行なったり、映画の本も編集制作しているものですから、錦之助主演の『宮本武蔵』五部作などを作った監督の内田吐夢についても以前からずっと関心がありました。そうした関係から、平成22年(2010年)夏、私が企画推進役になって、池袋の新文芸坐で内田吐夢没後40年の追悼上映会を催すことになりました。
 あれは確か5月の半ばだったと思いますが、内田有作さんに初めてお会いして協力をお願いしたのです。その時のことは今でも記憶に鮮やかで、有作さんとまるで十年来の知り合いのように意気投合して、朝まで飲み明かしました。有作さんは1970年代初めに東映生田スタジオの所長をしていて、「仮面ライダー」の生みの親の一人として有名なのですが、私はそっちの方はほとんど無知で、関心があるのはお父さんの内田吐夢だったので、その話ばかりしていたと思います。それから、有作さんとのお付き合いが始まって、お会いするといつも朝まで飲みながら話していました。上映会に際し、私が「内田吐夢の全貌」という記念本を作れたのも、有作さんの絶大な支援があったためです。
 奥さんの話も時々お聞きして、「写楽を探せ」という本も有作さんからいただきました。その時、ざっとですが、この本を読みました。内田千鶴子さんが20年近く写楽の研究をしていて、能役者の斎藤十郎兵衛が写楽だったという事実を突き止めているかけているという内容でした。 



 そして、内田吐夢が晩年、最後の大作として「写楽」という映画を作りたいと思い、構想まで練っていたことも知りました。千鶴子さんは、1970年に内田吐夢が亡くなってから、有作さんと結婚したのですが、写楽を研究するきっかけになったのは、内田吐夢がシナリオ作家の水木洋子に書いて、結局投函しなった長文の手紙だったそうです。その手紙の文章は、「写楽を探せ」に掲載されています。
 内田吐夢の上映会は、8月の夏の真っ盛りだったのですが、10日間大盛況でした。おそらくあれほど豪華なトークゲストを招いた上映会は、後にも先にもなかったと思います。淡島千景、有馬稲子、丘さとみ、水谷八重子、風見章子、星美智子のみなさん、そして、マルハン(大手パチンコチェーンで新文芸坐の経営主)の韓昌祐(ハンチャンウ)会長も初日にお祝いにいらしてくれました。有作さんもトークショーで挨拶されました。
 話が長くなりましたが、千鶴子さんにお会いしたのは、有作さんが亡くなってからで、お別れ会の時は、挨拶程度で少ししかお話ししませんでした。それが、納骨、三回忌とお会いしているうちに、千鶴子さんと喫茶店へ行って、いろいろな話をするようになり、多分有作さんもあの世から笑って見ていると思うのですが、最近では月に一度くらいはいっしょに昼飯を食べたりするようになりました。この間も、門前仲町で待ち合わせ、富岡八幡の近くで名物の深川丼を食べ、川べりで桜の花見をしました。だいたいお互いの近況報告と世間話が多いのですが、時々写楽や浮世絵の話をすることもあります。それで、一ヶ月ほど前、思い立って、千鶴子さんの「宇宙をめざした北斎」(日本経済新聞出版社 2011年2月発行)ともう一度「写楽を探せ」を熟読してみたわけです。
 私は大学の頃、美学・芸術学を専門に勉強していて、昨年亡くなりましたが、世界的に有名な哲学者の今道友信先生の教えを受けたこともあり、近頃急に大学時代に不真面目だったことを反省して、まず手始めに何かと縁の深い写楽の浮世絵から勉強し直してみようと思うようになったわけです。