背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その20)~「浮世絵類考」(3)

2014年05月07日 23時38分23秒 | 写楽論
 今回は、大曲駒村編「浮世絵類考」を全編読んだ私の感想を書いてみたいと思います。
 この「浮世絵類考」は、昭和16年9月発行、小島烏水・序文、大曲駒村・校訂。限定300部の和綴の稀少本で国立国会図書館所蔵。大田南畝の原撰本に近く、笹屋邦教の付録、京伝の「追考」、三馬の補記が加えられたものです。
 本文を読んで感じたのは、南畝のコメントがずいぶん主観的であることです。好き嫌いがはっきりしていますし、絵師によってはバッサリ一刀両断みたいな文があって、面白く感じました。一筆斎文調は、「男女風俗、歌舞伎役者絵ともに拙き方也」で終わりです。歌舞伎堂(艶鏡)などは「役者の似顔のみ画きたれ共、甚(だ)つたなければ、半年ばかりにて行われず」です。蜀山人先生は、役者絵そのものがお好みじゃなかったようです。鈴木春信のところに、わざと、「春信一生歌舞伎役者の絵をかかずして曰く、我は大和絵師なり、何ぞ河原もの容を画くにたへんやと、其志かくの如し」と書いたことに、南畝の浮世絵観が表れていると思いました。役者絵を多く描いた勝川春章は、長々とエピソードまで書いていますけど、やや侮蔑的な書き方です。春好、春英は、横っちょに加えて、弟子で終わり。まあ、それに比べれば、写楽はましなほうでしょう。写楽の前にある国政についてのコメントは「歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす」で終わりです。南畝は、古い絵師については、敬意を表してかなり詳しく調べて書いていますが、同時代の若い絵師には関心がなさそうで、コメントも投げやりです。誰か若いヤツがあとで書き足せばいいんじゃないかと思ったのかもしれません。もしかすると後ろの方に挙げた絵師のコメントは、南畝自身のものではなく、人から聞いたことを書きとめただけのような気もします。それと、親しい友人の関係者には気を遣って、持ち上げて書いています。親しくしていた山東京伝(北尾政演)の師匠の北尾重政は、「近来錦絵の名手也」といった褒めようです。


石崎融思 「大田南畝肖像」(部分)(個人蔵)

「写楽論」を展開する上で大切だと思うことは、写楽のコメントのところばかりを重箱の隅をつつくように論じていないで、まず、太田南畝という当代一流の傑物(相当風変わりで偏屈なオジサンのようです)の浮世絵観やコメントの傾向の分析から出発しないとダメだと思います。南畝と蔦屋重三郎は友人というか、南畝は蔦重には吉原でずいぶん接待されて恩義があるわけですから、写楽のことを悪く書くわけにはいきません。だから、役者絵を描いている他の絵師に比べて、非常に好意的、同情的なコメントになっていると思います。それを写楽ファンの学者や評論家は、逆に受け取っています。みなさん、「類考」はちゃんと読んでいるとは思いますが、写楽を崇め奉っているからではないでしょうか。「あまりに真を画んとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず」というコメントは、簡潔に写楽の本質をついていると思います。他の絵師のコメントには、もっとそっけないものです。
 それから、三馬の補記ですが、南畝の意を汲んで、抜けているところを一生懸命補っているように感じられます。筆がすべって、どうでもいいようなコメントもありますけど。京伝の「追考」は、古い浮世絵師だけ詳しく書いて、途中で投げちゃっています。京伝は、晩年(といっても40代)、考証癖が出て、偉そうな文章になっています。先日、京伝の黄表紙を三つほど読みましたが、若い頃の文章は才気と独創力に満ち溢れています。が、「追考」は、個性のない詰まらない文章でした。京伝がいちばん同時代の絵師たちを知っているはずなのに、同時代の絵師については、写楽を含め、ノーコメントなのはどうしてなのでしょうか。三馬が補記を書いたいろいろな絵師の名を見ると、京伝が採り上げた絵師とダブっていないので、もしかすると南畝が三馬と京伝の二人に「類考」の補足を依頼して、割り当てを決めたのかもしれません。
 三馬は南畝を敬愛していたためか、この頃(文政年間の初めで、三馬はすでにベストセラー作家になっています)、忙しい上に病気がちだったのに、「類考」の補記を引き受けたのだと思います。この執筆も自ら買って出たのではないでしょうか。人に聞いたり、自分で調べたりして、几帳面に書いています。大先輩二人(京伝は死んだが、南畝は生存中)のあとに書き継ぐわけですから、いい加減に書くはずがない。「類考」は私家版で、写本で普及し始めたようですが、いつ出版されて世に出回るかも分からないし、まともな本ですから、三馬だってインチキなことは書けない。三馬が町の風説を信じ込んで、検証もせずに適当に書いたみたいことを言う学者がいますが(雑誌「太陽」の写楽特集号に由良哲次の文章がある)、そんなことはないと思います。写楽に関する三馬のコメントの「号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス、僅ニ半年余行ハルルノミ」は、三馬が確かだと思ったことを書いたはずです。
 写楽が登場した寛政6年、三馬は18歳、黄表紙の処女作を書いた頃のようです。父が版木師で、地本問屋に奉公に出された三馬は、出版業界のことは身をもって体験していた。三馬は、自分が扱っている本の売れっ子作家のようにいつか自分もなりたいと志していた人で、若い頃から、草双紙や浮世絵のことは、裏情報も含め、かなりよく知っていたはずです。同業人の知り合いも多かったと思う。写楽の正体も本当は知っていた可能性もあります。写楽に関しては、正体を明かしてはならない事情があって、関係者には緘口令がしかれていたのかもしれません。だから、三馬は、漠然と住んでいる場所だけ「江戸八丁堀」と書いた。東周斎の誤字は、「類考」を写した人が間違えたのかもしれません。
 三馬は、享和2年(1802年)発行の黄表紙「稗史億説年代記(くさぞうしこじつけねんだいき)」(三馬の自作自画)の巻頭「倭画巧名盡(やまとえのなづくし)」に古今の浮世絵師の流派別分布図を載せ(拙宅の書庫に有朋堂文庫「黄表紙十種」があり、そこに載っていたので見てみました)、孤島に写楽の名を記しているほどで、写楽を知っていたことは間違いありません。三馬がこの黄表紙を書いた享和2年は、山東京伝が「追考」を書き上げたのと同じ年で、写楽が消えたと言われる寛政7年(1795年)正月から約7年後のものです。


「倭画巧名盡(やまとえのなづくし)」の下段の図

 「寫樂」(旧字)の島は、真ん中の大きな島(昔の絵師たち)の右側に離れてあります。孤島なのは流派に属せず、独立して一家を成した絵師だということです。タイトルの下に、歌麿と北斎の島もあり、同じく孤島になっています。これで、三馬は、写楽のことを歌麿や北斎と同等の絵師として認めていたことが分かります。



写楽論(その19)~「浮世絵類考」(2)

2014年05月07日 00時55分11秒 | 写楽論
 浮世絵と浮世絵師に関し、寛政期に編まれた一種の事典が「浮世絵類考」です。編纂者は、安永・天明期から寛政期にかけて文化人のリーダー格であった文人・大田南畝(なんぽ 1749~1823 四方赤良、蜀山人ほか多くの別号がある)でした。
 南畝は、寛政7年から寛政12年(1800年)までに、代表的な絵師30数名を選択し、紹介文を付けて、本文を完成しました。これが「浮世絵考証」と呼ばれるものです。
 寛政12年(1800年)5月末、笹屋邦教(新七)作成の系譜「古今大和絵浮世絵始系」(版元鱗形屋から刊行)を南畝が書写して、付録として補綴します。笹屋邦教は「江戸・本銀町(ほんしろがねちょう)、縫箔(ぬいはく)屋主人」とありますが、経歴不詳。縫箔とは着物の模様に刺繍や金箔・銀箔の貼り込みをする職業です。
 享和2年(1802年)、戯作者で当時ベストセラー作家であった山東京伝(浮世絵師でもあり、画号は北尾政演)が「浮世絵類考追考」を書きます。これは、京伝が手書きして綴った私家版と言えるもので、「浮世絵類考」を参照しながら、さらに初期の浮世絵師を付け加えて文章を書き、菱川氏および英氏の系図も作成しました。同年10月に、京伝は「浮世絵類考追考」を脱稿します。この「追考」は、出版されずに京伝の家に保管されていて、文化13年(1816年)京伝が亡くなった後に、大田南畝のもとへと届けられたようです。
 文政元年(1818年)、南畝が、「類考」の本文と笹屋邦教の「付録」に、京伝の手書きの「追考」を加え、奥書を書いて、三部作として完成しました。
 これが、「浮世絵類考」の原本です。この本は出版されず、写本のみによって流布します。(原本そのものは、現在未発見)
 写楽についての記載は、本文中にのみあり(笹屋の付録にも京伝の「追考」にも写楽の名前はありません)、南畝が書いたとされる次の一文です(写本によって表記が多少異なります)
是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む
 文頭の「是また」というのは、写楽の前に国政の項があり、「歌舞伎役者の似顔をうつす事をよくす」という記述に続くため、加えられた語句です。国政(歌川国政)は写楽の後輩ですが、絵師の配列は、必ずしも年代順になっていません。国政の師匠の豊国があとに出てきたりします。
「あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば」という部分の解釈が問題です。まず、「真」と漢字の読みは、「しん」なのか「まこと」なのか、どちらにせよ、その意味は、「ありのまま」「偽りのないほんとうの姿」ということだと思います。「あらぬさま」の意味は、「違ったように」から一歩進めて、「とんでもない様子に」といった感じでしょう。つまり、現代語に直せば、「あまりにもありのままの顔を描こうとして、とんでもない様子に描いてしまったので」ということだと思います。
「ありのままの顔」を描こうとしたのは写楽の作画上の意図で、「とんでもない様子」というのは、役者や贔屓筋やファンにとっての絵を見た時の印象なのでしょう。
 さて、原本の「浮世絵類考」は、いろいろな人が南畝から借りて、筆写し始めます。大名の殿様から命令された家来や南畝が親しくしている文化人たちで、一字一句正確に写して、余計な書き込みを入れなかった人もいたでしょうが、多くの人は、筆写しながら、字を変えたり、間違えたり、さらには、自分のコメントをその時(あるいは後で)、余白に加えたりしました。その写本をまた別の人が借りて、筆写して、また同じことをしていくわけで、時期を経ながらあちこちにたくさんの写本が生まれていきました。
 現在、「浮世絵類考」は、国内外に120種以上の写本、異本が存在しているそうです。また、本の題名も「浮世絵画師名」「浮世絵師考」「浮世絵師姓名考」など、勝手に変えてしまったものもあるといいます。


「浮世絵類考」写本の一つ(国立国会図書館所蔵)
*南畝の本文に三馬の補記があるものです。

 南畝が生きている間に、原本を南畝自身から借りて筆写した人に、加藤曳尾庵(えいびあん)という元水戸藩士で開業医になった人物がいます。南畝とは知り合いです。文化12年(1815年)、曳尾庵は写本に加筆し、写楽について「筆力雅趣ありて賞すべし」とコメントを加えます。このいわゆる「曳尾庵本」は、京伝の追考のない(三馬の補記もない)写本で、南畝の原撰本に準拠しています。
 その後、文政4年ごろまでに、滑稽本「浮世風呂」「浮世床」を書いて人気作家になった式亭三馬(1776~1822)が三部作の原本に書き込みを入れます。これが三馬の「按記」(三馬按ズルニ……で書いた補記)と呼ばれるものです。「按(あん)ズル」とは、この場合「考える」「調べる」といった意味で、硬い言葉で言えば「考証する」ということなのでしょう。
 写楽については、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス。僅ニ半年余行ハルゝノミ」と書き加えます。号は東洲斎が正しく、「東周斎」の周は誤字です。
 三馬は、写楽が江戸の八丁堀に住んでいること(文政4年時点です)、そして、写楽の絵が刊行されたのは、「一両年」(本文)ではなく「わずか半年あまりにすぎなかった」ということを明示します。
 文政5年(1822年)1月、三馬、46歳で死去。
 文政6年(1823年)4月、大田南畝、75歳で死去。