背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その35)~これまでの総括と雑感

2014年05月24日 23時38分07秒 | 写楽論
 「諸家人名江戸方角分」と「浮世絵類考」について、長々と書いてきましたが、現在のところ私が考えていることをまとめてみます。

 まず、「諸家人名江戸方角分」は、後世の作ではないかという疑念が消えません。ここに書かれた情報は、写楽斎という浮世絵師が八丁堀の地蔵橋あたりに住んでいたが、文政元年までにすでに死亡している(死亡の表記はあとで付け加えたという説明もある)、ということだけです。地蔵橋という特定された地点が書かれていますが、写楽が八丁堀に住んでいるという記述は、「浮世絵類考」の三馬の補記にもあるわけですから、別にそれほど重視せずに、無視してもかまわないのではないかと思います。三馬がこの「江戸方角分」を見て補記を書いたとか、斎藤月岑が「江戸方角分」の記述から調査して、能役者の斎藤十郎兵衛を突き止めたとかいった推定は、根拠がないと思います。中野三敏氏ほか、「江戸方角分」にある大田南畝の奥書を信じて疑わない学者たちは、傍証も示して、これが本物だとぜひ証明していただきたい。著者でも編集者でもいいですが、三代目瀬川富三郎という人がどういう人物だということもよく分かっておらず、原本の存在も不確かで、写本が1冊、その転写本が1冊しかない「江戸方角分」を、文化14年頃に三代目瀬川富三郎が書いたものであると即断してしまう軽卒さは、学者としてのレベルの低さを露呈していると思います。
 次に、「浮世絵類考」の写楽についての三馬の補記ですが、八丁堀に住んでいるという情報は、町の風聞にしろ、重要なことです。三馬は写楽が誰だか知らなかったかもしれませんが、写楽という絵師の描いた役者絵を見ていたことは確かでしょうし、写楽が流派に属さない独特な絵師だという認識は持っていました。三馬の「稗史億説年代記」にある孤島で示した写楽の表記がそれを明らかにしています。
 「浮世絵類考」の補記で、最も重要なのは、栄松斎長喜老人が写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)という名だと言っていたという情報です。この朱筆の頭注を、誰がいつ書いたのかは分かりませんが、一応、後世のでっち上げではないのかということも疑ってかからなければならないと思います。それには、この頭注が書かれている二つの写本、「奈河本」と「達磨屋五一本」を比較し、頭注の筆跡を確かめ、詳細に検討してみる必要があります。この頭注は、私の推測では、天保2年以降に書かれたものであり、栄松斎長喜はすでに亡くなっていたと思われます。写楽が出現してから、30数年後の記載であり、なぜその頃になって、このような情報が飛び出したのか不思議な印象を受けます。
 斎藤月岑の補記、「斎藤十郎兵衛、阿波侯の能役者なり」は天保15年、写楽出現50年後の記述であり、これも何を根拠に書いたのかが不明です。しかし、月岑がこれを書いた以上、何か確かな情報をつかんでいたことは間違いありません。月岑は、「奈河本」も「達磨屋五一本」も当時見ていなかったことは確実ですが、「写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)」だという話を別のルートから入手したようです。「能役者」だということは、月岑が調査して突き止めたのではないかと思います。その時、月岑は、国学者の村田春海(故人)の家の隣りに阿波侯お抱えの斎藤与右衛門という能役者が住んでいて、その父が斎藤十郎兵衛ということを知ったのではないでしょうか。それにしても、写楽とこの斎藤十郎兵衛を結びつけるには、別の根拠がなくてはなりません。
 写楽=能役者斎藤十郎兵衛説で、いちばん弱いところは、斎藤十郎兵衛の画歴がまったく不明なことです。斎藤十郎兵衛という能役者が実在した人物であることは分かっていて、歿年も生年も家族構成もつかめているのですが、絵を描いていたという記録がまったくないわけです。また、版元の蔦屋重三郎との関係も分からず、そのつながりの細い線すら見えない状態にあります。写楽が描いた歌舞伎役者たちと斎藤十郎兵衛との関係も見えません。
 浮世絵師の英泉は「無名翁随筆」を書いた天保4年当時、写楽がどういう人物かについての情報をまったく知らなかったわけですが、斎藤月岑や「無名庵随筆」の写本を月岑に貸した石塚豊芥子がどこから写楽=阿波侯の士・斎藤十郎兵衛という情報を得たのか、いろいろな推測はできますが、立証資料がまったくありません。

 写楽という人物の捜索は、これまで主に四つの方面から行われてきました。
 一、画風と落款
 ニ、「浮世絵類考」の補記
 三、版元蔦屋重三郎とその周辺の人間関係
 四、歌舞伎役者および関係者
 ほかに、東洲斎写楽という名前の謎解きからの探究もあります。

 一は、これまでの写楽別人説の発生源でした。現在では、写楽=北斎説(田中政道氏)がそうです。能役者斎藤十郎兵衛説は、写楽の役者絵の顔が能面にそっくりだとする主張(定村忠士氏)、着物の文様が能衣裳から取ったとする主張(内田千鶴子氏)、写楽の二人像はシテとワキの構図であるという主張など。
 また、イタリアの美術史研究家のモレルリが発見した識別法を用い、写楽が描いた人物の耳と鼻の線の特徴から絵師を特定する研究もあります。松木寛氏の著書「蔦屋重三郎」には、写楽絵の耳の線の特徴から第一期・二期と第三期・四期は別の絵師であるという説が書かれています。
 私も第一期の大首絵と第三期の大首絵は、違う絵師が描いたとのではないかと思っています。初代写楽(東州斎)と二代目写楽存在説を私は考えています。 
 二については、写楽=能役者斎藤十郎兵衛説を肯定するか否定するかの出発点でしかなく、これ以上発展性がないような気もします。斎藤月岑とその関係者たちを調べて、能役者斎藤十郎兵衛説の根拠を調べるということも必要でしょうが、何か新しい事実が出て来るかどうか。
 三からは、蔦屋重三郎説、十返舎一九説、蔦屋工房の複数絵師説などが生まれています。榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」は、蔦屋重三郎論の先駆的研究で、読み応えがありますが、蔦重が写楽であるという立証はできませんでした。しかし、寛政の改革が始まってからの蔦重の動向についてはもっと調査しなければならないと思います。写楽という人物の来歴を知っていた最も重要な人物は蔦重であったことは絶対に間違いないからです。
 蔦重は寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で幕府から財産半減という処罰を受けたあと、経営上の危機に直面します。幕府の出版取締りで売れっ子作家が次々といなくなった上に、頼みの綱だった京伝の洒落本まで販売できなくなります。浮世絵では歌麿の美人画に望みを託しますが、それも寛永5年までで、その後、歌麿の離反もあり、この頃の蔦重は、死ぬほど悩んだのではないかと思います。しかし、蔦重は、聡明で発想も豊か、頭の切り替えも早い人物です。これは、ちらっと私の頭の片隅に浮かぶことなのですが、寛政6年前後に蔦重は京都大坂へ旅に行ったのではないか、そして、そこで役者絵を描いていた特異な才能を見つけ、のちに彼を江戸に呼んだのではないか。どうも私は、写楽が上方とつながりがあったような気がしてならないのです。写楽別人説には、上方の絵師の流光斎如圭だとする説があります。また、上方で活躍して江戸に下った沢村宗十郎や瀬川菊之丞との関係を重視する見方もあります。二人の絵をたくさん描いているからです。
 写楽の役者絵を見ていると、どうも江戸前ではないような感じがします。描き方が、エゲツナイのです。しゃれっ気もありません。春英や豊国や国政の大首絵と比べてみると、私なんかはこの三人の絵も大変好きなのですが(写楽がダントツに素晴らしいとは思いません)、なんか違う印象を受けます。
 四からは、池田満寿夫氏の中村此蔵説、歌舞伎研究者の渡辺保氏の狂言作者篠田金治説があります。どちらも根拠薄弱で、納得できませんが、ほとんど役者絵を描くことに終始した写楽が歌舞伎役者や関係者と深いつながりがあったという説は、もっと突き詰めてみなければならないと思っています。歌舞伎堂艶鏡=中村重助説に私は興味を覚えます。落合直成という人が大正時代に立証したとされていますが、その根拠を調べてみたい。また、以前に書きましたが、大谷鬼次が東洲という俳号で、中村助五郎が魚楽という俳号だったことも何かのヒントで、もっと調べると、東洲斎写楽という名前の謎が解けるかもしれない、と思っています。先日、榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」を読んでいたら、歌舞伎研究家の伊原青々園がそれを指摘していたことを知りました。写楽は、鬼次や助五郎と親しくしていたのではないかという意見です。

 この一ヶ月、写楽についていろいろな本を読んできましたが、現在私が興味を持っているのは、三と四からの捜索で、蔦屋重三郎と彼の周辺にいた絵師や作者たち、そして、歌舞伎役者と狂言作者たちの寛政6年前後の動向です。
 それと、写楽については、ゼロから出発した方が良いのではないかという気がしています。
 最近思うのですが、写楽は、「しゃらく」と読むのかどうかも分からないわけです。もしかすると、本人は「しゃがく」と読むつもりだったのかもしれません。写楽は、自分の画号「東洲齋寫樂」(落款通り旧字にしておきます)にだけは、非常にこだわっていたと思います。デビュー時から、斎号(一家を成した人物が使うもので、武家出身の本画師の使用例が多い)をつけ、五字で画数の多い、彫師泣かせの名前です。第一期・第二期の役者絵では、この画号を窮屈そうな余白に必ず入れています。時には二行にしても書き込んでいます。
 写楽は、その来歴をわざと隠したという見方も本当なのかなあと私は思っています。謎の絵師写楽が一人歩きして、後世の研究者が謎をふくらませすぎるようなきらいがあるのではないでしょうか。来歴、本名、生歿年など、写楽と同時代に活躍した浮世絵師の中にも、人物像がまったく分からない絵師がたくさんいます。喜多川歌麿だって、不明なことだらけなのです。栄松斎長喜も作画期が長いわりに、実像はまったくつかめていません。短期間で消えた絵師には、歌舞伎堂艶鏡、勝川春艶という謎の絵師もいます。まあ、写楽とは創作力と絵の素晴らしさの点で比較にはなりませんが……。
 浮世絵師というのは、町の絵描きで、職人の一種ですから、社会的身分も評価も低く、その絵を買って楽しむ庶民も、絵に描かれた人物や情景には興味を覚えても、絵師という人間に対してはにはほとんど関心がなかったのではないでしょうか。役者絵でいえば、描かれた役者にはものすごい興味を示しても、絵師にはその興味の10分の1もなかったように思います。ブロマイドを買って、スターの顔や姿に関心があっても、撮影者に関心がないとの同様です。
 絵師の本名、出身地、生家のことなどはどうでもよく、また第三者(たとえば戯作者)がそれを本人から聞いてどこかに書いておこうとすることもなかった、ということだと思います。要するに、作品がすべてで、売れるかどうかが勝負でした。江戸時代には、近代の個人主義といった観念はありません。独創性を重視する芸術家という意識もありません。人の絵を真似ても平気だったと思います。今で言う「パクリ」が平然と行われていたようです。ただし、浮世絵は職人芸ですから、同じ絵がそう簡単にできるわけではありません。
 写楽の絵は確かに独特ですが、近代美術の観点からそれを特別扱いするのは、問題があるような気がします。美術史研究者たちの写楽論は、読んでいて面白くありません。
 画家や詩人や小説家の写楽論の方がずっと面白く、写楽絵の愛好者(変わった人が多いようです)の写楽論も興味深いものがあります。
 


写楽論(その34)~「浮世絵類考」(8)

2014年05月24日 23時15分21秒 | 写楽論
その後の「浮世絵類考」の変遷史と写楽についての補記は以下の通りです。

 享和2年(1802)、山東京伝が「浮世絵類考追考」を書く。これは、京伝が手書きして綴った私家版と言えるもので、「浮世絵類考」を参照しながら、さらに初期の浮世絵師を付け加え、考証的な文を書き足したもの。菱川氏および英氏の系図も作成。同年10月に、京伝は「浮世絵類考追考」を脱稿する。
 ただし、京伝は写楽について一言も加えていない。

 文政元年(1818)、大田南畝が京伝(文化13年=1816年に死去)の私家版「浮世絵類考追考」を巻末に加え、「類考」本文、笹屋邦教の「付録」と合わせ、三部作として完成させる。
京伝の「追考」の後にある南畝の奥書は、

右追考 山東京伝手書本
    文政元年戊寅六月晦日            七十翁蜀山人


 文政元年(1818)から文政4年(1821)頃までに、式亭三馬(1776~1822)が本文、付録、追考の三部作に補記を書き込む。三馬が参照した「浮世絵類考」三部作は、南畝の稿本なのか、それとも誰かがそれを書写した写本だったのか、不明である。ともかく、三部作が完成して間もなく、それが三馬の手に渡ったことは間違いない。しかも、三馬は、時間をかけて、調査し、念入りに書き込んでいる。また、絵師によって書き足りないことは、「委シクハ別ニ記ス」と加えているように、別原稿を用意していたことは明らかである。三馬の自筆本は現存せず、おそらくかなりの分量の別原稿も、三馬の死(文政5年1月)によって、未定稿のまま消失したようである。
 写楽について、三馬の補記は、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス、僅ニ半年余行ハルゝノミ」(写本によって記述の多少の違いあり)である。
 「類考」研究者の由良哲次は、三馬の補記のある「類考」三部作で、最も原初段階に近い写本として、「スターン氏本」を挙げ、三馬の補記は、「三馬按るに写楽号東周斎江戸八町堀に住す僅に半年余行るといふ」とあると述べ、最後の「といふ」という伝聞表現を重視しています。つまり、三馬は、写楽の住所について、町の風聞を記したのであり、写楽のことを三馬はよく知らなかったという説を由良哲次はとっているわけです。また、句読点で区切るのも、原文に忠実ではなく、良くないと主張しています。
 由良哲次には遺作とも言える大著「総校日本浮世絵類考」(画文堂 昭和54年)があるが、私はまだ読んでいません。季刊「浮世絵」35・36号所収の由良哲次の論文によってその一端を知るだけです。また、文献学者の北小路健氏が美術雑誌「萌春」197号~246号(昭和46年3月~50年8月)に連載した「浮世絵類考論究」も類考研究にとっては定評のあるものらしいのですが、これも未読です。

 前回書いた古い写本に以下の二つを追加しておきます。
五、「神習本
 井上頼国旧蔵、現在神宮文庫所蔵。「浮世絵人名考」とあり、奥書に、
文化十年八月 以南畝翁蔵本写、野木瓜亭主人
 これは野木瓜亭こと大草公弼という幕臣で考証家だった人が所蔵していた写本だそうです。「曳尾庵本」(文化12年書写)より2年前の写本です。(前回書いた「曳尾庵本」について、曳尾庵は此君亭という人の写本を転写したことが分かりました。此君亭は、文化5年に写本を作成したとのこと)
「神習本」は「野木瓜亭本」とも呼ばれている写本で、その異本には写楽について次のような補記があることが知られています。

以画俳優肖像得時名又能油画号有隣享和元年卒

 後半が問題で、「また油絵をよくし、号を有隣、享和元年死去」という内容です。これは浮世絵研究者の井上和雄が雑誌「浮世絵」48号(大正8年6月)で紹介したもの。しかし、写本の転写本だそうで、本文と同一筆者が記入したのか、後の人の筆か判明しない(原本は所在不明)。(鈴木重三編、講談社版・浮世絵美人画役者絵6「写楽」より)

六、「坂田文庫本
 坂田文庫蔵、南葵文庫蔵、現在東京大学総合図書館所蔵。明治初期の外務省役人で古書収集家の坂田諸遠(もろとお)が所有していた写本。表紙に「浮世絵類考」、内題に「浮世絵師の伝」。奥書には、文政4年4月、不二の屋が写したといったことが書かれている。写楽については、朱筆で「イニ写楽斎トモ阿リ」と「東洲斎ト云」とある。また、その前ページに、国政の項があり、その次に、朱筆で「画名何ト云哉 俗名金次」とあり、その下に「薬研堀不動前通り、隅田川両岸一覧の筆者」と書いてある。これは葛飾北斎(文化3年に「隅田川両岸一覧」の画本を出している)の記述が混入したのではないかと言われている。

七、「風山本
 神宮文庫の木村黙老「聞ままの記」十六巻収録の「浮世絵師考」。奥書に「右者己が心覚えのために写し置くもの也 文政辛巳年季南呂初旬 風山漁者筆」とある。文政4年8月の写本である。
 写楽について、「東洲斎と号す俗名金次」と「隅田川両岸一覧の作者にてやけん堀不動前通りに住す」が書き加えられている。「坂田文庫本」(風山漁者という書写した人がこの元本を参照したのではないかと由良哲次は推測している)の不明確な記述が写楽の中に紛れ込んでいる。

 以上は、三馬の補記のない写本。
 次に三馬の補記のある写本は、数多くあるそうですが、代表的なものを以下に挙げておきます。

一、「スターン氏本」(季刊「浮世絵」35号所収の由良哲次「写楽と稗史億説年代記および浮世絵類考」に紹介がある)
 アメリカ人のスターン博士(ワシントン市、国立フリアガレリー副館長)所蔵の写本。最後のページの奥書に「天保二竜春三月十一日写之 相徳 蔵本」とある。つまり天保2年に書写されたもの。この写本の所有者は、転々と変わり、浮世絵師の国周、達磨屋五一、書店三原堂などを経て、スターン氏に渡ったという。現在この写本が所蔵場所、またコピーを閲覧できるのかも不明。

二、「松平本
 大曲駒村編「浮世絵類考」(近代デジタルライブラリーで閲覧可)が底本にしたもの。歌舞伎作者の奈河本助が蔵前の書店田中長次郎から購入し(天保2年4月8日)、美作津山藩主の松平確堂の所有になった写本。

三、「静嘉堂文庫本
 岩崎弥之助・小弥太の父子二代にわたるコレクション(静嘉堂文庫)に納められている写本。世田谷の静嘉堂美術館で閲覧可。

四、「酉山堂本
 酉山堂(ゆうざんどう)は、江戸時代後期の書肆で、主人は酉山堂保次郎。斎藤月岑が書き写して参照した「浮世絵類考」の写本は、この「酉山堂本」と呼ばれるもの。現在横浜市図書館が所蔵していて、その複製が国立国会図書館にある。狩野亮吉博士、三田村鳶魚が一時期所有していたと言われる。

五、「奈河本助本
 二と同じく奈河本助の所蔵本。現在内閣文庫にある。閲覧可。
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」という朱書の頭注がある。

六、「達磨屋吾一本
現在天理大学図書館所蔵。
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」という朱書の頭注がある。

ほかに、三馬の補記がある写本かどうか、今のところ未調査ですが、
故法室本」というのがあります。鈴木南稜の蔵書。内容も所蔵場所も私は未調査です。

 さて、その後の「浮世絵類考」増補本としては、
●渓斎英泉の「無名翁随筆」(=「続浮世絵類考」)
 天保4年(1833年)、浮世絵師・渓斎英泉が概説「大和絵師浮世絵之考」と「吾妻錦絵之考」を巻頭に置き、新たに浮世絵師(合計86名)を加え、本文も大幅に補記したもの。上下二巻。良写本見当たらず、国立国会図書館蔵の「燕石十種」所収の翻刻本があるのみ(ただし、「燕石十種」は昭和54年発行の中央公論社版がある)。写楽に「五代目白猿……」以下、描いた役者の名前の列記が加わる。ただし、「奈河本」「達磨屋五一本」に書き込まれた長喜からの伝聞の頭注はない。

●斎藤月岑の「増補浮世絵類考
 天保15年(1844年)、斎藤月岑(1804~1878)が「浮世絵類考」の写本と友人の石塚豊芥子所蔵の「無名翁随筆」を補記したもの。天地人の三巻。「ケンブリッジ本」(ケンブリッジ大学図書館所蔵)は、月岑の自筆本であり、増補版発行のための原稿というべきもの。「近世文芸 資料と考証」2号3号(七人社 板坂元編・棚町知弥翻字)に翻刻がある。ところどころに空白部が残っているようだが、月岑はまだ書き加えるつもりだったらしい。この原稿は月岑の生存中は、出版されなかった。途中で版元に渡さず、出版を断念したのではあるまいか?しかし、下記の新増補版がこの本をもとに作られたということは、この写本が出回ったことは確かである。
 斎藤月岑によって、写楽について、以下の記述がなされる。

○写 楽      天明寛政中の人
   俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり
 号 東洲斎
歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行れず、一両年にして止む 類考
  三馬云、僅に半年余行はるゝのみ
    五代目白猿 幸四郎(後京十郎と改) 半四郎 菊之丞 富十郎 広治 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に画、廻りに雲母を摺たるもの多し

 また、月岑の「増補浮世絵類考」は、明治24年刊「温知叢書」第四篇に収録されたものがあるが、この元本はケンブリッジ本より古いものらしく、写楽の「俗称斎藤十郎兵衛」と「阿波侯の能役者なり」の記載が入っていない。岩波文庫版の仲田勝之助編「浮世絵類考」によると、写楽の項は「無名翁随筆」と同内容だったらしく、岩波文庫の表記では、その記載は下記の「新増補浮世絵類考」初出となっている。戦後の写楽研究にとって、この岩波文庫版(戦後も続刊されたのだろうか?)の普及とその影響の大きさを考えると、写楽に関する「俗称斎藤……」以下の箇所が、【新】という表記で掲載されたことは、「新増補浮世絵類考」の信頼度の低さ(仲田もはしがきで、その編者を「龍田舎秋錦なるもの」と書いて、軽視している)を考え合わせると、その信憑性を不確かなものにした元凶だったといえるのではなかろうか。

●龍田舎錦秋の「新増補浮世絵類考
 慶應4年、龍田舎秋錦(この人物は不詳)が斎藤月岑の「増補浮世絵類考」を参照し、新たに絵師を加えて再編集し、序をつけて完成したもの。明治22年(1889年)、この「新増補浮世絵類考」は単行本化され、再版。近代ライブラリーで閲覧可。

 ほかに、書き込み入りの写本として、関根只誠の写本、三代目柳亭種彦の写本などがあるそうです。