背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その33)~「浮世絵類考」(7)

2014年05月23日 09時19分57秒 | 写楽論
 現存する「浮世絵類考」の写本、異本は国内外に120種以上あるとのことですが、そのうち原初段階の写本(「南畝原撰本」に最も近いもの)でよく知られているものが4種類あります。それを以下に挙げておきます。

一、「神宮文庫本
 伊勢神宮所蔵。高松藩家老 で文人の木村黙老(1774~1856)の自筆本「聞ままの記」(全83巻の49巻に所収)。「浮世絵考証」と題する。黙老が筆写した原本は、享和2年(1802)、蝦夷地探検家で有名な近藤重蔵(1771~1829)が山東京伝所蔵の「浮世絵類考」写本から転写したものだとされている。

二、「岩波文庫底本のT氏所蔵本
 岩波文庫「浮世絵類考」(昭和16年9月発行)の序文で編者の仲田勝之助が不明瞭にしか書いていないが、T氏(誰だか不明)が持っていた写本で、享和3年(1803)ごろに作成されたとのこと。佳本だと言っているが、このT氏本も現物は編者が目にしただけで、確かめようがない。仲田勝之助は、著名な美術評論家で写楽研究者でもあったが、学問的厳密さという点ではルーズで、T氏なる謎の人物の所蔵本を底本にし、その他、翻刻本の検証もせずに、岩波文庫で売り出したので、その功も罪も共に大きいと思う。
「浮世絵類考」の研究者で、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説を真っ向から否定した哲学者・由良哲次(1897~1979)は、岩波文庫版「浮世絵類考」を、「支離滅裂の感があるほどの雑収録である」と批判している。
 また、岩波文庫では、T氏所蔵本の記述にならい、見出しを「写楽」ではなく「写楽斎」にしているのも特異である。

三、「六樹園本」(白揚文庫本)
 文化5年(1808)8月、石川雅望(宿屋飯盛・六樹園)がおそらく南畝の原撰本から写して書き込みを入れた稿本を、文政9年に狂歌師の野四楼が転写したもの。「浮世絵師之考」という題名になっている。(北小路健氏が雑誌『萌春』に連載した「浮世絵類考 論究・10」に全文がある。加藤好夫氏「浮世絵文献資料館」に転載されている)

四、「曳尾庵本
 文化12年(1815年)、加藤曳尾庵が、南畝から直接原本を借りたか、あるいは山東京伝か南畝と親しい他の友人からその写本を借りて書写し、補記を加えた写本。曳尾庵本も、前述の写本2種同様、山東京伝の「追考」のない(三馬の補記もない)写本で、南畝原撰本に準拠している。しかし、曳尾庵の自筆本は未発見。その自筆本の写本の一つを古書収集家の林若樹(1875~1938)が所蔵していたが、その写本は現在行方不明。「曳尾庵本」として現在閲覧できるものは、昭和7年発行の「孚水ぶんこ臨時号」島田筑波校訂の翻刻本だけ。これは、昭和2年に三田村鳶魚が林若樹の蔵本を借り、一夜で書写したもので、誤記もあるとのこと。林若樹所蔵の写本自体も曳尾庵の自筆本ではないようなので、この翻刻本は、全幅の信頼は置けないといわれていると言われている。
 曳尾庵本では絵師の数は37人。写楽について「筆力雅趣ありて賞すべし」とコメントを加えたのは曳尾庵だとされている。

 曳尾庵による跋文を以下に引用しておきます。
*大曲駒村編「浮世絵類考」(昭和16年発行)のまえがき「翻刻に当りて」(昭和13年10月 校訂者の大曲駒村・記)からの引用。句読点は校訂者によるもの。

この書は蜀山人の編にして、寛政の初の比集められし物ならんか。予古老の談話につきて、猶其居所、事実を潤し侍る。今文化十余りの比までに至り、役者絵、錦絵むかしに倍して晴朗妖艶、奇品麗秀、今に過ぎたるものは後世にも有るべからずと思はる
文化十二亥のとし                   曳尾庵 戯誌


 ここで加藤曳尾庵は、「蜀山人の編纂で、寛政の初めのころ集められたものだろう」と書いています。「予古老の談話につきて、猶其居所、事実を潤し侍る」という文は、「私はお年寄りの談話にもとづいて、さらにその住所や事実を書き入れた」ということ。また、当時(文化十二年=1815年)における画風さまざまな浮世絵の流行を、「今に過ぎたるものは後世にも有るべからず」と述べています。
 加藤曳尾庵(1763~1829?)という人は江戸中期の医師、文人、俳諧師で、大田蜀山人ほど有名ではありませんが、経歴が変わって、調べてみると大変興味をそそられる人物です。
 宝暦13年、水戸の生まれで、幼名は平吉、水戸藩士沼田氏の三男。父と江戸に出て、水戸藩邸に勤めていたのですが、20代半ばで浪人になり、8年ほど諸国を遍歴し、寛政8年(1796)、34歳の時に江戸に定住。
 その後、幕府の奥医師から医術を学び、文化2年(1805)、下谷の医師加藤玄悦の看板「亀の甲医師」を継いで、神田須田町に町医を開業し、加藤玄亀(彦亀)と名乗ります。亀の甲医師というのは明和期から流行した歯科・咽喉科の医者で、入れ歯の材料に亀の甲を使ったのでその名の由来があるように思われますが、定かではありません。
 この頃から、曳尾庵は狂歌、俳諧、浄瑠璃、茶道をたしなみ、好古癖が昂じたようです。号は、曳尾庵のほかに長息、南水、召竹など。また、ライフワークとも言うべき、随想「我衣」の執筆を始めます。諸侯や文化人との付き合いも広がって、14歳年長の大田南畝をはじめ、同年代の山東京伝、山東京山(京伝の弟)、曲亭馬琴、谷文晁たちとも交流があったようです。
 文化9年、妻子を置いて旅へ出て、また江戸に戻ってからは一人身となって、住所を転々と変えます。文化11年2月、ようやく猿楽町の裏手に二間の小さな家を借り、妻子を呼んで落ち着きます。文化13年7月、知人の推挙を得て、麹町三宅侯(田原藩)のお抱え医師に登用され、同屋敷内に転居。文政2年3月まで勤めます。その間、同藩士・渡辺崋山と親交を結んでいます。以後は、板橋に寓居し、医業、手習いの師匠をして余生を送り、文政12年ごろ亡くなったと推定されます。(参考文献:幸田成友「『我衣』とその著者」明治43年)
 主著「我衣」(わがころも)(19巻21冊)は曳尾庵が20年かけて記した厖大な随想集で、寛永より宝暦までの世態風俗および化政期の同種の風聞などを年代順に配列したもので、江戸風俗を知るうえで重要な史料となっています。文化12年2月8日に松平鳩翁屋敷にて、大黒屋光太夫(江戸に向かう途中漂流し、ロシアに9年半滞在して、帰国した伊勢出身の船頭)に面会し、ロシアの話をいろいろ聞いたことも書かれているそうです。

 加藤曳尾庵が「浮世絵類考」を書写して、書き込みを入れたのは、文化12年ですから、ちょうど大黒屋光太夫に会った後で、猿楽町に小さな家を借りて住んでいたころです。曳尾庵は、南畝の稿本を借りたか、山東京伝が手書きした写本を借りたのか、ともかく「浮世絵類考」を写して、いろいろ書き入れたようです。


写楽論(その32)~「浮世絵類考」(6)

2014年05月23日 09時14分33秒 | 写楽論
 大田南畝という偉大な文人について私は今のところ勉強不足で、南畝の書いたものでは、この「浮世絵類考」のほかに下記の書誌に載っている短い引用文をいつか読んだだけです。小池正胤氏の「反骨者大田南畝と山東京伝」(1998年 教育出版)と、加藤好夫氏が「浮世絵芸術」126号に寄稿した「大田南畝に書き留められた浮世絵師達」です。(加藤氏は「浮世絵文献資料館」という素晴らしいホームページを作成している方で、これは大変参考になります)
 また、南畝について、詳しい上に分かりやすくまとめてある文章として、ホームページ「日本語と日本文化 壺齋閑話」(引地博信氏執筆作成)にある「大田南畝」が参考になります。
 大田南畝のことについてはここでは最小限にとどめるとして、寛政の改革以後の南畝の動向だけを書いておきます。

 南畝が、狂歌による世相風刺を自粛し、文筆業から離れるのは、天明7年(1787)、松平定信が老中首座に就いて寛政の改革を開始してからです。田沼政治の腐敗が粛清され、関係者の更迭と処罰が行われましたが、南畝の後援者もその中にいたらしく、南畝は自分に累が及ぶことを危惧したのではないかとも言われています。知り合いでもある武士階級の戯作者二人が幕政批判のかどでお上から咎を受けたことも、南畝にとってショックでした。朋誠堂喜三二の断筆(天明8年)と恋川春町の死去(寛政元年)です。
 幕府から次々に倹約令が出され、贅沢の禁止、風紀取締り、出版統制が厳しくなり、安永・天明期の文化的高揚と熱気が、冷や水でもかけられたように冷めて、自由放埓な雰囲気が消え、束縛された重苦しいムードが漂い始めていました。
 寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で、京伝が手鎖50日、版元の蔦屋重三郎が身代半減(財産半分没収)の処罰を受け、10月には石川雅望(狂名:宿屋飯盛)が贈賄罪で江戸払いになります。南畝にとって親交の深いこの三人の処罰は第二のショックでした。南畝が狂歌を発表するのを辞め、「浮世絵考証」を書き始めたのはこの頃です。また、南畝は、人生の転換期を自覚し、幕僚として生きる道を模索し始めます。
 南畝は寛政5年(1793年)に45歳になりますが、かつて狂歌ブームを巻き起こし、戯作に従事し、かつ遊興にひたり、江戸文芸サロンのリーダー格として著名文化人たちと交友を深めながら歩んできた20代30代を思い浮かべ、懐古気分に浸りながら、自分の今後の人生を考えたのだと思います。松平定信が失脚したのは同年7月です。
 寛政6年(1794年)春、南畝46歳の時、幕府の人材登用試験(学問吟味という)を受けて合格します。(寛政4年秋に受験した時は不合格でした) 4月に登城し、出仕するや毎日、山積した公文書の整理に取り掛かかり、休みなしに働いて狂歌をひねる暇もなかったようです。
 蔦屋から写楽が役者絵約30枚を引っさげてデビューしたのはこの年の5月ですが、南畝が写楽の絵を見たかどうかは怪しいものです。なにしろ就職して間もない頃ですから、南畝は落ち度のないように仕事に専念していたのではないでしょうか。
 その後、膨大な文書の整理や地方出張での調査など、20年以上にわたり幕府の一官吏として勤務に励みました。(文政6年、大田南畝は75歳で大往生します)

 再び「浮世絵類考」の話に戻ります。
 寛政12年5月あるいはその少し前に、南畝は、笹屋新七邦教が作成した浮世絵師の系譜「古今大和絵浮世絵始系」を入手します。この系譜は、版元の鱗形屋から出版されたものでした。笹屋新七邦教という人は江戸本銀町一丁目の縫箔屋主人とありますが、経歴不詳で、南畝との関係も不明です。南畝はこの系譜を書写し、それを終えると、自らが作成した「浮世絵考証」の後ろにこの系譜を付録として添え、奥書(下記参照)をしたためて、一冊の本として綴じます。これが5月末日のことです。

右の始系は本銀町縫箔屋主人笹屋新七所書なり。写して類考の後に付記す、参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ。
庚申夏五晦                    杏花園 (蜀山印)


「庚申夏五晦」は、寛政12年夏五月晦日のことで、「杏花園」は南畝の別号です。「参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ」、つまり「参考にしてそれが事実でなければ訂正しなければならない。今後の検討をまちたい」ということです。この時点で、南畝は「類考」という名称を使っています。
 寛政12年(1800年)5月末日に、「浮世絵類考」は一冊の本として完成します。これを後世の「浮世絵類考」研究者たちは「南畝原撰本」と呼んでいます。
 その後、南畝自身、折を見て、多少書き加えたり、書き直したりしたかもしれませんが、「南畝原撰本浮世絵類考」は南畝直筆、私家版のこの一冊だけです。
 この原本を南畝の知人や関係者たちが、手書きで写し始めるわけですが、この原初段階の写本から、それをまた書き写した写本が生まれ、普及していきます。現在、「南畝原撰本浮世絵類考」は未発見で、おそらく今後も出てこないと思われます。