背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『外人部隊』(その2)

2015年01月14日 22時09分42秒 | フランス映画
 細かいことだが、この映画を見て気づいたこと、見終わってから調べて興味深く感じことについて触れておこう。

 10分ほどのプロローグの終わりに外人部隊に入隊する人々を描いたシーンがある。場所はフランスのどこかの港町(マルセーユあたり)のカフェであろう。ここでピエールは、ロシア人移民のニコラに出会う。二人が互いに自己紹介をしたあと、向こうを見ると、ピアノの周りで同国人の入隊者が数人いて歌を唄っている。その歌は、フランス語ではなく、歌詞に「ハイマート」(故郷の意)という言葉があるので、ドイツ語かとも思ったが、ドイツ人がフランスの外人部隊に入るのも不自然であり、よく聞くとドイツ語でもないようだ。今のところ不確かであるが、監督のフェデールと脚本家のスパークの故郷ベルギーの言語のフラマン語なのではないかと思う。彼らが唄っているショットがかなり長い間写されるので気になるところだ。

 場面が変わると、荒涼としたモロッコになり、外人部隊が道端で小休止している。その様子が、トラック・バックの長回しで映し出される。野外ロケであるが、実際にモロッコで撮ったと思われる。兵士が100人以上いるから壮観である。小休止が終わって、隊長が笛を吹くと、兵士たちは立ち上がって隊列を組む。地面に寝そべっているピエールが、ニコラに促されてやっと重い腰を上げる。そして行進が始まる。
 次にモロッコの町に移って、歓楽街のキャバレーとキャフェ兼ホテルの主要舞台(これはルネ・クレールの『巴里の屋根の下』などのセットでも有名な美術デザイナーのラザール・メールソンのセット)が出て、物語がいよいよ本格的に始まるが、外人部隊が町へ帰ってくる時の行進の様子がまたもや長回しで映し出される。これも野外撮影で、今度は街の一角にキャメラを置き、ゆっくり引きながら、鼓笛隊を先頭に向こうからやって来る外人部隊を延々と撮る。
 この長い行進の様子と鼓笛隊の音楽は、ラスト・シーンに生かされる重要なショットである。兵隊を見に、子供たちが走り寄っていくが、彼らは現地の子供たちにちがいない。兵隊もエキストラではなく、本当の外人部隊なのかもしれない。その隊列の後ろの方に、ピエールとニコラもいて、二人が歩いている姿をバスト・ショットで捉える。ジャック・フェデールは、こういう情景描写を手抜きせず、きっちり撮っている。データを調べてみると、ロケ地はモロッコのアガディール(Agadir)という港町である。ピエール役のピエール・リシャール=ウィルムとニコラ役のジョルジュ・ピトエフはモロッコ・ロケに参加したのだと思う。
 
 ところで、フランスの外人部隊というのは、その名の通り、外国人の入隊者を募って編成された部隊である。1831年創設というから、長い歴史がある。フランスは徴兵制であるが、人口が増加せず、また何度もの戦争で成人男子が不足して、外国人に兵力を頼った。この映画は、当時の現代劇であるから1930年頃の話で、第一大戦が終わって10年以上経ってからのことである。この頃の外人部隊にはイタリア人とロシア人が多かったというが、日本人も数十人いたそうだ。外人部隊は主に北アフリカのフランス植民地の統治のために利用されたが、現地人の反乱を鎮圧するだけでなく、道路建設などの労務にも携わった。この映画を見ると、その辺のところがきっちり描かれている。外人部隊を統率する将校は軍人出身のフランス人だったが、自ら志願し外人部隊に入隊するフランス人もいたという。ごく少数だったらしいが、その場合、国籍を変え、名前も変えたという。この映画のピエールは、フランス人であるから、苗字をマルテルからミュラーに変えていた。初めは伍長だったが、軍曹に昇格している。

 ニコラ役のジョルジュ・ピトエフ(1884~1939)は、当時のフランス演劇界では著名な俳優、舞台装置家、演出家、翻訳家であった。彼はアルメニア人で、若い頃モスクワ留学中に演劇に魅せられ、スタニスラフスキーと知り合い、ペテルスベルクで舞台を踏み、ロシア各地を巡業したというから、ロシアとも深い縁があった。『外人部隊』でロシア人の兵士を演じたのも適任だった。第一次大戦中はスイスのジュネーヴを拠点に演劇活動を続け、大戦後、パリに出て、自らピトエフ劇団を主宰して、フランスでも活躍したという。映画出演は2作だけらしく、そのうちの一本が『外人部隊』だった。


 ジョルジュ・ピトエフ
 
 途中でキャバレー「フォリー・パリジェンヌ」のショーの場面があり、前座で歌ったイルマ(歌詞を忘れるなど、歌は下手だったが、これも吹き替えなのだろう)に続いて、ドーヴィルという名前(役名)の女性歌手が登場するが、彼女はリーヌ・クレヴェール(1909~1991)と言って、パリ生まれの本物のシャンソン歌手である。1930年代から40年代にヒット曲も多く、女優としても数本の映画出演。フェデールの『女だけの都』にも魚屋の女房の役で出て、彼女の地を出して、コミカルな面白いキャラクターを熱演じている。『外人部隊』では、ワン・シーンだけの登場だったが、ニコラの恋人役で、陽気でいかにも下町のパリのおねえちゃんといった感じが出ていた。彼女が舞台衣装を身にまとい、身振り手振りを交えてシャンソンを歌う場面は、当時ミュージック・ホールに出演していた脂の乗った人気歌手の実態を伝える記録としても一見に値するものだと言えるだろう。聴衆も本当に喝采しているのがうかがわれる。


 リーヌ・クレヴェール

 歌人の塚本邦雄は、第二次大戦前からシャンソンをこよなく愛した人であったが、その著書にもリーヌ・クレヴェールのことが紹介されている。まず、「くりくりっとした眼の、はちきれるような肥り肉(じし)、下町女風のよくあるタイプ」と言い、「ミスタンゲットにはない胸の透くような爽やかさ、そこへ山椒と丁子を混ぜたような辛みこそ彼女の身上だろう。発散するエロティシズムも乾性(セック)で、巽(たつみ)上りの奇声も戦後のアニー・コルディあたりより遥かに洗練されている」と褒めている(塚本邦雄「薔薇色のゴリラ」)。

 

 主役のピエール・リシャール=ウィルム(1895~1983)は、演劇出身で、1930年代から40年代にかけて映画にも出演し、フランスで大変人気のあった二枚目俳優であったが、1947年を最後に映画界から引退し、以後は人民劇団の幹部俳優として演劇に専念した人である。
 
 マリー・ベル(1900~1985)も似たような経歴で、演劇から映画、そしてまた舞台に戻って演劇に専念した女優である。ベルはパリのコンセルヴァトワールを首席で卒業後、コメディー・フランセーズに入り舞台に立っていたが、1920年代終わりから30年代にかけて映画出演して人気を博し、「最高級のフランス女性」と呼ばれた。日本では、この『外人部隊』とデュヴィヴィエの『舞踏会の手帖』の2本の主演作で多くのファンを得て、憧れの対象となったフランス女優だった。『舞踏会の手帖』で、マリー・ベルが雪山に訪ねて行った山男の青年がピエール・リシャール=ウィルムで、まったく違う二人の共演がこの作品でも見られる。(つづく)


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『外人部隊』(その1)

2015年01月14日 16時31分16秒 | フランス映画


1934年5月、フランス公開。1935年、日本公開
白黒スタンダード 120分(DVDは109分)

監督:ジャック・フェデール
脚本:ジャック・フェデール、シャルル・スパーク(台詞も)
音楽:ハンス・アイスラー
撮影:ハリー・ストラドリング、モーリス・フォルステル
美術:ラザール・メールソン
助監督:マルセル・カルネ、シャルル・バロワ
編集:ジャック・ブリルアン

 行進していく兵隊の足音と鼓笛隊の合奏が悲しく、いつまでも耳に残る。
 ジャック・フェデール監督の『外人部隊』は、死ぬ運命にある男たちと彼らの身近にいる水商売の女たちに対し、やさしい眼差しを注ぎ、愛惜の念を込めながら人生のはかなさを描き出した悲劇的なドラマである。そのヒューマニスティックな描き方が、見る者の心に感動を生むのだろう。

 北アフリカの仏領モロッコ。外人部隊の駐屯地がある町の歓楽街に、「フォリー・パリジェンヌ(パリの狂乱)」というキャバレーと、中年男女が営むカフェ兼連れ込みホテルがある。外人部隊の兵士も酒場の女も売春婦も、故郷を捨て、流れ着いた者たちである。ここには気だるく沈殿した空気と隔離されたような息苦しさが漂っている。が、それは灼熱の地モロッコだからというだけでなく、人生の転落者や敗残者たちの嘆息と倦怠に満ちているからでもある。酒場の喧騒にも人間の悲哀があり、渇きを癒す享楽のなかにも虚無感が感じられる。そんなムードの中でこの映画は展開されていく。
 そうした世界にいても、男というのは過去の思い出に縛られ、苦しんだり、そこから逃げ出そうとあがいたりする。それに対し、女は意外にすっぱりと過去を切り捨て、不幸でも現実を受け入れてたくましく生活している。男は自己愛のかたまりで不幸な境遇に満足できず、女はどんな運命をも甘受し人生を悟っている。男は愚かで、女は賢いのである。この映画の登場人物を見ていると、男と女をそのように捉え、描いていることに気づく。これは、監督のフェデールと脚本を書いたシャルル・スパークの人間観なのではないかと思うが、男と女のドラマをこうした観点で作っているために、決してロマンチックな恋愛映画にはならない。

 パリの名門の御曹司ピエール(ピエール・リシャール=ウィルム)は、贅沢で気ままなフローランス(マリー・ベル)という美女に入れ込み、財産を食いつぶし、投機に失敗して莫大な負債まで作ってしまう。一族の名誉を重んじる伯父と義兄から国外追放を命じられ、ピエールは、フローランスを誘うのだが、金の切れ目が縁の切れ目で、体よく断られる。女に見捨てられたピエールは、結局、一人でフランスを離れ、志願して外人部隊に入る。この男、破滅型で自分を反省することもない。傍から見れば、彼の転落は自業自得であり、同情の余地はないように思われる。が、この映画は、こういう自堕落でダメな男を主人公にして、決して冷たく突き放さず、まるで憐れんでいるかのように描くわけである。
 ピエールは、外人部隊に入っても、別れた恋人のことが忘れられず、未練がましく愚痴をこぼして嘆いたり、思い出してはヤケを起こしたりしている。酒をガブ飲みするのも彼女を忘れるためである。そのくせ彼女からもらったライターを大切に持っていて、酔った勢いで、ライターを窓へ投げつけたりする。ピエールが愚痴ばかりこぼすので、同僚で親友のニコラ(ジョルジュ・ピトエフ)にいい加減にしろと怒鳴られる始末である。
 脇役のニコラは、大変印象に残る人物である。彼はロシアの移民で、ヨーロッパ各地を転々とし、外人部隊に入って、モロッコを自分の死に場所に決めている。外人部隊に入るというのは過去を精算するためでもあるのだが、ニコラはそれを弁えて自分の過去を誰にも語ろうとしない。親友のピエールにも何も語らない。ニコラはピエールよりもずっと大人で、苦い体験も積んでいる男なのだろう。しかし、過去を精算したと言っても、やはり懐かしい思い出をすべて捨て去るわけにはいかない。そのことがあとで分かる。ホテルの部屋の戸棚にロシア時代の思い出の品を隠していたのである。愛馬の写真、故郷の土、自分の顔写真が掲載されたロシアの新聞など。やはりニコラも心の奥では過去に縛られていたにちがいない。

 女の登場人物では、カフェ兼ホテルの女将ブランシュがこの映画の鍵を握っている重要な人物である。この役をフェデール監督夫人のフランソワーズ・ロゼーが見事に演じている。ブランシュは、厚化粧で魔女のような黒い服を着ているが、いつも所在なげで大儀そうである。カフェの外へは出ず、爪の手入れをしたり、煙草をすったり、飴をなめたり、小型扇風機で脇の下に風を当てたり、またトランプ占いなどをしている。ブランシュは、このホテルの主人のクレマン(シャルル・ヴァネル)の妻ではない。子供もいない。過去に何をしていたのかは分からない。この映画ではブランシュの身の上や過去をまったく明かしていない。もしかすると売春婦だったのかもしれない。クレマンの情婦になって、いっしょにこの街へ流れて来たのだろうが、ここで長年、旦那のクレマンと生活をともにしている。ブランシュは年齢的にも色事は終わったようで、今はただ馴れ合いでクレマンと暮らしている。二人は、食事の時以外、会話も少なく、キスをすることもない。旦那のクレマンは、キャバレーに女を送り込む女衒のようなことを裏でやっていて、自分のホテルの女中に手を出して、いまだにその方はお盛んである。ブランシュは旦那の浮気を気にもかけず、認めているようだ。
 そんなブランシュが、外人部隊の兵士二人、若いピエールとニコラには目をかけ、愛情を注ぐのだ。母性愛とも言えるが、一方通行の異性愛のようでもある。色恋を終えて久しい中年女の残り火のような愛情なのだろう。



 ブランシュがピエールにせがまれ、トランプで彼の運勢を占うシーンは、この映画のポイントになる重要な場面である。ブランシュが、「グラン・ジューgrand jeuという占いをやってあげるわ」とピエールに言うセリフがあるが、この映画の原題であるLe Grand Jeu(ル・グラン・ジュー)は、実はこの運勢占いのゲーム名だったことが分かる。『外人部隊』という邦題はそのものずばりだが、原題は意味深いタイトルのようだ。フランス語の名詞jeuは英語のplayにあたるが、「遊び」「ゲーム」「賭け事」「トランプの手札」のほかに「演技、演奏」などの意味もある。つまり、このタイトルには「大いなる賭け」「大熱演」といった意味もあり、監督、スタッフ、俳優の並々ならぬ意気込みも同時に表しているのではないかと思う。
 ブランシュはトランプを並べ、ピエールの近い将来の出来事を予言していく。「軽い怪我をする」「ある女と出会って恋をするが長続きしない」「茶色い髪の男を殺す」「以前の恋人に道でばったり出会う」など。このトランプ占いの場面を途中で挿入して、その後この予言が次々に的中していくように映画は進んでいく。
 この着想が、この映画を大変面白くした要因であったと思う。ここではまた、スペードの9(最も不吉な札)とダイヤの9が重なると死を意味するというブランシュの説明があるが、それがラストのトランプ占いに生かされる。巧みな伏線の張り方である。つまり、ブランシュの占いは必ず当たるということを映画の中で証明しておいて、最後の占いの場面でスペードとダイヤの9を出して、ピエールの死を確実なものにするわけだ。

 ピエールはキャバレーで、なんとフローランスに瓜二つの女イルマ(マリー・ベル)に出会い、ここから本格的なドラマが始まる。フェデールとシャルル・スパークの脚本は、起承転結型のオーソドックスな構成で、ドラマチックな起伏に富んでいるが、転の部分からのドラマ展開はとくに面白く、見ていて感心するところも多い。
 マリー・ベルがフローランスとイルマの二役を演じているが、顔かたちはそっくりでも、まったく違うタイプの女を演じ分けている。ただし、イルマの声はクロード・マルシーという女優の吹き替えである(彼女は脚本家シャルル・スパークの妻だったようだ)
 フローランスは、一種のファム・ファタール(男の人生を狂わす悪女)で、髪はブロンドで美しく着飾り、声は高く、早口である。パリの社交界の華のような明るい女であり、パトロンの金で生活している高級娼婦のようにも見える。一方、イルマは、モロッコのキャバレーに流れてきた歌手で、実は歌手というより下級の売春婦に近い女で、黒髪で、声も低く、話し方もゆっくりで、暗くて頭の弱そうな女である。イルマは頭に弾痕があり、過去の記憶を喪失している。ボルドーからバルセロナへ移り、食い詰めてモロッコへ渡ってきたことは覚えているが、それ以前のことは覚えていない。
 ピエールはイルマをフローレンスの代替的な恋人として愛し始めるのだが、このイルマが本当はフローレンスなのではないかと疑ってみたりする。自分と別れてから落ちぶれたフローレンスが自殺を図り、記憶喪失になったのかもしれないと思い、イルマを問い詰める。苛立って、イルマをなじり、つらく当たったりする。ピエールを愛するイルマは、ピエールが愛しているのは自分ではなく以前の恋人の幻影であることを知りながら、ピエールを慰め、あるがままの自分を愛してもらうためにピエールに誠心誠意尽くすのだ。



 こうしたストーリー、つまり、失恋した男が忘れられない恋人の幻影を求めて、似たようなほかの女を愛するといったストーリーは、よくある話だが、これを一人二役という配役で作った映画は、この『外人部隊』以前にあったのかどうかは、正直に言って、分からない。古いアメリカ映画にあったとしても無声映画だったのではあるまいか。トーキー以後の最も古い映画では、『外人部隊』がいちばん有名であることは確かだ。監督のフェデールは、ハリウッド滞在中に、二人のヒロインを同じ女優に演じさせ、片方の声を吹き替えにするというアイデアを思いついたのだという。当時フランスではまだトーキー初期に近く、アフレコで声を入れる技術も未発達で、苦労したにちがいない。しかし、マリー・ベルのイルマの声は口の動きにぴったり合っていて、知らないと吹き替えだとは気づかないほどである。
 ちなみに、ヒッチコックの『めまい』(1958年)は、筋立ても違い、片方の女の声に吹き替えは使っていないが、キム・ノヴァックが瓜二つの女を一人二役で演じている点では(と言っても、あとで同一人物だったことが判明する)、『外人部隊』と同工異曲である。『めまい』の原作はフランス人作家(ボワローとナルスジャックの二人)の推理小説で、ヒッチコックによる映画化を希望して書かれたものらしいが、二人の作家の年齢から言って、『外人部隊』を見ているはずで、この映画から小説の構想上のヒントを得たのかもしれない。(つづく)


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