背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

ジャック・フェデール(その2)、『モロッコ』と『外人部隊』

2015年01月15日 20時05分55秒 | フランス映画
 1930年、フェデールがガルボの『アンナ・クリスティ』のドイツ語版を作っていた頃、ジョセフ・フォン・スタンバーグがマレーネ・ディートリッヒ主演のドイツ映画『嘆きの天使』(1930年4月ドイツ公開)を作って成功し、ディートリッヒを連れてスタンバーグが再びハリウッドへ帰って、パラマウント映画で『モロッコ』(1930年12月米国公開、翌年2月日本公開)を作る。パラマウントがライバル会社のMGMの大スター・ガルボに対抗して、ドイツから呼んだディートリッヒを売り出そうという作戦であった。これが見事に的中して、『モロッコ』は大ヒットし、主演のゲーリー・クーパーもディートリッヒも以後国際的な大スターへの道を歩んでいく。



 『モロッコ』は、フランスの外人部隊の兵士トム・ブラウン(クーパー)とモロッコに流れ着いた女性歌手アミー・ジョリー(ディートリッヒ)との恋愛を描いたロマンチックな映画であるが、いかにもハリウッド調の娯楽作品で、エキゾチズムを漂わせるための借り物としてモロッコという背景と外人部隊を取り上げたにすぎなかった。カリフォルニアでの野外撮影とハリウッドのスタジオのセットで撮影された映画で、外人部隊もモロッコのアラブ人も偽物で、フランス人が見たら滑稽に思えるような代物だった。クーパーの色男の兵士も格好が良すぎて、あんなアメリカ人が外人部隊にいるはずもなく、一方のディートリッヒはフランス語と英語で歌い(彼女の母国語はドイツ語だが、フランス語も達者だった)、英語の台詞は少なめで、時々フランス語を話すが、この二人の登場人物の設定からして非現実的で、人物の背景も性格描写も浅薄であった。



 『モロッコ』は、アメリカだけでなく世界中でヒットした。日本でも大ヒットして、過大評価とも言えるほどの絶賛を博した。しかし、フランスでの評判は非常に悪かったそうだ。とくにラスト・シーンは酷評されたという。ディートリッヒが裸足になって、砂漠を行くクーパーを追いかけていく、あの最後の場面であるが、日中モロッコの砂の上など熱くて、裸足で歩けるはずがないというのである。
 ハリウッドで不遇をかこっていたフェデールもきっとカリフォルニアのどこかで『モロッコ』を見て、苦々しく感じたにちがいない。

 フェデールがフランスを離れているうちに、フランス映画もトーキーの時代に入り、後輩の若手監督たちが活躍を始めていた。クレールは、『巴里の屋根の下』(1930年)、『ル・ミリオン』(1931年)、『自由を我等に』(1931年)、『巴里祭』(1932年)を作り、デュヴィヴィエは『資本家ゴルダー』(1931年)、『にんじん』(1932年)などを作り、注目を浴びていた。少し遅れてルノワールが『素晴らしき放浪者』(1932年)を発表して頭角を現す。まさに1930年代、トーキー初期のフランス映画黄金期が幕開けしていた。フランスには演劇の長い伝統があり、舞台俳優たちがトーキー映画に出演し、その個性を存分に発揮し始めたのである。

 1933年2月、フェデールはおよそ5年ぶりにフランスへ帰ってきた。そして、脚本家のシャルル・スパークと再会し、二人でオリジナル脚本を練り、満を持して作った映画が『外人部隊』であった。これは、フェデールがフランスで初めて作ったトーキー映画だった。
 『外人部隊』は、フェデールが明らかに『モロッコ』を意識し、しかもそれを反面教師のようにして、リアリズムを貫いて作った映画である。現地でのロケ撮影を行い、ハリウッド的な甘美なロマンチズムとは反対に、人生の現実を見つめたドラマを作り上げた。

 『モロッコ』でディートリッヒが歌う場面と『外人部隊』でリーヌ・クレヴェールが歌う場面を比較して見ると、フェデールはキャバレーでフランス人のプロの歌手が唄うシャンソンは、本当はこういうものだと見せつけているような気がしてならない。『モロッコ』には、男装のディートリッヒが歌いながらリンゴを配り、色男のクーパーがリンゴを買う有名な場面があるが、スターを引き立てるあのような演出にフェデールは反感を覚えたにちがいない。
 また、『モロッコ』にも外人部隊が行進している様子を撮った画面が出てくるが、制服もバラバラの借り物でエキストラを使って適当に歩かせているだけだが、フェデールは『外人部隊』では兵隊の本式の行進をあえて長々と撮影し、小休止中や道路工事中の兵隊の様子、将校や隊長に対する下士官の態度などもきっちりと描いている。
 
 『外人部隊』は、1930年代フランス映画黄金期(トーキー初期)の数ある名作のなかでも傑作の一本になった。しかし、この映画は、フェデールの『モロッコ』に対する挑戦状であったにもかかわらず、米国では公開されず、フランスとヨーロッパの数国と日本でしか公開されなかったようである。それらの国々では大ヒットしたが、スタンバーグの『モロッコ』に比べれば、雲泥の差のある興行成績であった。フランス映画を愛好する日本では『モロッコ』に負けないほどヒットし、外人部隊という言葉が流行語になった。フランス国内では『モロッコ』よりはるかに好評で、フェデールが再評価され、彼はフランソワーズ・ロゼーとともに次の『ミモザ館』と『女だけの都』を作ることができたわけである。『外人部隊』という映画がなければ、ジャック・フェデールは忘れられた存在になっていたであろう。その意味で『外人部隊』は、彼の名を世界映画史上不朽なものにした記念碑的作品でもあった。


 フェデールとロゼー

 フェデールと共同でオリジナル脚本を書いたシャルル・スパークにとっても、後年フランス映画を代表する脚本家としての名声を得るきっかけとなった出世作となった。シャルル・スパークは、ベルギーの名門(父は詩人で劇作家)の出身で同郷のフェデールに呼ばれて、1920年代の終りにパリへ出て、最初フェデールの秘書をやっていたが、『俄成金紳士たち』でフェデールに協力して脚本を書き始めた。しかし、頼りにしていたフェデールが渡米してしまい、フランスに残って、ジャン・グレミヨンやジョルジュ・ラコンブといった監督たちの作品の脚本を書いて、脚本作りの腕を磨いていた。スパークは、『外人部隊』ののち、『ミモザ館』『女だけの都』のほかに、デュヴィヴィエと組んで『地の果てを行く』(1935年)『我等の仲間』(1936年)の脚本を書き、ジャン・ルノアールと組んで『どん底』(1936年)『大いなる幻想』(1937年)を書く。
 フランソワーズ・ロゼー(1891~1974)も、『外人部隊』で大女優としての存在感を印象付け、夫フェデールをフランス映画界にカムバックさせるために大きな貢献をした。まさに内助の功であった。そして、『ミモザ館』『女だけの都』で堂々と主役を演じ、続いて、フェデールの助監督だったマルセル・カルネの監督デビュー作『ジェニーの家』で主演し、カルネをバックアップし、その後も長いキャリアを維持していくのである。(了)

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ジャック・フェデール(その1)

2015年01月15日 19時32分59秒 | フランス映画
 ジャック・フェデール(1885~1948)は、1920年代のフランス無声映画時代から著名な監督だった。クレール、デュヴィヴィエ、ルノワールよりもずっと年長でキャリアも古い。監督の苗字のフェデールFeyderは、彼の俳優時代からの芸名であるが、日本語の表記が以前は「フェーデ」「フェデー」であった。現在はフェデールが多いようだ。フェデールの愛弟子だったマルセル・カルネのインタヴュー(『北ホテル』のDVDの付録にある映像)を聴くと、フェデールと後ろにアクセントを置き、末尾のRの音を発音しているので、「フェデール」という表記がふさわしいと思う。

 以下、ジャック・フェデールの経歴を書いておく。
 参考資料は、フランス語版ウィキペディア、飯島正「フランス映画史」(白水社)、岡田晋・田村力哉「フランス映画史」(世界の映画作家29 キネマ旬報社)などである。



 ジャック・フェデールJacques Feyderは、本名ジャック・レオン・ルイ・フレデリックス(Jacques Léon Louis Frederix)といい、1885年7月21日、ベルギーのイクセル(Ixelles ブリュッセルの南にある自治区)に生まれた。フェデールによると、「私は朝の9時に101発の祝砲に迎えられて誕生した。その日はちょうどベルギーの建国記念日だった」という。また、家系については、「曽祖父は将軍、祖父は劇評家、父は寝台車の国際的な会社を経営していた」というから、ベルギーの名門出身である。父親は、ベルギーの芸術家クラブの会長も務めていたらしい。
 フェデールの少年時代については不明であるが、軍人志望だったようだ。20歳の時、士官学校を受験して失敗し、一時期リエージュにある造兵廠に勤めた。が、母の死後、一転して舞台俳優を目指すようになる。父は彼が俳優になることに反対し、本名を使うことを禁じる。それで、フェデールという芸名を名乗るようになった。
 25歳の頃、故国ベルギーを離れ、パリへ出る。パリでは、いろいろな劇団で端役をやっていた。映画にも出演するようになり、フランスの大手映画会社ゴーモン社に出入りしているうちに、俳優より演出に興味を覚え、1915年、監督ガストン・ラヴェルの助手になった。第一世界大戦の頃で、師匠のラヴェルがフランス軍に召集され、作りかけの映画をフェデーが完成させた。短篇映画『足と手』Des pieds et des mains(1915年)である。これが好評で、ゴーモン社の社長レオン・ゴーモンの目にとまり、1916年に映画監督として一本立ちした。デビュー作は"Têtes de femmes, Femme de tête"(「女たちの頭と頭の女」)で、フランソワーズ・ロゼーが主演している。ロゼーはすでにフランス演劇界では有名な女優で、フェデーはその2年ほど前、リオンでの舞台公演中に彼女と知り合い、恋仲になっていたらしい。フェデーは1916~17年に映画を十数本作っているが、すべて短編の喜劇作品だった。1917年フェデーはロゼーと結婚するが、ベルギー軍の要請で慰問劇団に入り戦地を回ることなる。しかし、間もなく帰還し、1918年、ゴーモン社へ戻り、短篇La Faute d'orthographe(「綴りの誤り」)を作るが、いざこざが起こり、社を辞めることになってしまう。
 
 その後、自ら映画製作に乗り出し、1921年、フェデール一世一代の大作『女郎蜘蛛』L'Atlantideを作る。原題は「アトランティス大陸」(ギリシャ神話で、大西洋に沈んだとされる失われた大陸)で、ピエール・ブノアの冒険小説を映画化した。サハラ砂漠にある某王国をフランスの一士官が訪れ、その国の女王に惑わされるというストーリーである。主役の女王役は有名なロシア生まれの舞踊家スタシア・ナビエルコウスカだった。フェデールは、野外撮影のため、現地ロケを敢行。原作に描かれたサハラ砂漠へ実際に赴き、8ヶ月に及ぶアフリカ・ロケで完成した。ロケ撮影が一般的ではなかった当時からすれば、まさに驚くべき決断であった。フェデールは、後の作品の特色となる自然環境の描写法を、この映画によってマスターしたと言われている。『女郎蜘蛛』(1926年日本公開)は製作費400万フラン(現在の日本円にすると3億か4億円くらいだろう)、上映時間3時間に及ぶ大作だったが、興行的にも成功を収めた。これでフェデールは一躍脚光を浴びた。



 1921年以降は、フランスだけでなく、ドイツ、スイス、オーストリアといった国々から出資者を探して、寡作ながら名作を発表した。『クランクビーユ』(1922年)、『雪崩』(1923年)、『面影』(1923年)、『カルメン』(1926年)、『テレーズ・ラカン』(1928年)などで、『雪崩』以下は日本でも公開され、高い評価を受けた。(『女郎蜘蛛』ほか上記4作品については、双葉十三郎の「ぼくの採点表 別巻・戦前篇」に内容解説がある。)
 1928年、フェデールは、フランスで『俄(にわか)成金紳士たち』Les Nouveaux messieurs(日本未公開)という無声映画を作るのだが、これが検閲にひっかかる問題作であった。この映画は同郷のベルギー人シャルル・スパークと初めて共同で書いた脚本で、主演はアルベール・プレジャン、ギャビー・モルレ、スタッフには美術にラザール・メールソン、撮影にジョルジュ・ペリナール、助監督にマルセル・カルネが加わっていた。政治的な風刺コメディで、議会の会議中に踊り子たちが乱入し、議場のあちこちで踊りまわるというシーンがあったらしい。議会を愚弄しているという理由で、検閲が通らず、大幅に削除された挙句、公開されたのは数ヶ月も経ってからだった(1929年4月フランス公開)。
 その時すでにフェデールはフランソワーズ・ロゼーとともに渡米し、ハリウッドの映画会社MGMと5年契約を結んでいた。彼がハリウッドへ渡ったのは、『俄成金紳士たち』の上映禁止問題もあったが、世界恐慌がフランス経済と映画界にも波及し、資本力の弱い映画会社が多いフランスでは作りたい映画が作れなくなったからだった。また、ベルギー人であったフェデールは、フランスに帰化したとはいえ、思想的にアウトサーダー的存在で、フランスの体制側とも映画会社とも折り合いがうまくつかなかったようでもある。

 フェデールのアメリカでの第一回監督作品は、大スターのグレタ・ガルボ主演作『接吻』The Kiss(1929年11月米国公開)であった。これはガルボ最後の無声映画(サウンド版)で、フェデールが監督して作った『テレーズ・ラカン』(1928年ドイツで製作。エミール・ゾラ原作。弟子のマルセル・カルネが1953年にリメイクした。その邦題は『嘆きのテレーズ』)に似たような内容の作品であった。それで、MGMはフェデールに監督を任せたのだろうと思うが、『接吻』は、フランスのリオンが舞台で、ガルボ演じる人妻が嫉妬に狂った夫を射殺し、裁判にかけられるといったストーリーだった。


 『接吻』撮影中のフェデールとガルボ

 フェデールは続いて、ガルボ初のトーキー映画『アンナ・クリスティ』のドイツ語版を作り(アメリカの英語版はクラーレンス・ブラウンが監督し、1930年1月公開。フェデールのドイツ語版は同年12月公開)、そのほかにフランス向けの映画2本とMGMの男優スターであったレイモン・ナヴァロの主演作『あけぼの』(1931年)と『印度の寵児』(1931年)という娯楽映画を2本(どちらもトーキー)作った。(フェデールの『接吻』『あけぼの』とクラーレンス・ブラウンの『アンナ・クリスティ』については、双葉十三郎の前掲書に内容解説がある。)
 この頃、映画はサイレントからトーキーへの転換期で、フェデールは渡米前、フランスとドイツで無声映画だけを作ってきたが、ハリウッドでトーキー映画の最新技術を学んだ。しかし、フェデールは英語で書かれた脚本をもとに英語の台詞をしゃべる俳優を演出しなければならず(彼はフランドル語が母国語で、フランス語とドイツ語ができたが、英語も達者だったのかどうかは分からない)、また、フランスとはまったく違うハリウッドのマスプロ的な製作方式になじめなかったようだ。結局、フェデールは、ハリウッドでは本領を発揮できず、2年半ほどで、MGMの窓ぎわ監督となってしまった。1931年半ばから1933年初めまでフェデールは1本も映画を作っていない。(つづく)


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