背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーの半生(6)

2019年07月28日 12時01分13秒 | チャーリーパーカー
 父チャールズ・パーカー・シニアの墓は探索中で、まだ見つかっていない。したがって、生年月日と死亡年月日は不詳。また、母アディの話では、チャーリーが17歳の時、彼のお父さん(つまり自分の夫)はある女性に刺殺され、葬式も行ったというが、死亡記事も葬式の記事も見つかっていないようだ。公式書類で判明しているのは、以下のことだ。
 チャールズ・パーカー・シニア Charles Parker Sr.は、1886年か1887年に、カンザス州ショーニー郡トピカTopekaか、あるいはテネシー州のどこか(メンフィスかもしれない)で生まれた。黒人と記載(混血かどうかは不明)。(27歳の時)イ―ディス・ズルチャインEdith Zulchineという同い年の白人女性(出身地は不明、外国からの移民かもしれない)と結婚。1914年6月13日にイリノイ州のシカゴでジョン・アンソニー・パーカーJohn Anthony Parkerが誕生している(出生証明書あり)。

 母アディの話(「チャーリー・パーカーの伝説」)では、夫チャールズ(シニア)のことも腹違いの長男ジョンのことも分からないことだらけだった。ジョンはチャーリーより2歳年上だと言うので、不可解だと私は思っていたのだが、実は6歳年上だった。ジョンは、チャールズ(シニア)と先妻の間にできた子で、黒人と白人のハーフ(英語ではmulattoと言う)であった。

 ジョンが生まれて間もなくチャールズとイーディスの夫妻は、シカゴからカンザス州のカンザス・シティ(第3地区)に引っ越す。これは私の推測だが、カンザス・シティはチャールズ・パーカー・シニアの生地で、ここに実家があったのではなかろうか。
 1915年のカンザス州住民調査によると、カンザス・シティの住居(Washington Boulevard)には、チャールズ(28歳)、妻イーディス(28歳)、息子ジョン(生後9か月)のほかに、チャールズの祖母ジェイン・グッドロウ(75歳)、母エラ・パーカー(45歳)、妹ベッシー・パーカー(20歳)が同居していた。父はいない。この家の戸主は母エラ・パーカーである。チャールズは妻子とともに、母の住む実家に転がり込んだのだろう。

 しかし、妻イーディスはいったいその後どうなったのだろうか。ジョンを産んで間もなく、消えてしまったようなのだ。チャールズと別れて家を飛び出したのか、それとも死んでしまったのか? まだ人種差別が強かった時代に、白人女性が黒人と結婚し、ハーフの男の子まで産んで、しかも黒人家庭に同居するというのは、大変なことだったと思う。カンザス・シティは、とくに人種差別が激しく、白人女性とデートしている黒人が殺される事件もあったという。
 1920年時点でジョン(5歳)は、カンザス・シティの同じ家に残り、祖母エラ(父チャールズの母)と曾祖母ジェインのもとに預けられていた。父チャールズと母イーディスはもうこの家にはいない。
 1920年と言えば、チャーリー・パーカーが8月29日に生まれた年で、チャールズ(シニア)はすでにアディ・ボクスレイAddie Boxley(旧姓はベイリーBaileyほかの表記もある)と再婚していたはずである。アディの話では、チャーリーが生まれた家は、カンザス州のカンザス・シティの郊外で、フリーマン・ストリート852番地だったという。
 この住居と、チャールズ(シニア)の実家すなわち母エラが住んでいて長男ジョンのいる家は、同じカンザス州のカンザス・シティにあったのだが、近かったのだろうか。チャールズ(シニア)は実家を訪ねることがよくあったと思うが、アディとチャーリーも行ったのであろうか。異母兄ジョンは、しばしば父の家に来て、弟のチャーリーと遊んだのだろう。チャーリーは兄ジョンのことを「アイキー」Ikeyと呼び、ジョンも弟チャーリーを可愛がっていたらしい。ジョンと幼い頃のチャーリーの二人が写っている写真が残っているので、載せておこう。


<チャーリーは4歳ごろ、ジョンは10歳ごろか?>

これまで出版されたチャーリー・パーカーの伝記本では、父チャールズについての記述はほんの数行で、異母兄ジョンについても簡単に触れた程度だった。また、母アディの結婚前後についての記述もなかった。今後、パーカーの伝記を書く人は、ここに挙げた点に留意して、書き改める必要があると思う。
 ちなみに、ギディンス著「セレブレイティング・バード」にはこう書いてある。
 チャールズ・パーカーはミシシッピに生まれ、メンフィスで育った。黒人ヴォードヴィルの興行組織「T.O.B.A」(Theater Owners’ Booking Association、1911年結成)サーキットのダンサー兼シンガーとしてツアー中にカンザス・シティに流れついた。
「チャーリー・パーカーの伝説」にあるアディ・パーカーの話では、「チャールズ(ジュニア)のお父さんは、メンフィスの出身で、私がはじめて彼に会ったころには、カンザス・シティ周辺のヴォードヴィルのステージで、ピアノを弾き、歌をうたっていました」という。
 チャールズ(シニア)が1914年にシカゴで先妻と暮らしていた頃、ヴォードヴィリアンをしていたかどうかは不明である。また、巡業中にカンザス・シティに流れて来て、ここに住みついたという記述も疑問のようだ。1915年以降、アディが彼に会った時は、ヴォードヴィリアンをやっていたということだけは確かなのだが、20代の頃の彼の履歴はまったく分からない。


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