<アディ・パーカー 何歳の時かは不明>
チャーリー・パーカーの母のアディという女性は、察するに、女傑というか、大変な肝っ玉かあさんだった。夫に逃げられ、息子がハイスクールに入ってから約2年間は、昼も夜も働きづめで、金を稼いだ。日中は白人の家で家政婦をやり、夜遅くから翌朝までは公営の電報電信局の大きなビル内の清掃をしていた。彼女と息子チャーリーが住んでいた家は、黒人居住区のオリーヴ通り1516番地に建っていた木造の二階屋で、借家だが二階を全部知り合いに又貸しして、家賃を取っていた。自分と息子は、一階に住んでいた。一階には居間と台所と寝室が2部屋あり(2LDK)、居間には夫が残していったピアノがあったという。
で、アディは睡眠時間まで削って、いったい何のためにこんなに一生懸命働いていたかというと、息子を医者にするための教育費と、持ち家を買うための資金を蓄えていたのだ。
しかし、第一の目的は果たせず、息子のチャーリーは学校をさぼりまくり、勉強どころではなくなって、彼女の夢は潰え去ってしまう。だが、第二の目的は10年後に果たすことができた。同じオリーヴ通りを少し下ったところの1535番地に、立派な2階建ての家を買ったのである。1943年のことだった。その時からずっと、いつかこの家で、息子チャーリーとその家族たちと一緒に暮らすことを思い描いていたのだという。だが、この希望もかなわずに終わってしまう。
<カンザス・シティ(ミズーリ州)・オリーヴ通り1516番地の現在>
アディ・パーカーの前歴を調べてみたので、書いておこう。
アディの旧姓は、ボクスリーBoxley が正しいようだ。チャーリー・パーカーの出生証明書にはベイリー Baileyと書いてあり、他の公式書類には、Bayley, Boyleyと書いたものもあるようだ。がこれは、筆記体で書いた文字の読み違い、転記ミスであろう。また、アディ Addie という名は、アデレイドAdelaide の略称らしい。けれども、一般にはAddieで通し、公式書類もすべてこの名で署名していたようだ。墓石にもAddie Parker と刻まれているので、まあ、この正式名らしき名前は、あってないようなものだろう。Charlie の正式名Charles とは訳が違うと思う。
それと、アディの誕生地であるが、テキサス州のヘンプステッド Hempstead あるいはオクラホマ州のマッカレスター McAlester のどちらかのようだ。彼女の一族はオクラホマ州マスコギー Muskogee 出身で、アディはチョクトー族の血が4分の1混っていたと書いた本もあるようだが、これも真偽不明である。伝記作家がひねり出した根拠薄弱な推測かもしれない。チョクトー族Choctawというのは、北米の先住民(いわゆるアメリカ・インディアン)で、当時オクラホマ州に多くいたようで、アディがオクラホマ州出身で、顔つきや体形も少しインディアンに似ているところがあるので、そんな説を持ち出したのだろう。
アディは、20代の時、オクラホマ州からカンザス州へ移って来て、チャールズ・パーカーと出会い、結婚した。その時、本当は25歳だったのだが、18歳だと偽った。そして、1898年8月21日生まれをその後もずっと通し、22歳でチャーリーを産んだことにしていた。チャーリー・パーカーは母の実年齢を知っていたらしく、1950年5月のインタビューでは、「彼女はとても活発で……62歳なんだけど、看護学校を卒業したばかりだ。老けてはいないし、動作もきびきびしている」と話している。1950年で62歳としたら、1888年生まれになって、10歳も年寄りになってしまうが、これはいったいどうしたわけなのだろう? アディは、働きながら看護学校へ通って、62歳(?)で、介護婦の資格を取り、カンザス・シティの大病院に就職する。その後、10年ほどここで勤めて引退したようだ。
これは余談だが、アディは夫チャールズが家を出た後、愛人が出来て、彼を時々家へ招き入れていたという。ある日、チャーリーは、母がベッドでその男といっしょに寝ているのを目撃してしまう。その時、母は苦しまぎれに言い訳したそうだが、ショックだったにちがいない。チャーリーがハイスクールに通っていた頃で、その後、母がその男と寝室にいる時、チャーリーは居間で独りポツンとしていたという(レベッカの話)。そして、多分この愛人だと思うが、アディは1940年頃、その男と同棲するようになったらしい。新たに家を買ったのは彼と新居で暮らすためだったのかもしれない。
そして、チャーリー・パーカーが死んだ後、アディはアウグストゥス・ダニエルという77歳の人(どうやら以前の愛人と同一人物らしい)と、1963年5月に正式に結婚している。しかし、結局彼とは離婚したようだ。
アディが亡くなったのは、1967年4月21日である。彼女は最愛の息子の隣りに埋葬されたが、その墓石には、1891年8月21日という正しい生年月日が刻まれている。
<カンザス・シティ(ミズーリ州)のリンカーン墓地にある母子の墓>
次回は、チャーリー・パーカーの初恋の女性で最初の妻になったレベッカ・ラフィンについて書きたいと思う。
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